ガラスと画面の向こうのうつわは、ちょっとよそよそしい
吉野作造記念館の展示室で、吉野さんが愛用していたというコーヒーカップを見ました。
実は……と打ち明ければ、展示室に入る前に、その肖像は知っていたのです。
この記念館では吉野作造にゆかりある事物の絵をパッケージにあしらったドリップコーヒーをお土産として販売していて、私は展示室へ辿り着く前に、このコーヒーを一つ購入していたのでした。奥様愛用のミシンの絵と迷ったのですが、結局コーヒーカップのパッケージを選んで。
展示室の奥の方に、ガラスケースを隔てて鎮座するコーヒーカップは意外と小さいものでした。
紅茶党で現代人の私は、「コーヒーカップ」と聞いて現代のごく一般的なサイズのティーカップとソーサーを想像していたのでした。でもコーヒーだから、まさかスタバのマグカップ……ほどは大きくないかな? なぁんて考えながら。
実際はそれよりもっと小さくて、デミタスカップ? と思うほどの小柄さ。
でもウィーンで求めたというそのカップアンドソーサーには、精緻に日本の寺院か屋敷を思わせる風景が描かれていて、深い味わいを持って見えました。
ウィーンで、日本っぽい模様のうつわを買う。それを記念館に飾られるほど長く愛用する。
自ら望んで渡欧したのかもしれませんが、ホームシック気味だったのかしら。
それともそこまで寂しくはなかったけれど、日本っぽい意匠を見つけて懐かしさが生まれたから手にいれた?
このカップと出会い、財布を開いた時の吉野さんの気持ちを想像すると、急に時代を隔てた故人が身近になるような気がしました。
しかし同時に、感じたこともあります。
展示ケースの向こうでライティングされたカップは、どこか「遠い」感じが拭えないのでした。
思えば、画面越しに見る美しい陶磁器たちもそう。
私はその見た目に心惹かれて、数ヶ月間「ニッコー」というブランドのカップアンドソーサーをウォッチングしていました。
オークションやフリマサイトで安い販売ページを探し、リアル開催のフリマを歩き……。
ようやく手元にやってきたそれは、思った以上に手触りがよく、硬質陶器の機能としても優秀で。
それは実際に手に取ってみないとわからないこと。どんなに丁寧な商品説明を書いても、百聞は一見にしかずで、買い手に体験してもらうことはどうしてもできないのですよね。
そんな体験をしたばかりだった私は、ガラスケース越しに見る吉野さん愛用のコーヒーカップをじっくり眺めて、手触りや重さを想像しようと試みたのですが。
実物が目の前にあるとは言っても、ガラスケース越しで手に触れることはないので、五感の視覚以外は全然働かず、不思議な感覚にとらわれました。
思えば博物館や歴史資料館に行った時の「遠さ」「よそよそしさ」も、これと似た属性のものなのかも。
展示されている道具が、時代を経ているから用途不明で遠い感じ……。だけじゃない。
古い鍬と最近の鍬の重さの違い。千歯こきでお米を脱穀する力の入れ具合。それらが家の倉庫に置いてあるという日常……。
あるいはもう少し身近に、ケースの向こうに展示された名高い茶道具とかも。
抹茶碗は「手で触れる芸術品」とも言われ、茶会の中で最も身近な美術品です。
ものによっては同じ作者によるうつわが、博物館に所蔵されているような逸品に出会うことだってあるかもしれません。
お茶碗は、手に持って重さを体感し、指を微かに滑らせて手触りを確かめ、口に触れて飲み心地を味わうことができます。
しかし同じものがガラスケースの向こうに展示されていたら、それは絶対にできないのです。
途端に、感じうる五感情報が遮断されてしまって、ただただ視覚と、目の前に書かれた解説に頼った平面的な理解しかできないものになってしまう。
貴重な品物を守るためには、むやみに触れないよう守っておくことがどうしても必要だと思います。
一方でその保護こそが、人の五感を制限して貴重なものを「遠く」感じさせてしまうジレンマもあるのではないか。
記念館や博物館にいろんな理由で足を運んで、縁あってその展示ケースの前までやってきた来館者と、モノとの間に生まれるかもしれなかった体感的繋がりが、強化ガラスによってほとんど跳ね返されてしまっている。
できるだけ想像力を働かせて「実際に手に触れたら、どんな感じか」を思い浮かべる努力は怠らないようにしていきたいけれど、自分が今何を実際に見ていて、どこからが想像なのか。五感と想像の境界があることを忘れないようにしたいなと思うのでした。




