11話*不壊の堰と千八百年の誓い
ざあざあと、堰を噛む水音が轟いている。
那珂川の奔流は、この場所で一度深い息を吐くように溜まり、静かに裂田溝へとその身を分けていく。
堰の前の水面は、底知れぬ静謐さを湛えながら、午後の光を吸い込んで銀色に波打っていた。
ハルはその地点を見ながら言った。
「ここが小門原だ」
「小門原?」
弥沙は首をかしげた。地図にも、行政上の地名にもそんな名前はない。けれど、この地の古老たちは、当たり前のようにその名を口にする。
「……そうか。記録や本に残された文字だけが、真実とは限らないんだ。安徳台を『御所の原』と呼び伝えるように、この土地の土と水が、原初の言葉をそのまま凍結して守ってきたんだ……」
ハルがその思考をなぞるように、静かに言葉を継いだ。
「日本書紀の注釈に、小門とは川の落ち口とある。『儺の國の星』の真鍋氏は、この場所を示しているんだ。一の堰の前に広がる、穏やかな水辺。川の落ち口の前に広がる平らな空間。それが本来の『小門原』の姿だよ」
ハルの言葉を聞きながら、弥沙は改めて目の前の景色を見渡した。一の堰が造り出す穏やかな水面、川の落ち口。その地形と『小門』という言葉が、パズルのピースのように完璧に噛み合っている。
──神話の真実が、ここにあった。
「川の落ち口? それって、一の堰のことじゃない」
「そうだろうね」
水が、静かに溜まっていた。
堰の向こうで、水路から流れ出る水音がした。
「神功皇后が禊をしたのも、このあたりだと伝わっている」
「小門原で?」
「禊をするには、穏やかな流れが必要だ。水路が完成した後、この穏やかな浅瀬で身を清めたということになるだろう」
改修工事があって、昔の『一の井堰』はない。
かつての堰は、今や水面から二つの小島のように頭を出し、穏やかな流れの中に佇んでいる。その静かな足場を、小鳥たちが止まり木にしていた。
すべてを壊されないで残されている堰。弥沙は、この地の優しさを感じた気がした。
上流から爽やかな水を含んだ風が流れて来る。夏の暑さを忘れさせるその風は、まるでここだけ別の時間が流れているかのようだった。
その時、水の中に動くものがあった。
大きな、白い魚。
白い、鯰が、水底をゆっくりと泳いでいる。
「ハル」
「うん。見えてる」
白い鯰は、水面近くまで浮かんできた。
黒い目が、静かにこちらを見ている。
『あんたが来るのを待っとったよ』
鯰が言った。
声は水の中から聞こえるようで、でも耳の中に直接届くよう。
「待って……たの?私を?」
『この川で長いこと、ずっとね』
鯰はゆっくりと体を向けた。
白い体が、水の中で光る。
『この社、知っとるか』鯰は目の前にある伏見神社を見た。
「知らない。さっき来た」とハル。
『佐賀の與止日女神社から来た神さんが祀られとる。淀姫さん、神功皇后の妹とされとるけどね』
「妹?」と弥沙。
『まあ、そういうことにされとる』
鯰は一度潜って、また顔を出した。
『淀とはね、水が滞る場所のことじゃ。荒ぶる水を鎮める祈りの場所に、この神さんは祀られとる。
伏見という名も、水の猛威を伏せ鎮める願いからきとる』
伏せ鎮める。
この穏やかな水面が、昔は荒ぶる水だったのか。または違う意味なのか。
「鯰さんって」弥沙は聞いた。
「神功皇后と関係あるのですか?」
鯰は白い体を光らせながら、ゆたっと泳ぐ。
『昔のことじゃ。
皇后さんが三韓征伐に向かう時、船を先導したのが鯰だったとこの土地では伝わっとる。だからね、この地の者は鯰を食べない。今もそうじゃ』
鯰を食べない。
千八百年前の約束が、今も続いている。
『伏見神社の中に、白鯰の絵が飾られとる』鯰は続けた。
『そこに描かれとるのが、わしらの先祖じゃよ』
