着物を踏まない、跨がない。神聖な気持ちだけ忘れずに
着物は普段から礼装までをカバーする服であり、日本の民族衣装です。
同時に、作家さんたちが「きもの」という一定した形の中で表現を込める美術工芸品でもあります。
だからなのでしょうか。
着付け教室に通っている時に口を酸っぱくして言われました。「着物を踏むな、跨ぐな」と。
教室にはコマ割りされた時間があり、着付けの練習に手間取ったら座学が押し、後片付けも押します。
私は「時間に追われている」という感覚が嫌いだから、ついつい焦ってしまいます。
そうすると、畳んだ着物を回り込むよりも、跨いだ方が最短距離で動けて時短……と思って跨いだのでした。ダメだったらしい。
着物をないがしろにするつもりじゃないんです……という、ことを問題にしているのではないのですよね。こういうことは。
私が高校で応援団に所属していた頃。旗を神聖なものとして扱う文化がありました。
手持ち旗も、掲揚する旗も、布地が地面につくように置いてはならぬ。
新米だった私がうっかり旗を落としてしまったことがありましたが、普段温厚な先輩がものすごい顔で睨みつけてきたのを、忘れたことはありません。
物体という意味では、地球のその他の物体を構成するものと変わらない材料でできた「それ」。
しかし文化や風習の中で神聖さを付与されたなら、その物体は他とは違う、神聖なものなのです。
雑に括って仕舞えば神社の御神体だって、そうかもしれません。呪いの藁人形だって。
人が祈りや神聖さを込めれば聖物になり、呪いを込めれば呪物になる。
モノに付喪神が宿るというのも、人間が無機物になんらかの特性を(精神的に)付与して扱うからなのでしょう。
着物を踏んではならない、跨いでもいけないという教室のルールに、私はそのようなものの延長を感じました。
お米を残すなと一緒で、職人さんが丹精込めて作ってくれた品だから。
言うなれば、着物を「着る人」は着物産業の中のエンドユーザーでしょう。大切にとった絹糸から始まった丁寧な手仕事を、エンドユーザーが丁寧に扱うことで完結させる。
着る時も畳む時も、尊いものとして大切に触れる。
と、いったところでしょうか。
着付け教室に通っていた1〜2年の間に、「着物を踏まない、跨がない」は私の身につきました。畳む着物の一方に陣取ったら、その側から動かずに畳めるようにもなりました。
一方で、身についたルールを教室通りに実践できない場合があるのも、実生活の中。
うちは着物教室ほど広い空間がないのです。狭いし、そこに暮らしに必要な家具家電を配置しているから。
せめて、着物を踏まないようにはしています。
が、「跨がない」を完璧に実行できているかというと……ちょっと顔をお天道様に向けられないかも。
教わったルールの形は崩れてしまっていると言えます。
代わりにといってはなんですが、私は「なぜ、跨いではいけないか」を、跨ぐたびに思い起こすことにしています。
大切な美術品--絵画や彫刻は、壁や室内に大切に飾られて、叩いたり蹴ったりされない。着物は「身に纏える美術品」だから、それと同じ扱いをされるべき。
絵画や彫刻を「叩かない・蹴らない」と同じことが、着物における「踏まない・跨がない」なのであろう、と。
着物を長く楽しむために、きちんと畳んで手入れしてしまっておきたい。
でもその「畳む」過程でどうしてもスペースがないのなら、せめて、丁寧に扱う心だけでも大切に留めたいから。
そうすれば十分な空間の取れるところで着付ける機会が今後巡ってきた時には、「踏まない・跨がない」をきちんと実践できると思うのです。




