14.心配されるのも悪くはない 1
寒さも厳しくなる十二月初頭、川に沿うように発達したシリングスの町は、川からの冷気に一気に凍りつく。
それでも町はクリスマス一色に染まる。子供たちは積った雪で遊び、大人たちも雪かきの合い間に飾りつけに余念は無い。恋人たちは寒さも知らずにいちゃつき、一人者は一層寒さが身にしみる。
仕事帰りのアマーリエは早足で歩きながら、寒さをしのぐ。実際、昼間にイルマから聞いた話で寒さどころの話ではなかった。
ここ最近、一段とアルトリートは寝ていることが多くなったと感じていた。だからツェツィーリアから聞いた話で、ヨハンの態度に気を配っていたのだが、城の中がいつもと変わらなかったので気づけなかった。
「アルトリートの馬鹿……」
城への山道を登りながら、思わず罵る言葉が口から漏れる。
ヨハンが町に下りてきて、数多の女性と噂になっているのは、まわりまわってアルトリートのせいなのだ。ヨハンが主人である悪魔の食事の用意しなければならないのは、自ら進んで力の補給をしようとしないアルトリートが悪い。いや、むしろ進んでした方が早いような気もするが、するならしたでそれもあまり嬉しくないような気もする。だが、生きる上で必要ならば仕方がない。
弾む息を整え、玄関を開ける。
今日は早引きをさせてもらったのだ。不意をついたのでヨハンは出迎えに出てこない。というか、出て来れないのだ。ここにいないのだから。
よし、っと一つ頷くとコートも脱がずにそのまま居間へと向かう。
ノックをして扉を開けるとふわりと暖かな空気がアマーリエの頬を撫でる。
「アルトリート」
入り口側のソファに背を向けて座っている濃金髪が目に入り、アマーリエはコートを脱ぎながら近づく。
「ちょっと、あなた。ヨハンに何をさせているのよ」
ソファを回り込んでアルトリートの正面に行き、アマーリエは怪訝に思って口を閉ざした。
閉じられた瞼から綺麗に弧を描くように生えそろった長い睫毛はチョコレート色の瞳を隠し、腕を組むようにして微かに傾いた身体は寝苦しそうで、その顔はすごく不機嫌そうだ。それでも見惚れてしまうほど美しいと思わせる悪魔は、またもうたたねをしているようだった。
少し考えた末、アマーリエは息をのんでアルトリートの肩に手を伸ばした。部屋は温かいとはいえ、うたたねは良くない。果たして悪魔が風邪をひくのか疑問だったが、寝苦しそうなので一度起こした方がいいだろと思ったのだ。
「アルトリート、起きて。寝るのだったら横になった方がいいわ」
昔、アマーリエは椅子に座ったまま眠って、首の筋を痛めたことがあった。それ以来、うたたねはしないと誓っている。
ヨハンのことは取りあえず置いておき、肩を揺さぶる。
眉をしかめて、うっすらと睫毛の下からのぞくチョコレート色の瞳は焦点があっていないのかぼんやりとアマーリエを見上げた。
「もう夕方なのか……」
どうやら寝ぼけてはいないようで、欠伸を噛みしめて軽く背伸びをしている。もう目覚めの体勢に入っているアルトリートに悪いことをしたかと思って立っていると、ちらりと当の本人がこちらを眺める。
「どうした、そんなところに突っ立って。……それに、まだ帰ってくるには早い時間じゃないのか?」
時計に目をやり、そしてニヤリと笑う。
「仕事を首になったのか?」
「違うわよ」
完全に目覚めた様子なので、あらためて向かいのソファに座りコートを畳んで隣に置く。
そして昼間にイルマから聞いた噂の話しをした。
「ヨハンがシリングスの町で女性を手玉に取ってるって聞いたの。あなたがさせているの?」
「なぜそんな話になるんだ」
興味なさそうに視線を反らしたアルトリートの表情は無表情に近い。それは限りなく無表情を装っているがどことなく不機嫌にも見える。だが、アマーリエは続ける。
「ツェツィーリアさんが言ってたの。あなたが眠そうなのって、力の供給が足りていないからだって……」
