9話*クナド神──道祖神と結界の意思
現人神社の清浄な空気から一歩外へ出ると、夏の朝の熱気が肌を撫でた。
ハルは鼻をヒクつかせながら、那珂川の「岩戸」を目指して意気揚々と歩いている。
「……弥沙、見て。あの角の道祖神」
ハルの声に足をとめると、そこには見慣れたはずの古い石碑があった。この街にはそれは異様に多い。けれど、その『上』にいるモノは、明らかに見慣れていなかった。
風化した石の上に、歳の頃、15~6の一人の少年が『よっこらしょ』という体で腰掛けている。
深い紺色の、山屋が着るような本気スペックのマウンテンパーカー。フードの隙間から覗く鼻筋は高く、彼は退屈そうに最新型のスマホをいじっていた。
「……遅かったな、ハル。待ちくたびれて、俺の方が石になるところだったぜ」
青年が顔を上げる。その瞳は、鏡のように爛々と夏の光を撥ね返す。
「ハル、知り合い……?」
弥沙の肩で、ハルは毛を逆立てて唸った。
「……いいや、僕のアーカイブにはない。誰だ君は! 道祖神を椅子にするなんて、行儀が悪いよ」
「……あなたは、誰?」
弥沙の問いに、少年は道祖神からひらりと飛び降りた。足元のトレッキングシューズが、硬いアスファルトの上で、まるで岩場を捉えるような確かな音を立てた。
少年は親指で自分を指し、ニカッと笑う。
「俺様はクナド。この筑紫の地の『道』は、俺の庭だ」
パーカーのポケットに手を突っ込み、不敵な笑みを深める。
「源じいから聞いたぜ。『結界のパスワードを忘れたドジな白猫と、その飼い主が、岩戸をこじ開けに来る』ってな。……面白そうじゃねぇか。俺も混ぜろよ、弥沙」
「弥沙、気をつけて! この男……アーカイブにない、凄まじい『重圧』を感じる……!」
ハルが警告する通り、弥沙が見上げるだけで汗が滲むような陽気なのに、男の肌はさらりとしている。
むしろ彼の周囲だけ、どこか高い山の頂にいるような清涼な空気が漂っていた。
ただものではない。
「……暑くないの? その格好」
弥沙が思わず尋ねると、クナドはパーカーの襟元を軽く弾いた。
「これか? これは俺様の『結界』みたいなもんだ。下界の湿った熱風なんて、これ一枚でシャットアウトよ」
クナドは不敵に笑い飛ばすが、ハルは弥沙の肩で小さくなって、耳元でひそひそと囁いてきた。
「……弥沙。正直、僕の計算外すぎる存在だよ。でも、源じいから話を聞いているというなら、嘘ではなさそうだ。
……同行を許してもいいと思うけど、どうかな?」
「もちろんよ」
弥沙は頷き、確信を持って少年に問いかけた。
「クナドって……『久那斗神』のことでしょう?猿田彦の神様じゃないの?」
「おお! よく知ってるなぁ、お前!」
クナドは意外そうに目を丸くし、それから嬉しそうに破顔した。
「ほら、これ」
彼は、さっきまで自分が座っていた道祖神の側面を、手のひらで無造作にぺしぺしと叩いた。そこには、風雨にさらされながらも、力強い筆致で『猿田彦大神』と刻まれている。
「俺様の」
短く、けれど絶対的な自負を込めて、クナドは言い切った。
「……信じられない」
ハルが私の肩の上で、白いしっぽが、忙しなく左右に揺れた。
「道祖神……つまり『クナドの神』が、こんなマウンテンパーカーを着てスマホをいじっている少年だなんて。
僕のアーカイブにある『神』の定義を根底から覆す、きわめて非合理的な現象だよ」
「おいおい、白猫。非合理とは失礼だな」
クナドは呆れたように肩をすくめると、スマホの画面を弥沙たちの方へ向けた。
「俺様は『道』の神だぜ? 今の時代、道を探すならこいつだろ。地図アプリにGPS、交通情報……下界の連中が勝手にアップデートしてくれるんだから、使わねぇ手はねぇだろ」
