1話*奈良にはかつて、巨大な湖があった
湖が、あった。
満々と水をたたえる巨大な湖が、目の前に広がっている。
肺に吸い込む空気の重さ、湿った土が放つ濃密で甘い匂いが、鼻を突いた。
三輪山が、すぐ背後にそびえている。耳成山は南西にその端正な姿を横たえ、畝傍の山もさらにその奥に控えていた。
透き通った藍色の光の中に、山々は静かに連なっている。
金剛山、葛城山、二上山の山塊は、その稜線がまるで筆でなぞったように滑らかで、それでいて触れれば指が切れそうなほどに鮮やかだ。
幼いころ、幾度となく見上げたあの懐かしい山々。
間違いない。ここは、奈良だ。
――そう。奈良にはかつて、巨大な湖があったのだ。
その証拠に、足元にはありえないはずの巨大な「水」が広がっている。盆地の底をすべて満たすように、深い、深い、青。空をそのまま逆さまに沈めたような湖面には、波ひとつない。
鏡のように静まり返ったその青は、何かを映すというより、この世の光をすべて飲み込んで、その奥底に隠しているようだ。
朝の光は、透き通った薄群青色をしていた。
波ひとつない湖面の向こう、北西の端にそびえる生駒山も、手前に広がる慣れ親しんだ矢田の山々も、まだ眠りの中から覚めやらぬ濃い影としてそこにある。
そして北を向けば、対岸など影も形も見えない。空と水が溶け合うほどに、それは果てしなく広がっていた。
彼女は、その青のほとりに立っていた。
足の指の間から、なめらかで重い泥がじわりとはみ出してくる。
肺に吸い込む空気は突き抜けるほどに清涼で、湿った土の香りと、青い葦の生臭いほどの生命力が混ざり合っていた。
逃れようのないほど、確かな感触。まとわりつく泥が、心臓を鷲掴みにするほどに冷たい。
かさ、こそ。
微風に揺れる葦の音が、静寂を優しくなぞる。
――けれど、その「静」は一瞬で引き裂かれた。
ぶおん。
世界が、激しく震動を始めた。
次の瞬間、彼女の視界が爆ぜるように切り替わる。
朝の静寂はどこへ行ったのか。頭上には、眩いばかりの昼の太陽。
北西の果て、生駒山の稜線が不自然に発光した。
思考が、一瞬だけ真っ白に染まる。
目を凝らすより早く、山を越え、青の空を削るようにして、巨大な『光の塊』がせり出してくる。
「……っ!!」
白い、巨大な帆船が、船底をさらして生駒山の上を越えてきた。
音もなくゆっくりと。
空を覆い尽くさんばかりの真っ白な帆が、鋭く陽光を跳ね返して輝いている。
見上げた首が痛くなるほどの高さを、それは滑るように、進んでいた。
ぶおん。ぶおん。
音がないのに、得体の知れない重低音が内臓を直接掴んで揺さぶる。それは、あまりに無機質で、圧倒的な威圧感を放っていた。
これは──
<< あまのとりふね >>
彼女の深いところから、声がした──。
逃がさなければ、里の者を。本能が警鐘を鳴らす。
気づけば、杉の芳香が漂う板敷きの部屋の中にいた。
カッ!!
すぐそばの柱に、何かが凄まじい勢いで穿った。木が裂ける乾いた音と、その衝撃に、彼女の肩が跳ねる。
「何事!? 」と叫び、素足のまま外へ飛び出した。
そこで彼女は、泣き叫ぶ八歳ほどの男の子を見つけ、反射的に抱き寄せた。なぜだろう、初めて見る子のはずなのに「私の弟だ」という確信が胸を突く。
矢は、彼の頭の上の柱に深々と突き刺さっていた。
外は地獄だった。見たこともない白い軍勢が里を蹂躙し、平和だった光景を悲鳴で塗り替えていく。
その時。荒れ狂う人の波が、不自然なほど静かに、左右へと割れた。
一人の男が歩いてくる。金の小さな冠を戴き、風に衣をなびかせ、まっすぐこちらを見つめてくる。
目が合った。その瞬間、心臓が跳ねた。
遥かな時を一気に飛び越え、魂の深淵で火花が散る。知っている。彼女はこの男のことを、何よりも、誰よりも知っていた。
男は一瞬、その端正な顔を綻ばせ、歩みを止めた。
その唇が動く。
周囲の喧騒が遠のき、その声だけが彼女の脳裏に直接響き渡った。
「……久しぶりだね」
彼が紡いだ「名」を認識しようとした瞬間、視界は泥にまみれた。
暗い。冷たい。鼻の奥に、ねっとりと生温かい錆びた鉄の匂いが張り付いた。
それと混ざり合う、生々しい死の匂い。
彼女は泥濘の中に突っ伏していた。
「やつらだ!」
叫び声が響く。緊張が走る。
槍を握ったまま飛び出そうとした、その刹那!
