今こそ、自主練を続けるべきとき
立礼の自主練を続ける。
具合が悪い時とか、気圧に押しつぶされている時はなかなかできずにお休みする日もあるけれど、できるだけ、2日連続でお休みすることはないように。
昨日はやらなかったから、今日はやる、を心がけて。
釜(に見立てたヤカン)と水指、建水を省略してエアーでやることもあれば、それらもきちんと出してちょっと本格的にやることもある。
今日は本格派で、と思ったら、面倒臭さが頭をよぎったのに気づいた。
「だって、先週よりできてるし」
「流れ、もうわかってるじゃん」
思考の中でそんな声がする。
私はそれらを振り払いながら水指を取り出し、茶巾を濡らしに台所へ立った。
こういう時こそ練習をサボってはいけない気がした。
本当に覚えているのなら、「だって、覚えてるもん」なんて思わないんじゃないか?
「覚えている」「できている」というのは心の傲慢な部分で、「茶道」における精神的修養でまさしく鍛えるべきところじゃないか?
そう思いついたら、ちゃんとやらない選択肢なんてなかった。
そういえば……と練習後に自服しながら思い出す。高校生の時にも、こういう気持ちになったことあったっけ。
高校の時、私は応援団に所属していた。
東北にはいくつかあるけれど「バンカラ」と言われる風情の応援団で、ボロボロの学ランに制帽、外套、高下駄という古風な服装が規定されていた。年中はだしで、髪は引退まで切らないことになっている。(願掛けのためであるらしい)私は幸運にもやる気を買ってもらえ、校内では初の女子幹部、さらには女子団長として務めさせてもらった。
応援団であるからには演舞を覚える必要がある。現役の先輩が当初いなかった事情もありOBによる一週間の詰め込み練習の中で、基本的な演舞を覚える必要性に迫られた私が、まさしくこの心境に陥ったのだった。
昨日教わり、動きを覚えた演舞。
家でさらっと復習したら、ちゃんと覚えていた演舞。
翌日の朝練で「やってみろ」と言われ前へ出た。
最初の動作をやる。できる。
次が出てこない。
あるいはちょっと自信がないから、発声が小さくなる。
飛んでくる叱責。
悔しかったが、それ以上に恥ずかしかった。「もうできる」と己を過信した自分が恥ずかしかった。
犯罪防止の標語とかに、「人が見ていなくても自分が見ている」みたいなのを見かけることがあるが、本当にそれだと思った。
私が「覚えた」と手応えを感じたことも、家でひそかに(軽く)復習したことも、それで気を緩めてしまったことも、多分私しか知らないだろう(察しのいい先輩方の中には、「あ、こいつ覚えた気でいるな」と見抜いた方もおられたかも知れないが)。
誰に見られたわけでもないのに、ものすごく恥ずかしかった。自分の思考の移り変わりを完璧に知ってしまっているから尚更。
当時の私はまだまだ調子に乗っていて最強だったので、その後も自主練を熱心にする幹部に転身できたわけではなかったけれど(なかったんかい)、自分が「できる」と手応えを覚えた時ほど手抜かりがあることは、その後もよくよく思い知らされた。
というか「常に全力」が求められる応援団に身を置くに当たって、「自分はできてる」かどうかなんて雑念でしかない。そんなことを考えていられるなんてまだ余裕があるということだ、その分のエネルギーを、人を応援する方につかえという話になる。
演舞をとにかく決められた数こなすこと。常に演舞の指先まで意識を向けること。演舞が体に染み付いて、いちいち気をつけなくても動作を間違えないようになっても、集中力を切らせばどこかに間違いが生まれる。先輩はそれを見逃さない。私が真剣に、必死に演舞をやっている分、団内の誰かが見ている。
ごまかしがきかない。
間違いを指摘されるのは悔しかったけれど、思えばそれよりも悔しかったのは、自分が何かを間違った感じはするのに先輩がそれを指摘してくれなかった時のような気がする。
OBの先輩が、忙しい時間を縫って指導にきてくださった時はやはり気合が入る。だからこそいつも以上に必死に真剣にやるのだが、それでも至らないこともあった。
そんな時に、どこが間違っていたかを教えて簡単に答えを渡してはくれず「自分でどこが悪かったと思う?」と問いかけられたときなど。自分の恥ずかしさを自分で掘り返させられるあの居た堪れなさ。人は恥を教訓にして「あんな失敗はもうすまい」と決意するものなのだと思った。
そういう日々のことが、お点前の道具を前にして思い出された。
お点前の場はバンカラではないから、舌打ちや怒声が飛び交うことはない。先生は穏やかに、点前を間違えていたら指摘して教えてくださるだけである。
だが指摘の方法は違えど、指摘された側の心には同じような作用があると思う。自分の驕りを突きつけられる恥ずかしさが。
人生って早いもので、団長を引退してから10年以上が経とうとしている。
10年後の私は、ちゃんと自主練を続けられるようでないと流石に恥ずかしい。当時の自分と同じ気持ちにまた陥るなんて、自分で自分が情けなくなってしまうばかりだろう。
だから、続ける。
せめてちょっとでもあの時よりの成長を。
静かな茶道と、声を出し人を励ましてナンボの応援団。
デシベル値の違いすぎる両者に共通するところがあるなんて、意外な発見をした。




