茶碗はちいさな美術品。こんなんなんぼあってもいいですからね
収集癖のある私は、これまでいろんなものを集めてきました。
おもちゃ消しゴムにプチさんぷる(リーメント)、プリキュアのぬいぐるみ、おままごとセット……。
茶道の道をあゆみ始めた今、お茶道具を集めない……選択肢なんかねえよなぁ?!(唐突な東リベ風)(未履修ですごめんね)
とはいえ、お茶道具は高価なものも多いし、割れ物だし、私がこれまで集めてきたものたち以上の責任を伴う集めものだと思っています。
着物とお茶道具に共通するのは、次の世代へ引き継いでいけるものだということ。
それが現代の作家の手により生み出されたものだとしても、親戚縁者から受け継がれてきたものだとしても。
一時の趣味で終わらせるのも結構だけど、私個人が飽きたからといってゴミに出そうとしているそれ、ここまで受け継がれてきた「歴史」を焼却炉に放り込む所業ではないか……? そのような悪行になりはしないか………?
という無言のプレッシャー、責任感を、日々茶道具に対して抱いています。
着物を着ることに対して敷居を高く感じ続けているのも同じ理由からで、私が着て終わり、所有して終わり、とはならないかもしれないからです。
茶道具も着物も、手に触れることのできる美術品なのです。
もちろん、モノに関わる人すべてがこういう責任感を持たなくてもいいと思ってはいます。責任感をどれくらい感じて触れるかは、人それぞれです。
それに、責任感や希少性を謳えばうたうほど、着付けや茶道への敷居は高くなり、私が目指す「おうちで気軽にお抹茶を」から遠のいてしまう矛盾も生まれる。
責任感を背負っているのは決して心地いいことばかりではなくて、心身が疲れていると重荷に感じられてしょうがないこともあるから、全員が背負わなくてもいいのです。私だけでいい………とは言わないけれども。背負いたい人と学芸員さんとかが持っていれば大丈夫だと思います。
お抹茶碗もね。値段とか歴史によらず、「気軽に使ってほしい」という思いで作られたものがあると思うのですよ。
茶道が世俗化したり、高尚になりすぎたりという波は、茶の湯が大成してから何度か繰り返されてきたことのようですし。
裏千家に「七事式」というものがあるらしいのですが、これは江戸時代にできたものだそうで、当時茶道の精神が世俗化しすぎて崩れかけているから? 一度ちゃんとしないといけないみたいな危機感を覚えた人たちによって、習うべきことに追加されたものなのだとか。これは、広がりすぎた間口を調整する活動。
また裏千家の14代家元淡々斎は、海外も見据えて茶道が広く受け入れられていくようにと、椅子に座ったままできる点前とその道具を作り出しました。これは、間口を広げるための発明ですよね。
こうやって、できるだけ中庸を行こうとするのは、なんだか仏教の広がりを見ているよう。
その中で言うと私個人の向き合い方は硬派な方かもしれません。
硬派な私が、広く茶道を楽しんでほしいという、対義語的に言うと「軟派」なお抹茶カフェを広めようとしているんだから、心的葛藤が生まれるのは当然です。
とはいえお茶碗が「手に触れられる美術品」なのは本当。
作法としても手に持って、重さを感じて、口をつけていいものだからこそ、存分に触って、眺めて、日本の焼き物や絵付けに興味を持つきっかけが広がったらいいななんて思います。