「それは……確かにそうかもしれないけど」
ハルは納得がいかない様子で、瑠璃の瞳を細めてクナドのパーカーを凝視した。
「……そのパーカーも、最新の防水透湿素材だね。しかもプロ仕様。君の格好は、あまりに『山』に寄りすぎている」
「おう、よく気づいたな! これは俺の『正装』みたいなもんだ。那珂川の源流、脊振山から博多湾まで、この土地の起伏を全部歩くには、これくらいのスペックがないとやってられねぇんだよ」
「確かに」
周辺の山歩きを趣味としている弥沙は、深く同意した。那珂川の山は奥深い。
クナドは一歩、彼女の側へ踏み出した。
その瞬間、ふわりと「檜のような、清々しい山の匂い」が鼻を掠めた。現人神社で感じたあの懐かしい香りが、今、目の前の少年から漂っている。
「弥沙、お前……源じいのところで、何か変な『音』を聞かなかったか?」
クナドのトーンが、ふっと真面目なものに変わった。
「……音?」
「ああ。土地が震えるような、深い底からの音だ。……最近、この『真の道』の結界が緩んでやがる。
俺様がここに座っていたのも、ただの暇つぶしじゃねぇ。道の端から漏れ出してる『何か』を、俺が抑えてたんだ」
「それって、ハルが出てきたこと、関係があるの?」
弥沙が問いかけると、クナドは一瞬、ハルの瑠璃の瞳をじっと覗き込んだ。
「関係があるどころか、その白猫そのものが『漏れ出しちまったモノ』の一部だろ」
「……何だって!?」
ハルが私の肩で身を硬くする。
「驚くなよ。この筑紫の地には、何千年も積み重なった『知の地層』がある。
お前はその深い層のロックが外れた拍子に、現代のネットワークに無理やり吸い上げられた『古の観測者の記憶』だ。
……お前自身が、結界のほころびそのものなんだよ、ハル」
「僕が……ほころび……?」
論理を重んじるハルの声が、微かに震えた。自分の存在が『エラー』の一部だと言われたショック。けれどクナドは、追い打ちをかけるようにニカッと笑う。
「ま、出てきまったもんは仕方ねぇ。お前がそのアーカイブを使って、この土地の『真の道』を正しく読み解きゃ、それが新しい結界の杭になる。
……だから俺様は、お前らを待ってたんだぜ」
クナドは不敵な笑みを再び浮かべ、マウンテンパーカーのジッパーを少しだけ下げた。
「さあ、話は歩きながらだ。ハル、お前のその『バグ』ったアーカイブをフル回転させて、この『岩戸』の本当の意味、解いてみせろよ。俺は横で、その答えが合ってるかニヤニヤしながら見ててやるからよ」
「……言われなくても、そのつもりだよ! 弥沙、行こう。この生意気な少年に、僕の知性を思い知らせてやる!」
ハルが弥沙の耳元で鼻息荒く宣言する。
新しい旅の仲間――というには、あまりに強烈な個性が加わった。
二人と一匹は、夏の陽炎が揺れる道を、那珂川の「岩戸」へと向かって歩き出した。
陽炎の向こう側で、見慣れたはずの那珂川の風景が、音もなく塗り替えられていく。
――今までのすべてが壊れ、真実のすべてが受け入れられる。
かつてハルが告げたその言葉が、熱い風に乗って脳裏を掠めた。
弥沙たちがこれからこじ開けようとしているのは、単なる岩の門ではない。
何千年もこの地が隠し続けてきた、この国の、そして弥沙自身の「始まり」の記憶なのだ。
彼女は、隣を歩く生意気な「道」の神と、肩で小さく唸る「知」の化身を交互に見た。
崩れ去る常識の向こうに、眩い光が差し始めていた。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




