5話*青年・武内宿禰と奴国の影
「……武内宿禰が、若かった……?」
弥沙が呟いた。
カケスの源じいは、羽の手入れをし始めた。鳥の習性があるらしい。ひとしきり繕ってから、ぴょんとその場で跳ねた。
「……源じいさん、裂田溝の岩を砕いた男の人って、翁じゃなかったの? 」
すると、枝の上で「んにゃ」と短く鳴いて、可笑しそうに首を振った。
「んにゃ、ちがったぞ。お前さんくらいの若さか、せいぜいその少し上くらいじゃった。ちっとも翁などではなかったわい。凛々しく、恐ろしいほどの気を纏った青年じゃったよ」
「武内宿禰が……青年?」
──その時、なぜか胸に浮かんだ者がいた。夢の中で見た、金色の小さな冠を戴き、白い衣を纏ったあの男の人だった。
……いや、まさか。そんなはずはない。
その荒唐無稽な符合を、頭の隅へ押しやった。
武内宿禰が翁ではなく、青年だった?
源じいの記憶を介して見た『実際の過去』によって、弥沙の知っている「歴史」が、足元から音を立てて剥がれ落ちていく。
それは、逃れようのない運命の裂け目。そんな予感が、弥沙の胸を騒がせた。
ハルの周囲に木漏れ日が舞う。紺碧の瞳に金色の光が走った。
「武内宿禰は、『日本書紀』の記述では、三百歳を超える長寿とされている。五代の天皇に仕えた忠義の者という。さらに、様々な神社に神として祀られている。宗像の織幡宮とかね。彼は神になる者だよ」
ハルは、ひたと、弥沙を見つめる。
「岩を裂いた若い男には、天に届く光の柱があった。武内宿禰に間違いないよ」
光の柱……。弥沙はこの安徳台の光を思った。
「弥沙も見ただろう」
どっちの? とはあえて聞かなかった。──どちらもだ。
『日本書紀』や『古事記』、神社の縁起や銅像で見る武内宿禰は、いつも長い髭を蓄えた翁の姿。
疑いもしていなかったことが、違った。
「でも、あれは本当の過去」
呆然と呟く弥沙の足元で、白い猫が静かに、けれど確信を持って言った。
「伝承は、長い時間をかけて形を変えられる。後世の人間に都合よく、あるいは納得しやすい形にね。でも、源じいの記憶にあるのは、誰のフィルターも通っていない『その時』の真実だ」
弥沙は、ふと思い当たった。
「もしかすると、『武内宿禰』という存在自体、都合よく変えられている可能性はある?」
「その可能性はあるね。後の世の者が、ある人物を『武内宿禰』として設定した、とも考えられる」
ハルの淡々とした声が、かえって冷酷な響きを持って弥沙の耳を打つ。
──神話のいったい、どこからどこまでが真実なのか。弥沙はその底知れない深淵を覗き込んだ気がした。
「じゃが、娘さん」
「はい」
「彼らは、この地に豊穣をもたらした者。彼らが存在したことは真実じゃ。この地の神は、生きて存在した神なのじゃ」
弥沙は、はっとして、カケスを見る。
「古代において、この溝を通す力を持ったものは、彼らをおいて他にいない」
カケスは梢の隙間の空を見る。古代と繋がる空を。そして、吸い込まれそうな黒い小さく、けれど強い眼差しで、弥沙を見つめた。
「じゃが、溝はここにある。彼らと違う者ならば、彼らを差し置いて、神話にするじゃろうか」
梢がさらさらと音を立てる。
「裂田溝は、この地の悲願。人間は案外、受けた大恩に対しては義理堅いものじゃ。自分たちの命を救ってくれた者に対して、礼儀をつくすものよ」
それは、まるで喝采の拍手のように。
「彼らは、枯れた大地を『瑞穂』の海に変えた。以来、一度も飢えることはなかった、類まれな土地なのじゃ」
カケスは大地に染み付いた声に耳を澄ますように、目を細めた。
「稲を植えるたび、民はこの溝に刻まれた彼らの大恩を思い出し、感謝し続けてきたのじゃよ。それは今の世まで連綿と続いとる。途切れなくな」
弥沙は、言葉もなく頷く。カケスの言葉に宿る熱が、肌に伝わってくるようだった。
彼は、バタバタと羽をばたつかせる。
「この地に豊穣をもたらした、彼らはこの地の者にとっての神じゃ。名が違う。それは、名を変えられただけじゃ」
興奮したのか、ふーっと息を吐いた。
「わしは見てきた。間違いないぞ。この目でしかと見てきた。岩戸の里の神。それが彼等じゃ」
「川の那珂川から西を、昔は岩戸郷と言った。今でも岩戸地区があるね」
