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44話 神部物部*紀氏

 弥沙は、目の前で楽しそうに浮いている童子たちを改めて見つめた。

 志賀海神社の伝承に現れた、二匹の亀。そういえば、由緒書きには『雌雄の亀』と記されていたはずだ。


「二人って……どっちかが女の子なの?」

『はい。わたくし亀吉が、人の生物学的には女人にございまする』


 白い珠を首から下げた童子が、春の陽だまりのような満面の笑みを向けた。その姿は、この世の光を透かしてしまいそうなほど淡く、けれど揺るぎない存在感を放っている。


「伝承の通りなんだ。ふふ。二人とも、ありがとう。本当に……凄まじいものを見せてもらったわ。とっても面白かった」


 亀吉はその場でくるりと軽やかに回り、亀助は少し照れたように頭をかいて微笑んだ。潮騒が耳に心地よく響く中、弥沙はずっと胸に(くすぶ)っていた疑問を口にした。


「ねえ……『八幡愚童訓』は石清水八幡宮の由緒記でしょう? 神社の成り立ちを記した、正統な記録のはずよね」


「うん。それがどうかしたのかい?」


 ハルは、その瑠璃色の瞳を好奇心に輝かせ、弥沙の顔を覗き込んだ。弥沙の思考が、今まさに歴史の深淵へと手を伸ばそうとしているのを察したのか、その尻尾が期待に小さく揺れている。


「なのに、肝心の八幡様がちっとも活躍していなかった。……もちろん、八幡様は神功皇后の御子の応神天皇だから、この物語の時点では、まだ生まれる前だってこともあるけれど……」


「俺様も思ったぜ。由緒記ったあ、普通は祭神が主役を張るもんだろうが。なのに出てくるのは住吉に、あの磯良に……高良の野郎ばっかりじゃねェか」


 そこまで言って、クナドは珍しくハッとしたように口を(つぐ)んだ。

 弥沙とクナドの視線が、火花を散らすように絡み合う。それは、論理を超えた直感が、歴史の暗部を射抜いた瞬間の沈黙。


 潮騒の音が、一瞬、遠のいた気がした。


『本当ね! クナド、珍しく冴えてるじゃない。思い当たることありありなのね』

 ツキがここぞとばかりに、容赦ない言葉をクナドにぶつけた。


「これって……何か、大きな意味があるのよね?」

 弥沙は、亀にじゃれつかれているハルに言葉を振る。亀吉たちが姿を戻していた。


「ちょっ、待って! くすぐったいってば! ああ、もう……ちょっとたんま!」


 ハルは必死で亀たちをなだめ、前足でパンパンと砂を払うと、わざとらしく優雅に座り直した。その仕草はどこか誇らしげで、瑠璃色の瞳には知性の光が宿っている。


「そうなんだよ。応神天皇よりも、神功皇后や高良神、磯良神たちのことがほとんどなんだ。それに関しては、『神秘書』から面白いものが見えてくるよ。弥沙、あの本と鏡を出して」


 弥沙はリュックから『二柱の天照』と、『物部の鏡』を取り出した。古びた紙の匂いと、鏡のひんやりとした冷たさが指に伝わる。本の上に鏡を置くと、鏡面が淡く青白い波紋を打ち始めた。


ぽちゃん……。


 静かな波紋の音。それは、現実の耳に届く音ではなく、弥沙の意識の底に直接響く、時を遡る音だった。鏡の中から曼陀羅のように、古風な筆文字が立ち上がった。


<< 高良大菩薩の御記文にも、五姓をさだむること、神部物部を秘せんがためなり >>


「これが『神秘書』にある『神部物部の五姓』の一文。そして、これが……」


 ハルが前足を動かすと、別の文字列が空中に浮かぶ。


<< 安曇氏、丹波氏、草部氏、草賀部氏、前田氏 >>


「その五姓だよ。見て、弥沙。これがどう繋がるか」


 ハルは一瞬止まって画面を見つめた。

 その小さな前足で(くう)を払うと、瑠璃色の瞳に呼応するように、空間に青白い光の文字が滲み出した。それは現代のデータでありながら、この地に眠る古い記憶を呼び覚ます呪文のようにも見えた。


「安藤氏の研究データを見て。石清水八幡宮の社家は『紀氏』なんだけど、その末裔の中に、高良大社の社僧を務めた丹波氏がいると記されているんだ」


「丹波氏? 神部物部の? しかも、紀氏って、武内宿禰の子孫とされてるよね?」 


「さすが弥沙、そこを見逃さないのは鋭いね! 結論から言うと、『紀氏(きし)』はまさに武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系の子孫とされているよ。


