6話*神との邂逅──那珂川の現人神社──
しばらく歩くと、深い緑に包まれた静寂が降りてきた。住宅地のただ中に、そこだけ時を止めたような威厳を湛えて、石造りの鳥居が佇んでいる。
『現人神社』
地元の神様として、数えきれないほど、この鳥居をくぐってきた。
けれど今日、境内の奥から溢れ出す空気は、まるで意志を持つ生き物のように弥沙の肌をなで、魂を揺さぶる。
一歩、踏み込む。
夏の濁った熱気が嘘のように引き、高く茂る常盤木の隙間から、清らかな光が零れ落ちる。
地面に描かれた柔らかな斑は、古の記憶を映し出す鏡のようだった。
「ここが、住吉神の元宮」
ハルが、鈴を転がすような声で言った。
「全国に二千を数える住吉神社の、源流の地だね」
手水舎の水は、冷たかった。
その冷たさも、境内の奥に淀む静けさも、すっかり肌に馴染んでいる。見上げれば、梢の奥でアオバズクが静かに子を育んでいた。
もうすぐ夏越の祭、そして流鏑馬の季節が来る。この土地には、神を呼ぶ声が絶えない。祈りが風となり、神の力となる。
ここは、神への信仰が地層のように厚く積み重なった、稀な場所なのだ。
本殿へと歩を進めれば、踏みしめる砂利の「ざり」という音が、静寂の幕を裂くように高く響く。
その時だ。
不意に、香しい風が鼻先をかすめた。
花でも線香でもない。それは、古い記憶の底に眠る何かを呼び覚ます、深く甘い、悠久の香気。 檜に似ているけれど、もっと奥深い。
「ハル、何か、いい香りがしない?」
「……僕には分からない」
ハルが耳をぴくりと動かした。
「けれど、君の鼻がそれを捉えたなら、それは『真実』だ」
弥沙は導かれるように、御神木の前に立つ。
天を突く巨木の幹に触れると、ざらついた表皮の奥に、大地を流れる奔流のような鼓動が伝わってくる。
その瞬間、視界が歪んだ。
境内の景色に、黄金色の「別の時間」が重なり合っていく。
御神木の梢に、白く静かな光が宿った。 それは雫が滴るように、滑らかに幹を伝って降りてくる。
光が形を成した。
がっしりとした体躯に、袖のない貫頭衣のような清浄な衣を纏っていた。腰に結ばれた鮮やかな紐と、肩から流れる高貴な紫の布。
太い腕を組み、泰然とこちらを見据える存在。
弥沙は一目で悟った。
──神だ。
神は弥沙を見ると、軽く、片手を上げ、屈託なく破顔一笑。
それは畏怖すべき超越者というより、永い旅路を終えて帰還した旧友を迎えるような、親愛に満ちた笑顔だった。
── やあ、久しぶり。
耳ではない。胸の奥底に直接、言葉になる前の純粋な思念が響いた。
弥沙は、全身が震える。
「……久しぶり、って」
声が掠れる。なぜか、堪えようのない愛おしさが込み上げ、視界が滲んだ。
──○何度目かな。
「何度目……?」
神は答えず、ただ慈しむように社と境内を見渡し、ふたたび弥沙を射抜いた。
── ここは、神話が起きた場所だ。
「神話が、起きた……」
弥沙は、その言葉をなぞるように繰り返す。
神は静かにうなずく。
光が、ゆっくりと粒子となって透けていく。
「待って! 私は、あなたを知っている!」
弥沙の心の叫びを吸い込み、光は御神木の中へと消えた。芳香が霧散し、後に残ったのは、むせ返るような青葉と土の匂いだけだった。
地面には、ただ夏の光の斑だけが、何事もなかったかのように揺れていた。代わりに鼻をついたのは、初夏の風が運んできた、むせ返るような木葉と土の匂い。
足元に寄り添うハルの体温が、かろうじて弥沙を現世に繋ぎ止めていた。
「何か、見えたんだね?」
ハルは紺碧の瞳を見上げる。深淵の宇宙みたいだ。弥沙はまだ茫然としながら思った。
「君の体が変わったのは分かった」
「変わった?」
「心拍が上がって、それから、ゆっくりと落ち着いた」
そういう言い方をするんだ、と思った。
少しおかしくて、でも、それがハルらしい。
「ハル、あの神は何者なの。私、とても懐かしい気がしたの」
ハルは少し間を置く。
「おそらく、住吉神」
静かに言った。
「弥沙も知っての通り、ここは住吉神の元宮。現人神――この世に人の姿で現れた神だ。神功皇后を助け、共に戦ったとされているね」
「神功皇后……」
土地の伝承として、何度も耳にしてきた名前だ。けれど、今さっき見たあの神の笑顔──。
皇后を傍らで支え、共に戦ったとされる武内宿禰と、弥沙の中で不思議なほどしっくりと、その伝説の光景に重なっていく。
幻視の中で、顔を見たわけでもなかったのに。
さっき見た、溝の水が、頭の中に蘇った。
千八百年、流れ続けている水。
「じゃあ、あの神が言った『ここは神話が起きた場所』って」
「そのままの意味だと思う」
ハルは言った。
「日本神話の舞台は、ここ那珂川だった可能性がある」
「でも、神話って、宮崎とか、出雲とか、奈良とか」
「そう思われている」ハルはゆっくり言った。
「でも、僕の中にある情報と、この土地の伝承を合わせると、違うものが見えてくる」
ハルの藍色の瞳に、一瞬光が宿った。
「今、アクセスした。……驚いたな。住吉の神様が最初に現れた場所だ。」
その時、弥沙のリュックの中にある本――『二柱の天照』が、ずしりと重くなった。まるで、そこに意志が宿ったかのように。
「……ハル。この本、熱いよ。勝手に……ページが開こうとしてる」
弥沙は吸い込まれるように境内のベンチに腰を下ろした。ハルが隣に飛び乗り、弥沙の膝の上でしっぽをくるりと巻く。
「……ハルに、こんなことができるの?」
弥沙の不安そうな問いに、ハルは誇らしげに喉を鳴らし、弥沙の手にそっと自分の白い肉球を重ねた。
「僕も導者だからね。……さあ、見せてあげるよ。本が導くままに」
ハルの声が響いた瞬間、周囲の夏の喧騒が遠のき、現人神社の緑が水面のように揺らぎ始めた。
重なった手と肉球を通じて、弥沙の脳裏に、怒涛のような光の粒子が流れ込んでくる。
そうして、二人の目の前に、音を立てて神々の世界が展開した。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




