十よりかへるもとのその一
茶道のお稽古の道のりを思うとき、私は高校時代応援団だった頃のことを思い出します。
幹部として入団したからといってすぐにできることは少なく、団内を昇級していくまでは先輩方に叱咤される日々。できないこと、わからないことの方が多いんだからしょうがない。
応援団には「褒める」ということが基本的にないので、指示や演舞の型がきちんとできているのなら、「何も言われない」のが正解の証だったりします。
「百万人の茶道コーチング」によれば、茶道の師範方の中にもそういうスタイルの教育をされる方がいるそうで。歴史の積み重なった分野にはつきものの厳しさなのかもしれません。
著者の岡本浩一さんによれば、利休百首の「稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一」の通りで、たとえお点前としては初期に習うものでも、「十」まで経験・到達した人がやれば見ていてそれがわかるものだということです。
この句は、傍目から見てわかるだけでなく、内面的なことも言い表しているのであろうと私は思います。「十」まで経験した人だからこそ、「一」の見え方が変わってくるということもあるであろうな、と。
4月に応援団幹部となれば、およそ1年間の活動の間におおよその昇級は終わるのが順当です。自分が高校2年生となり後輩を抱える頃には、幹部として知るべき演舞は一通りできるようになっていて、そのほかに副団長エールがあったり団長エールがあったりと、上位役職に付随する追加があるくらい。
しかし基本的なことができるようになっても、高校2年生は高校2年生。新入生に先輩風を吹かせるにも限界があり、上にはまだ3年生がいます。後輩の指導を任せられることもしばしば。
2年生は自分が前年、必死になって覚えたことを、今度は自分が人に教える立場に立たされるわけです。
自分が手本をやれと、3年生から指示されることもあるし、一緒に演舞をウン100本やれと言われることもあります。何も知らないわけではないのに威張れない、先輩の手前謙虚な態度を持ち続けなければならない--。まるで中間管理職か、ちょっと知っていることが増えて調子に乗りがちな時期の生徒みたい。
育ちつつある2年生の傲慢さを挫くことがあるのは、1年生の目の前で演舞の細かい指摘をされる時。
「できているつもり」「もうきちんと覚えたつもり」で指導しているのに、その自分にも至らないところがあったなんて。
あるいは1年生の演舞を見ている時にふと口にした注意の言葉が、去年自分に向けられたものとそっくり同じで「そうか、自分が必死になって『できているつもり』になっていた演舞は、もしかすると先輩の目にはこんなにダメダメに映っていたのかもしれない」と気付かされたり。
そういう気づきを重ねていく中で、最初に習った演舞だからといってどれかを軽んじたり、適当に済ませたりする気持ちがなくなっていく。
進度が違うだけで、自分も後輩もまだまだ練習の余地があると気持ちを落ち着かせていく。
一度、進むべき昇級の道を「十」まで通り抜けたからこそ気づく「一」の細部がきっとあるのです。
茶道の道でも同じような気づきが起こるのだろうなあ、と私は思っています。
その時どんな景色が見えるかは、これから探究していくのだけれど。