 武内宿禰にはたくさんの子供がいたけれど、その中の一人、『紀角宿禰(きのつののすくね)』がその紀氏の祖だね」


「高良大社の社家の始祖も……武内宿禰だったわ」

 弥沙は社殿の裏にある武内宿禰が祀られている摂社を思い描いた。


「そう! そうなんだよ」

 ハルはホログラムを動かす。


「石清水八幡宮の『紀氏』と、高良大社の『社家の始祖』。

 この両者は、武内宿禰という同じ血から分かれた、兄弟のような一族なんだ」


「武内宿禰……」

 弥沙の鼻腔に、ふっと那珂川の飛沫(しぶき)と、濡れた岩肌の匂いが蘇った。あの時、源じいさんの傍らで感じた、若き宿禰の凄まじいまでの祈りの熱。その熱が、今、目の前のホログラムと重なり、弥沙の指先までを痺れさせていく。


「神功皇后と共に那珂川に来て、裂田溝(さくたのうなで)を造っていたわ。少なくとも『日本書紀』でも、岩を砕いたのは彼の祈りだった。あの時、源じいさんから、彼は若かったって聞いたのよ。


……ねぇ、ハル。社家の始祖って、祭神を意味するんじゃないのかな。現に高良神は武内宿禰じゃないかって説があるのよね」


「その可能性は、もう『説』を超えて確信に近いね」

 ハルはホログラムの光を反射させながら、深く頷いた。


「『志賀海神社』の安曇氏の始祖は『海神綿積豊玉彦神子穂高見命』だったよね。つまり、綿津見神が始祖。

 それに、その安曇氏も高良大社の『神部物部』。つまり……」


 ハルは、そこで立ち上がって天を指さす。


「安曇氏が祭神とする綿津見神とは、高良大社の高良神!……で、高良大社の社家の始祖が、武内宿禰でしょ……」


「ああぁ!」

 ハルは素っ頓狂な声をあげる。 


「そっか、そういうことか! 弥沙の言う通り『社家の始祖』を核にして読み解けば、すべてが繫がるんだ! 丹波氏も、安曇氏も、神部物部の五姓。自分たちの『祖神』を、違う社で語り継いできたんだ」


「……へっ。つまり、丹波氏が、自分たちの誇りである『神秘書』の中身を、八幡様の由緒記っていう皮を被せて、真実を未来へ解き放ったってわけか」

 クナドがニヤリと不敵に笑う。


「そうだよ! クナド! 神部物部の五姓こそが、神社の垣根を超えた巨大な設計図だったんだ」


『そっかあ。八幡さまも、綿津見神も、高良神なのね』


 ツキが、まるで明日の天気を予言するように、あっさりと口にする。その一言に、全員の視線が集中した。


「……そういうことだろうね。この場合、由緒記で活躍する神が祭神なんだわ。社家で繋がるなら、なおさら。──由緒記が、──伝承が酷似してるのは、同神だからじゃないかな」


 ツキの突き抜けた一言が、弥沙の思考の霧を一気に晴らした。弥沙は、自分の掌を見つめた。そこには何も乗っていないはずなのに、千数百年分の祈りの重さが、確かにそこにある気がした。


「高良神も、住吉神も、磯良も。……当然、武内宿禰も。神功皇后も、豊姫も。そこにいるのは、男女の二柱の神……なのよ」


 その言葉を口にした瞬間、喉の奥が熱くなるのを感じた。それは単なる推論ではなく、土地に縛られた神々の魂を解き放つ、鍵を手に入れた確信だった。


「ある意味、『八幡愚童訓』は、『一族の正統性を主張するための身内の物語』でもあった……ということか。とんでもない裏側に繋がったね、弥沙」


 ハルは、浮遊していたホログラムをゆっくりと収束させた。瑠璃色の瞳が、感嘆したように細められる。


「文字は嘘をつくかもしれない。けれど、血と場所の記憶は、こうして数千年の時を越えて弥沙に辿り着いたんだね。これはもう、単なる情報の解析じゃない。弥沙が、彼らの『声』を聞き取ったんだよ」


 弥沙は、肺の奥まで志賀の潮の香を満たすように一息つくと、視線を遠くの水平線へと向けた。

 

 空と海の境界が、午後の光に溶けて淡く霞んでいる。

 かつてこの海を渡り、大陸へと、そして大和へと命を繋いだ者たちの息吹が、潮風に乗って頬を撫でていった。


 記された文字の裏側に潜んでいた、生身の人々の祈りと執念。

 それは今、弥沙の胸の内で確かな熱を持ち、千数百年の孤独から解き放たれたかのように、静かに脈打ち始めていた。






お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも、面白い、続きが気になる!と思っていただけたら、♥や最新作品末の★★★、お気軽にコメントもいただけると、執筆の大きな励みになります!



*参考資料

・安藤希章『神殿大観』紀氏,https://shinden.boo.jp/wiki/紀氏,(参照 2025-11-22)

・快元 (僧) 『八幡愚童訓上群書類従巻第十三上』 京都大学所蔵,

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00018799,(参照2026-04-23)

脚色してます。あくまでも参考文献です。

・荒木尚ほか編『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社,1972,

※本書における引用の現代語訳および内容解釈は、筆者が原典に鑑み、独自に行ったものである。


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