体が石のように固まって動かなくなった。
指一本動かせないほどの、凄まじい金縛り。
まるで、上から巨大な手で、地面に押さえつけられているかのようだ。
力を振り絞って、何とか動かせた顔を向けると――そこには「怪物」たちがいた。
巨大な黒い影。
顔の中央に赤く不気味に発光する「一つ目」を灯した異形の者。
それは槍のような武器を無機質に振り下ろし、抵抗できない里の男たちを、次々と串刺しにしていく。
「……やめて……お願い……やめて……」
彼女は震える呼吸を漏らしながら、声にならない叫びを繰り返した。
その人は、この間赤ちゃんが生まれたばかりなの。小さな子供たちがいるの。
次々と、男たちが想う愛おしい里の人々の顔が脳裏に浮かんでくる。
四肢は依然として石のように重い。指先一つ動かせない己の無力さが腹立たしい。激しい怒りに、魂だけが震える。
やめて。その人は愛する人が待ってるの。やめてっ!!
「うわぁああああああ!!」
叫んだ瞬間、胸の奥で何かが真っ白に爆発した。
凄まじい衝撃とともに身体の戒めが解けた。泥と血にまみれた己の槍を握りしめ、走り出そうとした。
だが、その肩を、体を、周囲の男たちが必死に掴み、羽交い締めにされる。
彼女の周囲の者だけが動けるようになったのだ。
「あなたを失うわけにはいかないんですよ! 」という悲痛な声。ずるずると、後方へ引きずられる。
ダメ、行かせて!みんなが、みんなが死んでしまう!
「っ……どいて!!」
バッ!!
自分でも信じられないような力で男たちを跳ね除けた。
そして、一人、霧の向こうで虐殺を続ける「一つ目の怪物」へと猛然と突っ込んでいく。
鉄の質感。無機質な殺意。
その異形を見据えた瞬間……、弥沙の口から、場違いな言葉が漏れた。
「……ロボット?」
*
そこで、いつも息が止まる。激しく心臓を叩く音が耳の奥で鳴り響き、弥沙は汗まみれで目を覚ました。
視界に入るのは、見慣れた自分の部屋の天井。鼻を突くのは、生温かい血の匂いではなく、洗い立てのシーツの香りだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
肩で息をしながら、自分の手を確認する。泥も、槍を握った時の痛みも、そこにはない。ただ、指先がかすかに震えている。
夢を見る回数が増えている。最近は毎晩のように見ていた。弥沙は、ふと本棚に目をやった。一冊の本から目が離せない。なんだか、淡く発光している気がした。
……あの、中身の読めない本だ。
弥沙は、それを手に取った。
*
弥沙は奈良で生まれ、福岡の那珂川で育った。春から専門学校に通い始めたばかりの、どこにでもいるはずの十九歳。
神社を巡るのが好きなだけの、ありふれた女子学生だったはずなのに…。
奈良に湖なんて存在しない。空飛ぶ船も、一つ目の怪物も、弥沙が触れてきた歴史のどこを探しても出てこない。
だから、ずっとただの悪夢だと思っていた。自分の想像力が作り出した、あまりに出来のいいフィクションなのだと。
――あの日。那珂川の安徳台で、あの「光」を見るまでは。
空を貫く、巨大な光の柱。遥かな古代の記憶を呼び覚ますような、魂を震わせるあの輝き。
悪夢は、夢ではなかった。 弥沙が信じてきた歴史こそが、偽りだったのかもしれない。
動き始めた歯車は、もう止まらない。 あの光の向こう側に、「彼」を見つけた気がした。
――そして今、弥沙はその場所へと向かっている。
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※本作は、Amazonにて出版中の拙著の考察本『二柱天照──『高良玉垂宮神秘書』から紡がれる神功皇后と卑弥呼』をベースにした歴史ミステリー小説です。
邪馬台国や日本神話に隠された秘密を、物語を通してより深く詳しく解き明かしています。
一千八百年の謎を巡る旅に、最後までお付き合いいただければ幸いです。