白い鯰が、川の中で船を先導していく光景が、頭の中に浮かんだ。
暗い夜の玄界灘。波の中を、白く光る鯰が泳いでいく。
「ハル、幻視で見たけど、一の堰って神功皇后たちが作ったの?」と弥沙。
「国立国会図書館にアクセスする」とハルの瞳に金の光が走った。
「青柳氏の記録に、村の長老の説として、神功皇后が堰を築いて裂田溝を引いたとある。江戸時代には『不壊の堰』として名を馳せていたと」
「不壊の堰」
「壊れない堰、という意味だ。どんな洪水にも耐えたそうだ」
「そりゃ、そうだろ。だいたい、堰が無ければ、溝に水は流れんからな」と、クナドはひらりと『一の堰の頭』に舞い降りて告げた。
小鳥たちが集まってくる。弥沙は、やっぱりクナドは神なんだなと感心した。
鯰が水面に近づいてきた。
『面白いことが分かっとる』鯰は言った。
「なに?」
『この一の堰の川床はね、出雲族の蹈鞴の床と同じような構造で固められとったらしいんじゃ』
「出雲族?」弥沙は聞き返した。
「なんで出雲族が?」
『さあ』鯰はゆっくり言った。
『出雲族がここに来たのか、それとも逆に、ここの技術が出雲に伝わったのか。はっきりしたことは分からん。
でも、この堰を作った者たちは、並みの技術を持っていなかったということじゃ』
「神功皇后と武内宿禰が、あるいは、彼らと繋がる者たちが」と弥沙。
「もしかすると、堰を造って、淀みができたから、淀姫が祀られたんじゃないかな。
とすれば、この堰を作ったのは神功皇后とされるから、妹の定義は繋がっている」とハルは言葉を継いだ。
弥沙はそれを聞きながら、疑問を口にする。
「彼女に妹がいたとは、記紀になかったはず。でも筑紫一帯の神社では、よく言われてるのよ。記紀に書かれてないだけかもしれないけど……でも、いたなら書くよね」
弥沙は、水の上の舞台で鳥と戯れるクナドを見つめた。
現代の服を纏ってはいても、その足元は微塵も揺るがない。
やはり彼は、この風や水と同じ、永劫の時を生きる『神』なのだと、改めて肌が粟立つような思いがした。
「それに……もう一つ。筑紫の神功皇后の伝承のある社は、『皇后が訪れたのは千八百年前、西暦二百年』としてるのよね……」
弥沙の呟きは、さらさらと流れる水音に溶けて消えた。
筑紫の社が口を揃えて語る、千八百年前という歳月。それは邪馬台国の時代、三世紀。
──それは単なる伝承ではなく、意図的で深い意味がある。
水路の水が、さらさらと流れた。
遥か技術が、今もここで水を運んでいる。
「鯰さん」弥沙は水面に向かって言った。
「もう一つ聞いていい?」
『なんじゃ』
「神功皇后って、どんな人だったの?ハルは『それを知るためにここにいる』って言うけど」
白い鯰は、水底に向かってゆっくりと沈んでいった。
消える前に、一度だけ振り返った。
『この川を、もっと上流まで歩いてみ』
水の中から、声が届いた。
『まだ、彼女の話をしてくれる者がおる』
鯰は、水底に溶けるように消えた。白い残像だけが、しばらく水の中に揺れている。水面に映る夏の雲がゆっくりと流れていく。
クナドが鼻を鳴らす。
「……相変わらず、食えねぇ野郎だな。先祖の自慢話なんざ、こっちには関係ねぇってんだ。
だが、弥沙、あいつの言う『上流』には、嘘はねぇ。あの川上が、この全ての『澱み』の始まりだからな」
「ハル……今の鯰の話、どう思う? 出雲の技術だなんて」
彼は、優美に歩きながら、ふいに弥沙を振り返った。
「……面白いね。僕の分析では、これは単なる『伝承』じゃない。『歴史のミッシングリンク』をつなぐ決定的な証拠だよ」
ハルはそこで座り込み、瑠璃の瞳を細めて弥沙を見た。
「まず、あの鯰が言った『蹈鞴の床』と同じ構造っていう点。これは科学的に分析すれば、堰の基礎をガチガチに固めるために、鉄の製造過程で出るスラグや高度な粘土工法を使ったってことだ。