ハルが凛とした顔で告げた。そのことは地元の者でないと、なかなか知らない。
ネットで見たのかな? と弥沙が感心してると、ハルが言った。
「……知識として知ってるんだよ。この地が岩戸であったことも、神功皇后の話も」
ネットの海から拾い上げたデータではない。ハルの内側にあるアーカイブは、それを『歴史』と呼んでいた。
「でも、不思議なんだ。源じいの話を聞いていると、僕の『記録』のさらに奥底に、何かがねっとりとこびりついている。知識じゃなくて、もっと生々しい……例えば、あの砕け散った岩の破片の熱さとか、泥の匂いとか。僕がまだ思い出せない、本物の記憶のようなものが……」
ハルの言葉が、弥沙の胸を鋭く突いた。ハルも、同じなのだ。何か大切なことを『忘れている』のではなく、『閉じ込められている』。
「始まったら、もう止まれんぞ」
源じいがバサッと梢を揺らし、小さな羽を羽ばたかせ飛んでいく。
「ありがとう! またね」
ハルの呼びかけに、カケスは「また、いつかな」とだけ残して、青い翼を空に溶かしていった。
「行こう、弥沙。ここで何があったのか。それを確かめるのが、僕たちの最初の仕事だ」
「ここで?」
二人は並んで、木立を出た。広い安徳台の天辺を見つめる。
「この地は、奴国と呼ばれていたんだよ。この安徳台には、二千年以上前の遺跡の甕棺墓や住居跡が見つかっている」
ハルは辺りを見回した。
いつの間にか、蝉の大合唱が聞こえてきた。先ほどは遠慮してくれてたのか。
「ここは奴国の有力者が住んでいた可能性が大いにある」
ハルの言葉に、弥沙は足を止めた。
「奴国と、彼らが関係あるの?」
教科書や展示パネルの中の、ただの無機質な記号だった場所が、急に熱を帯びて迫ってくる。
「そう。まさに、そこに神功皇后がいたとしたら? これって、どういうことだと思う?」
ハルが首を傾げて見上げた。
「えっ……でも、時代が違うはずでしょう。奴国が栄えたのはもっと古くて、神功皇后はもっと後の時代の人だって……」
「ふふふ。時代なんて、後からどうにでも書き換えられるものさ。重要なのは、今もここに『その時』の地層と記憶が眠っているってことだよ」
ハルが、白い尻尾をピンと立てて歩き出す。
弥沙は、自分の常識が音を立てて崩れていくのを感じながら、その後を追う。湿った土の匂いと共に、遠い昔、この地で天を揺るがした女王の、微かな残り香がした気がした。
光を含んだ白く輝く、小さな後姿を見ながら、最も聞くべきことを口にした。
「ハル、あなたは私に会いに来たの? なぜ?」
白い猫は、ちょこんと座って首を少し傾けた。
「君はさっき、何を見た? 武内宿禰が青年だと知った時」
「……夢の人と重なった」
「夢を見て、本に導かれてここに来て、僕と出会った。そうして、この地の神の記憶に触れた」
ざあっと風が鳴った。
「これは、必然だ」
その言葉は、弥沙の胸を打った。
弥沙の胸の奥で渦巻く渇望は、もう抑えられないところまで高まっていた。
「その正体を知りたくはないかい? 僕の記憶の鍵は、君の中にあるんだ」
「知りたい。あの夢が何なのか。あの人は誰なのか」
「長い旅になるよ。それは……この国の未来を変えてしまうかもしれない。今までのすべてが壊れ、真実のすべてが受け入れられる。そんな、新しい夜明けだ」
ハルが何を言っているのか、その時の弥沙にはまだ分からなかった。
猫は迷いのない足取りで歩き出す。
安徳台の坂道を下りきると、夏の強烈な光と共に、さらさらと流れる水の音が全身を包んだ。
日本最古の水路、裂田溝。
今も滔々と流れるその澄んだ水は、機械も道具もなかった時代の「執念」そのものだ。
「きれい……」
安徳台沿いの渡り廊下を歩く。すれ違う人と挨拶を交わしながらも、弥沙の意識は足元の白い猫と、バッグの中の『二柱の天照』に注がれていた。
「ここが造られたのは、神話上では住吉神の神田に水を引くためだったよね」
「そう。住吉神のためだよ」
「……ここには、住吉神の元宮、現人神社があるよ」
「それだ!弥沙、行こう」
住宅地を縫うように流れる古の水路を横目に、二人は現人神社へと急いだ。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




