最適化された「おもてなし」の型を習っている
茶会はお客をもてなすために催すものである……と、いうことは、茶道についての本を読み始めた当初から多く目にしてきた至言です。
しかし、心の底からの理解には至っていませんでした。多分、まだまだ駆け出しである私の中には「作法が決まっていて、間違えてはいけないもの」「その作法ゆえに堅苦しいもの」というイメージが根強く残っているからでしょう。
世の中には一桁の、とっても早い頃から茶道を習い始める人もいるそうです。羨ましい。
それに比べたら20代の私は始めるのが遅かった方だし、茶道に触れずにきた年月が長いぶん、そういうネガティブイメージもたくさん身につけてきてしまったかもしれません。
同時に「今が自分の人生で一番若い」という格言も大切にしているので、今から茶道の道を走り出すことに躊躇いはないのですが。躊躇っているうちに後悔が積み重なりそうですから。
去年から、茶道にまつわる本を取っ替え引っ替えしている1年でした。
今日ある本を読んでいた時に、急に悟るように理解されたのです。「あ、茶会も作法も、確かにおもてなしのためにあるな」って。
せっかく言葉と遊ぶことを生業にしているから、「悟った」で済まさずさらなる言語化を試みてみましょう。
私が「悟った」ように感じたのは、きっとこれまでの約1年間にわたる読書経験が積み上がっていたからです。点と点として別個に存在していた知識の断片が、最後のきっかけを得た瞬間線になる。それが今日訪れたから、「悟った」ように感じたのだと思います。
茶の湯は千利休によって大成され、その後も新たな作法(利休が生きていたのは安土桃山時代、七事式ができたのは江戸時代)が生まれるなど変化が重なってきました。
「大成した」ということは、そこに至るまでの試行錯誤が存在したということ。
最初はそもそも、作法なんてなかったのです。
今は大成された作法があるから、形に則って習うけれども、昔はその逆だったのではないか。
もしかしたら利休に師事していた弟子たちは、利休から「今週からここはこういうやり方に変えます」なんて言われて、「え!! はい」なんて言いながら背中を追いかけていたかもしれません。これはチャーミング利休の妄想ですが。
大成前だろうが後だろうが、通底する思いが一つ軸を持って続いています。
それこそが「おもてなし」です。
茶道の精神である一期一会。
その日、来てくれた相手(初対面だろうが気心知れた相手だろうが問わない)に、美味しい茶を点てたいということ。喜んでもらいたいということ。無事に帰ってもらいたいということ。
一言でまとめれば「おもてなし」です。
「あなたに喜んでもらいたいんです」という気持ちを全力で伝えるには、どうすればいいか?
そんな気持ちを出発点にまとめられていったのが、茶道のお作法なのではないでしょうか。
茶道が大成され、その後存続するために重ねられてきた工夫は、すべて「より良いもてなしの形」の追求なのではないか。
そうだとすれば茶室での作法というのはすべて「最適化されたおもてなしの形」と言えそうです。
おもてなしの心は、受け取ってもらえなければ意味がありません。
だからこそ、招かれる客側も作法を知っている必要がありますし、亭主が使わせてくれる大切なお茶道具を、大切に扱う心得が求められるのでしょう。
型が身につけば、それが自分の一部として自然な動きになる。
最初は型を覚えることに必死でも、身についていけば周囲に目と心を配る余裕ができます。
もしかして、そこからが始まりなのかもしれません。
まずは、おもてなしの型を身につける。
型に慣れて初めて、おもてなしの形(演出)に気付けるようになる。
相手のおもてなしの心に気付くために、型を身につけておく必要がある……。
リサイクルの資源の輪みたいに、これがぐるぐると果てしなく回って好循環しているイメージ。
私もこれまで「作法の型が難しそう」「型なんてなくてよくないか?」と何度思ったか知れませんが。相手の心遣いを余さず受け取るためと思えば、それは亭主と客お互いのために必要なことと分かります。
ますます練習に身の入る気づきを得ました。




