手垢が味になる漆器と、黄ばみになる着物
僕が住んでいる地域には有名な漆器があり、小学生の時に資料集的なやつで「漆器」というものの存在を知った。
なんでも使い続けていると固有の色の深みやつやが出てくるらしい、資料集には「新品の汁椀」と「10年使った汁椀」(形は同じ)の比較写真が載せられていた。
確かに、10年使ったものの方が風合いがいいなと感じられるものがあるように思った。
てっきりあの深みは、使い続けたことによる絶妙な漆のスレとか、洗う時の摩擦とか何かによって生まれるものだと思っていたのだけれど。
先日SNSで発信していた、漆器に詳しい人の投稿によれば。あれは言ってしまえば人間の「手垢」によって生まれる風合いなんだという。え、そうだったんだ!?
逆に言えば、あの艶が欲しいからってただ漆器を10年、棚に飾って寝かせていても、あの風合いは生まれないということ。漆器はヒトが使うことによって良さを増す、人によって人のために作られた道具なんだなと思った。
一方の着物では、皮脂って大敵である。
教室に通って着付けを習っていた頃、授業は入念な手洗いから始まった。
着物の主な原料である、絹は皮脂と反応して黄ばんでしまう。
着物を着るということは着物の各所に触れるということだから、できるかぎり皮脂をつけないで済むように、教室に来る道中でついた皮脂汚れ(手に限る)はできるだけ落としてから授業に入るというわけだ。
幸か不幸か、真面目な私は今でもこの教えを厳しく守らなければならない気がしていて、自分の持ち物である着物に触れることに気後れを感じてしまう。これは私の特性によるものでもあるだろうけど……まあ一長一短ということで。気にしない人は、程よく折り合いをつけて付き合えるルールだと思う。
とはいえ、着物とは文字通り「着る」もの。肌に触れるものだ。黄ばみから完璧に防護することは難しいし、多分不可能。
そんなことを言っていたら、街中に漂う塵や花粉だって汚れの元だろうから、どこにも着物を着て出掛けられなくなってしまうだろう。どこかに着ていくために、着付けを習ったはずなのに。
着物をできるだけ黄ばみから守るために、「襦袢」という肌着がある。汗をかきやすい部位(襟元)に触れるあたりには「半衿」という細長い布を上から簡単に縫い付けて着る風習があり、ちょっと汚れてきてもこの半衿だけ取って洗えば割と綺麗、という仕組み。
また、正装用の襦袢は正絹でできているけれど、普段着の着物(ウールや麻、木綿など)でできている着物に合わせる襦袢は、昔から綿で作られるものだったようである。最近は化繊のものも。
アンティーク着物として出回るものの多くは正装で、洋服でいうTシャツやチノパンみたいにざっくり来てばさっと洗濯に出す……ような気軽さと同列に置くことはなかなか難しい。
逆に言えば、それだけ時を経ても十分に着れる状態で着物が残っているというのは、先人たちが正しく皮脂対策をして、着物を虫干しし、大切に扱ってきたゆえなのであろう。普段着の着物は、あんまり生地が傷んでくると布団に作り直すなどして、できるだけ無駄なく布として使われたと聞く。普段着の着物が残っていないことも歴史の一つだ。
ではでは茶道具は? というと、多分漆器と着物の中間に位置していると思う。
客として茶会に呼ばれれば、茶室に入る前にお手水で手と口を清める。
まあこれは清められた空間である茶室に入る前の儀式的な面や、茶を雑味なく味わうために、口内に残った別の味を洗い流すためなど、他の理由もあるであろうが……。
浅学ゆえ、神社に参る時の御手水と、茶室に入る時の御手水のどちらが先に成立したものかは存じ上げない。だが果たす機能というか意味合いには通底するものがあると考えている。
歴史の中で残ってきた茶室や座敷の造りをみると、茶室の隣に浴室のようなスノコ敷きの空間が作られている建物もあるという。用途は確定されていないが、茶室の隣にあるという位置関係からしても、「茶を喫するのは、清めた心身で」という価値観の存在がうかがえる。ちなみにお風呂上がり、ちょっと体にこもった熱が冷めてきたかな、というくらいで飲む抹茶は確かに美味しい。消化管の中まで清められる気がする。サポニンちょっと入ってるらしいし。
それに茶事で供される懐石には、漆器の飯椀と汁椀が出る。これは漆器だ。
茶菓子を供する時に重箱を使うなら、これも漆器。
茶室の中には、そうやって「清めて、人の体から除くべきもの」と「人の手で触れるべきもの」が散らばりながら存在している。不思議な気持ちになる。