「……余計なことを」
小さく舌打ちしたのをアマーリエは聞き逃さなかった。だから一息に話す。
「あなたの力の源は、人間の欲だと聞いたわ。それにはこの町には欲望が少なすぎると言ってた。でも人間がいる限り欲望を産ませることは可能だって……。ヨハンはあなたの為に女性の気持ちを利用しているのよね?」
「……だとしたらどうだと言うんだ」
不機嫌も露わな低い声音に、アマーリエは怯みそうになる。だが直接アルトリートの視線がこちらを向いていないだけ、完全に負けはしない。
引きかないと、お腹に力を入れる。
「他の方法はないの?」
「……別に命まで奪っているわけではない。これでも地道な手段を選んでいるんだ。あまり……こちら側に首をつっこむな」
向けられた視線は鋭くて、言われた言葉にやっと近づきかけていた心の距離を拒絶され、両手を握りしめる。その拒絶が、ひどくアマーリエに驚愕を与えた。
同じ屋敷で生活を始め、それなりにお互いの生活感と距離感は縮まってきたと感じ始めていたというのに、そう思ったのはアマーリエだけだったのだろうか。そもそも、無理やりアマーリエの生活に押し入って来たのはアルトリートの方なのだ。それなのにアマーリエの生活には干渉するのに、アルトリートは近づくことを拒絶する。心配することも許さないというのか。
俯いて唇をかみしめると、かすかに口の中に血の味が広がった。
ムカムカと込み上げてくる怒りに、思わず立ち上がる。
「アルトリートの馬鹿!もう心配なんてしてやらない!」
隣に置いておいたコートを掴むと、思い切りアルトリートに投げつけた。
逃げ出すように居間から走り出て、後ろから呼び止めるアルトリートの声を無視する。
名前を呼ばれない限り、行動を抑制されない――。
アルトリートがアマーリエの名前を呼んだのは、最初の一回。あれ以来、アマーリエは行動を抑制されたことはない。復讐するといいながらしないのも、それはアルトリートにする気がないからだ。アマーリエの名を呼ばないのも、アルトリートは行動の抑制をする気がないからだ。つまりそれはどうだっていいということだ。
階段を駆け上がり、自室に辿り着くと扉に鍵をかけた。
いつもなら夕方にはヨハンが暖炉に火を入れてくれているので部屋は暖かい。冷え切った室内に立ちつくし、そしてコートさえアルトリートに投げてきたことを早くも後悔した。
今まで貧乏暮しをしていた為、コートは必要に迫らなければ買わなかった為に一着しかない。
「……馬鹿はどっちよ」
思わず呟き溜息をつく。
取りあえず、室内用の毛玉の出来たカーディガンとストールを巻き付け、どうしようかと考える。
アルトリートにはああ言われたが、人間の、それも女性側の意見を言わせてもらうと、黙ってなどいられない。女性の純粋な気持ちを利用するなど許せるものではない。
あいにくアマーリエの部屋は二階だが、テラスから庭に下りられる造りになっている。
毛玉の出来ているカーディガンは見た目的に良くないので、それは脱いでワンピース丈のセーターに着替える。下はデニムのパンツのままだが、ワンピースのおかげで太ももはそれほど冷たく感じないだろう。ストールはこのまま巻いて行くことにする。コートのように風を通さないわけではないが、幾分かましだろう。
窓を開け、テラスに出て息を吐くと、やはり部屋よりも外気は冷たく視界は白く霞んで見えた。
シリングスの町に舞い戻り、取りあえず勤め先のパン屋に顔を出す。
「おや、マーレじゃないか。どうしたんだい、忘れものかい?」
レジにいたイルマが笑顔を向けてくる。
「いえ、そうじゃなくて……。昼間、イルマさんが話していた噂を教えてほしくて」
「あれ、いいのかい?婚約者のいる身で他の男に余所見なんて」
楽しそうに言うイルマに曖昧に笑って誤魔化す。忘れていたが、アマーリエとアルトリートは婚約しているということになっていたのだ。関係を説明するのも面倒臭かったので敢えて否定しなかったのだが、噂が落ち着いてみればすっかり町の人間に二人の関係を認められていた。
