1章*7話*神話の幻視と神功皇后
霧が晴れると、そこには音のない、黄金色の光に満ちた静寂が広がっていた。さっき御神木の前で触れた、あの深い檜の香気が、いっそう濃くなって弥沙を包み込む。
香気そのものが、かの神の意志であるかのように弥沙に訴えかけてくる。――干渉されているのだ、と肌が粟立った。
腕の中にあるハルの確かなぬくもりだけが、ここが底知れぬ異界ではないことを教えてくれる。
「あれは──伊弉諾だ」
ハルの鈴を転がすような澄んだ声に導かれ、弥沙は目を凝らす。
そこには、髪をみずらに結った一柱の男神が、深淵のような悲しみを背負ったまま、よろめくように歩いていた。
「これは、神話の源流だね。どうやらこの本は、記された文字の向こう側……神々の記憶そのものを呼び覚ましているようだ」
男神は、その身に黄泉の穢れを纏ったまま、救いを求めるように水音のする方へと、おぼつかない足取りで進んでいく。
愛する妻を追い、黄泉の国へ下った神。けれど、そこで見たのは、腐敗し、変わり果てた妻の無惨な姿だった。
逃げ奔る彼を、黄泉の醜女たちが執拗に追いすがる。
「やがて、現世との境である黄泉平坂に来た時、彼は巨大な岩を立てて道を塞いだんだ。
それが道返大神。……そして、汚れた身を清ぐために、水辺へと向かうんだ」
弥沙の目の前で、景色がゆらりと歪んだ。
立ち込めるのは、身を切るような清冽な水の匂い。男神が、ざぼん、と海の中へ入り、膝までを碧い水に浸す。
「そうして、そこから神々が生まれるのね……」
弥沙が息を呑んだ瞬間、男神が水の底を濯ぐと、そこから光が溢れ出した。
底津少童命、底筒男命。
潮の中ほどで、中津少童命、中筒男命。
潮の表面で、上津少童命、上筒男命。
一筋の光が弾けるたびに、荒ぶる水霊たちが次々と産声を上げる。
「その内の、底筒男、中筒男、上筒男の三柱こそが――住吉三神だよ」
男神が最後に、掌に掬った水でその顔を洗う。
すると、彼の左目から燃えるような太陽の陽光が溢れ出て天照が。
右目からは静謐で透き通るような月の滴が零れて、月読が。
そして鼻からは、嵐を孕んだ息吹が吹き荒れて須佐之男が。
三柱の貴き神々が、同時に、天を焦がすほどの光を放って立ち現れた。
「……綺麗。みんな、同じように輝いてる」
弥沙は思わず、その完璧な調和に見惚れて呟いた。
一つの源から分かたれた光は、鏡合わせのように尊く、この世界の理を分かち合っているように見えた。
「そうだね、弥沙。彼らは『三貴神』。尊く、等しくこの世界を統べる姉弟だ」
ハルの声が、その神々しい調和を祝福するように響く。
「でも、その足元にある、この水と、この大地……。これこそが、全ての神々を産み落とした『始まりのゆりかご』なんだよ」
「そう。その神々が産声を上げた場所こそ、禊の地――」
そうして、ハルの声と、弥沙の心の声が重なる。
──筑紫の日向の小門の橘の檍原
その名を唱えた瞬間、黄金の絵巻物に『亀裂』が走った。ファンタジーのような美しさが無惨に剥がれ落ち、代わりに生々しい、泥と潮の匂いが弥沙の鼻を突く――。
猛り狂う暴風の中、船団が海を走る。
「……っ、何、これ……!?」
弥沙は思わずハルを強く抱きしめた。
そこにあるのは、もはや静寂ではない。荒れ狂う玄界灘の怒濤が、巨大な軍船を木の葉のように翻弄している。
帆を叩く風の咆哮。兵たちの血を吐くような叫び。
その船の舳先に、身重の腹を抱え、鎧を纏って凛と立つ一人の女性がいた。
「神功皇后……」
弥沙がその名を呟いた瞬間、海面から三筋の巨大な光の柱が突き抜けた。それは先ほど見た、あの美しい神々の輝き。けれど、今は違う。
それは慈悲深い光などではなく、荒波をねじ伏せ、敵を討ち払うための、凄まじい『力』の奔流だった。
「……見て、弥沙。船の舳先に神がいる」
ハルの声が、風に掻き消されそうになりながら響く。
神功皇后が乗った船の舳先に立っているのは、天へと繋ぐ光の柱を身に宿した──神そのものであった。
ビジョンが再び揺らぎ、今度は静寂に包まれた香椎宮の神殿へと移り変わる。
戦いを終え、凱旋した皇后が、自らに《《神がかり》》をした存在に問いかける。
『私を助け、船を導いてくださったのは、どなたなのですか』
その問いに答える、低く、地響きのような声が神殿に響き渡った。
――日向国の橘小門の水底にいて、水葉も稚やかに出で居る神。その名は表筒男・中筒男・底筒男……。
その神託が静寂に溶けると同時に、眩い光の渦が引いていく。
ふっと、鼻先をあの檜の香りがかすめた。……これは、あの神様が見せてくれたのか。
*
気がつくと弥沙は、現人神社の境内のベンチに座っていた。
突き刺さるようなセミの声が、一気に耳の奥へ戻ってくる。
弥沙は激しい鼓動を抑えながら、膝の上でしっぽを巻いたハルを見つめた。その手には、まだあの激しい潮風の感触が、本を通じた熱として残っているような気がした。
ハルは瞳を金色に揺らしながら、確信に満ちた声で告げる。
「……弥沙。今見たものは、単なるおとぎ話じゃないよ」
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




