水の落ちていく音を聞くこと
紅茶党歴の長い私が、よくやらかすこと。
ポットに対して、紅茶を多く作りすぎる。欲張ってたくさん入れたあまり、注ごうとしてちょっとでもポットを傾ければ蓋の隙間からも紅茶が漏れてきて手元とテーブルがしゃびしゃびになってしまう。
同じように、「早くカップに注ぎ切りたい」と気が急いたあまりポットを傾けすぎて、蓋の隙間からも紅茶が漏れて手元とテーブルが以下略。
適量と、適当な角度を知らない。あるいは気遣うゆとりを持ててこなかった。
茶道の稽古においても私のこの癖はひそかに影響していて、盆略点前の時はしばしば茶碗から湯(しかも抹茶入りの!)が畳へ跳ね出たし、柄杓を使うお稽古へ進んだ現在は、柄杓から茶碗へ湯を注ぐ時にあんまりスピーディすぎ、目安である「柄杓はんぶん」を超えて薄い茶を点てたり、逆に早く止めすぎて濃くて少ない茶を点てたりしている。茶道が己のせっかちさを可視化する。
ついでに言うと自己顕示欲も可視化してきてとても苦しい時もあるのだけど、その話は長くなるので別の章に機会を譲ろう。
茶道の中で「水」「湯」はとても大切に扱われる。夏は水指から釜へ水を注ぐ音を、耳から取り入れる涼として聞くし、「名水点て」と言って、日本各地の美味しい水を用いてやるお点前も存在する。水指にしめ縄をかけるなどして、水を神聖なものとして使う。
実際に稽古を始める前のかじり読みだけれど、「日日是好日」というエッセイで「季節によって雨の音が違う」「そのことに茶道を習い始めてから気づいた」という話題を見た。しかもその音の違いは、四季ではなくもっと細やかな「二十四節気」に基づいてみると理解しやすいというのである。
確かに、言われてみればそうかもしれない。春の雨と冬の雨が違うことは、当時茶道初心者ですらなかった私にも理解できた。夏の雨と冬の雨も違う。きっと温度によって、水の硬さが違うんだ、と、感覚的に思った。
では釜に注がれる湯と水の音も、違っているんじゃないか。
そう思って稽古のたびに、人のお点前中は耳を澄ませることにしている(自分の時にやらないのは、そのゆとりがまだ持てていないから)。湯と水の違いがあるような気がする、と思えることもあるし、違いを見出せない日もある。音はできるだけ長く聴き比べたいから、ゆっくり湯水を注いでくれませんか、と心の中で念じている。
冷たい軟水が喉と体をつたい落ちていく澄んだ食感と、白湯を飲んだときに舌の上に広がる丸さの違いが両方、好きだ。同じ「水」なのに、温度であれほどの味の違いが生まれるんだから、きっと釜から茶碗へ、水指から釜へ、そして湯返しされるお湯と水のあいだにも、きっと音の違いがあるんだと信じている。いつかきっと、確実に聞き取る耳を育ててみせる。
そんな決意が、稽古を始めて一年くらい経って心身に染み付いてきたんだろうか。
まだまだムラはあるけれど。水をゆっくり注ごう、お湯の音を聞こうと意識している自分に気づいた。それも茶室の外で。
普段、なかなかティーカップに溜まらない紅茶とか、ちょろちょろとしか出ない魔法瓶とか。前は無闇にじりじりして注ぎ口をどんどん傾けていたであろうそれらを、傾けたまま観察し待つ余裕ができてきた。
自分の手で注いでいる湯水の音も、聞いてみようという態度が育ちつつある。
音をきちんと聞いてゆっくり注いだお湯は、湯呑みの中でいつもよりちょっと甘みが増している気がする。ここに時間をかけるのも、なかなかいいものだ。
余談だがうちのシャワーだけは例外だ。40度から41度に上げたら一気に水圧弱まるのやめてね。寒いんだから。