いいかい、弥沙。当時、これほどの土木技術を持っていたのは、鉄を操る集団だけだ。つまり、神功皇后が率いていたのは、ただの兵士じゃない。『古代のエンジニア軍団』だったんだよ」
「……エンジニア軍団……」
弥沙が呟く。
水の上にいたはずのクナドが、ひらりと弥沙の前に降ってくる。
鼻で笑って口を開いた。
「ハッ、白猫の言い方は小難しくてかなわねぇな。要するにだ、『鉄を打つ火』と『地べたの固さ』を知り尽くした連中が、この川をねじ伏せたってことだ。見てみろよ、この水の通り道を」
クナドはパーカーのポケットから手を出して、一の堰の痕跡を指差した。
「ただ造っただけじゃねぇ。川の目を見て、水の怒りを逃がす角度を知ってやがる。……こいつは、ただの神様の奇跡じゃねぇ。人間の『執念』が形になったもんだ」
ハルが尻尾をぴんと立てて、クナドに応じる。
「おや、珍しく意見が合ったね。そう、これは人間の意志による『自然の再設計』だ。クナドの言う通り、石の積み方一つに、当時の技術者たちの計算が詰まっていなきゃ、この水流は持ちこたえられない」
水の流れも強さも今とほとんど変わらないだろう。裂田溝に水が流れていたということは、この川の流れを受け止められるものがその時代には完成していたことになる。
「……その中心にいたのが、あの『彼』だったんじゃないかな」と弥沙は一人ごちる。
ハルは一ノ堰の激しい水音に負けない声で続けた。
「伏見神社の淀姫……神功皇后の妹とされる存在。彼女が『荒ぶる水を鎮める神』として祀られているのは、ここが単なる農業用水路じゃなく、那珂川の氾濫をコントロールするための『超古代の治水ダム』だったからだ」
「ハル。じゃあ、神功皇后たちは……一体どこから来たの?」
「それが最大の謎だね。でも、鯰が言っただろう? 『もっと上流へ行け』って。この先に、僕たちの常識を根底からひっくり返すような、『神話の神の本当の正体』に関わる何かが眠っているはずだ。
弥沙、君が持っている『二柱の天照』……その本が重くなっているのは、僕たちが真実に近づいているからだよ」
ハルは静かに、弥沙の足元に寄り添った。
「『上流』で何か思い当たる場所はある?」
ハルが問いかけると、弥沙はふと、傍らに立つクナドを見つめた。
──導きの神。猿田彦神。
彼の存在が指し示す「上流」にある、その役割を冠した場所。
「……日吉神社、かな」
その呟きに、ハルは瑠璃の瞳を輝かせて頷いた。
「僕もそう思うよ。行こう。次は日吉神社だ。なぜ、この地に『導く神』ばかりが集まるのか。僕がそれを、完璧に解読してみせるよ」
ハルが駆け出そうとすると、クナドがその背中に声をかけた。
「おい、白猫。あんまり頭ばっかり使ってると、足元の『生きた土』に足元を掬われるぞ。……ま、案内は俺様の役目だ。ついてきな」
「二人ともちょっと待って!」
「なんだ」
「なあに?」
「日吉神社はここから結構あるのよね。私は山を歩きなれてるから結構平気だけど」
「おれも」
二人は、ハルを見る。
「日吉神社は、明日、車で行くことにしない?」
「弥沙、運転できるの?」
「春に免許取って、結構乗ってるから大丈夫だよ」
「……おい、俺様をその鉄の箱に乗せるのか。……ま、時間かかるよりはマシか」
クナドが少しだけ面倒そうに、でもどこか楽しそうに笑う。
日は傾き始め、一の堰の音はどこまでも高く響いていた。
明日、あの『導きの神』が待つ場所で。
弥沙たちは、神話が歴史に変わる、その瞬間を目撃することになる。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