だが、先ほどのアルトリートとのやりとりを思い出し、ムカムカと怒りが沸き起こる。
つい語調を強くして言ってしまった。
「いいんです!」
ハッと慌てて口元を押さえると、イルマが目を大きく見開く。そして心配げに声を落とす。
「喧嘩でもしたのかい?でも、自棄は起こしちゃいけないよ。あとで後悔することになるからね」
「あ、違うんです」
慌てて両手を振って否定する。だがイルマは深々と溜息をつく。
「原因は何であれ、婚約者はあんた一筋っていうじゃないか。噂の男のように手当たり次第っていう悪い男じゃないんだから許してやることも必要だよ」
「あの、違う……」
アマーリエの言葉に耳を貸そうとしない雇い主に、徐々に否定も尻すぼみになる。
「これから長い年月一緒にいるんだから、ここはあんたが一つ大人になってだね、譲ってやればいいよ」
「――はい……」
完全に押し切られた形になり、仕方なくイルマに頷き返す。どうやら素直に忠言を聞き入れたアマーリエを見て、それ以上言う必要はないと思ったのだおろう。途端、目をきらめかせて詰め寄ってくる。
「ところで、何が原因で喧嘩をしたんだい?」
「いや、あの別に喧嘩ってわけじゃなくて……」
やっと弁解出来そうな雰囲気だったが、喧嘩を否定すると途端興味を失ったようにぽけっとする。
「そうなのかい?別に遠慮しなくてもいいんだけど……。まあ、困ったことがあるならこのイルマに相談するんだよ。あたしゃ、あんたの母親代わりをつとめる気なんだからね」
多少早とちりもあるが、悪い人ではないのだ。
感謝の言葉を述べ、やっとアマーリエは最初の質問に戻る。
「それで、昼間の噂を教えて欲しいんですけど」
「ん?ああ、そうだったね。あれはロクな男じゃないね」
他人の事を吐き捨てるように言うイルマを、珍しいものでも見るような目で見てしまった。
本当に珍しい。
イルマは大抵あまり他人の悪口を言わない。噂は好きだが、それに添える感想も決して人を貶めるようなものではない。表裏もなく、カラッとした性格で、アマーリエが両親を失った時には本気で泣いてくれて、それがすごく救われもした。
そのイルマが、貶めるような言葉を吐いたのだ。これは覚悟をして聞かなければならないだろう。
「今月になって、あたしが聞いただけでも六人だ。実際見たのも、四人ときている。あの男は確かに見目はいいだろう。ああ、あんたの婚約者ほどじゃないよ。だが、ここいらの町の者に比べたら都会的とでもいうのかねぇ。昼間にも言ったと思うけど、さらさらの銀髪で黒い瞳が印象的な、冷淡な雰囲気の男だよ」
「冷淡なのに……モテて、いるの?」
矛盾に、首を傾げる。男女の機微はよく分からない。
「雰囲気が、だよ。よく使い古された言葉だけど、甘いマスクで甘い言葉を囁かれたら、大抵の女の子は参るんじゃないかねぇ」
イルマの話を聞くかぎりでは、確かに外見的要素はヨハンを指している。だがアマーリエの中では、どこまでも子供のヨハンしかいないのだ。甘いマスクと言われても想像できないし、甘い言葉を囁くなどもっての外だ。
「どこに行けば会えるかしら?」
「止めときなよ。あんたには婚約者がいるんだから、近づかない方がいい」
「そこまで言われたら興味が沸くじゃないですか。それに、遠くから見るだけなら……外見だけならあの人の方がいいのでしょう?」
出来るだけアルトリートを引き合いに出すのはしたくなかったが、この際仕方ない。
それにヨハンなら大人の姿も見てみたいというのが本音だ。
「それはそうだけど……。いいかい、絶対に近づいちゃ駄目だよ」
何度も念を押され、漸くイルマがその男をいつも見かけるという場所を教えてもらえた。
それを聞いて、やはりヨハンに間違いないと確信する。
礼を言ってアマーリエはパン屋を出た。目的の場所は思いのほか近かった。