花を整えてる時点で「野にあるように」じゃなくない?--茶花の自然と人為のあいだ
「花は野にあるように」
とは、利休七則に含まれる心得のひとつ。
庭の野菜も花瓶の花も枯らしてしまう、植物ととにかく縁を結ぶのが苦手な私は、これから茶道という道を一生かけて(あわよくば来世もかけて)歩いていく所存な中で、「花」との付き合いに大きな課題を感じています。
花の生け方とかを読んでみたりもしたけれど、現状では「なるほど!」って思えるところと、「まだよくわからないな、そういうものなんだな」って思うだけのところと。技能の伸びしろを多分に感じる。
ついでに言えば露路を整えることも、植物と交流をもつことだから今後の大きな目標。
いつかお庭に茶室を持ちたいのです。それなりにちゃんとした露路も整えたお茶室を。名前はもちろん「久慈庵」。ここが未来の本店かもしれない。
そんなわけでまだまだお花初心者の私ですが、初心者なりに理解しつつあることもあります。
日本の習い事として「お花」というと「華道」になりますが、華道で習う花を生けるための技術や心得と、茶室に「茶花」を生けるための技術や心得は、少し違いがあるみたい。
「茶道は日本の総合芸術」とよく言われるので、お花はてっきり華道につながるものかと思っていました。
華道との違いとして大切になってくるのが利休七則の「花は野にあるように」であり、茶花の基本としても「花器に自然に投げ入れる」(岩手弁の「ゴミ投げ」と一緒で、本当に投擲するわけではないらしい)のが良い生け方だとされている様子。
……なのに、ここからが私にとっての謎。
そう言いつつも、「投げ入れる」前に花の形を整えるために余分(と亭主が見なした)な花を切るし、葉の数は奇数がよいという慣例があるようだし、花器に対する花の高さの目安(綺麗に見えるサイズ感)などがあるようだし……めちゃくちゃ人為的。
全然「野にあるように」じゃない。
人の手を加えまくった中に、「野にある」ような自然さを残す。きっとそれが、茶花に求められる性質なんでしょう。
現代でこそ季節感が大切にされる茶道だけれど、昔は現在ほど四季が意識されていなかったという話を読みました。
そもそも人間の生活が四季にもっと近接していたから、だとか。
現代は季節感のある茶碗や道具その他があるが、昔はそういう意匠のものは少なく、茶室の中で季節を感じさせることができるのは茶花と懐石料理の献立が主だったそうです。
現在では季節を思わせる銘のついたものが多いお茶菓子も、だんだん発展してきたもので、最初から存在したわけではなかったといいます。
茶道は道具の取り合わせも、語りすぎはよくないとされますから、花一輪から「野」という広い自然の雰囲気を茶室に持ち込むのが目的だったのかもしれません。
「野にあるように」という心得の中で整えられる、野から摘み取られてきたもう野に咲いてはいない草花。
なんだか哲学的な気持ちにさせられます。




