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晒された標本

作者: 神矢幻太
掲載日:2025/10/27

 序章 静物


 夜の美術室は、月の光だけを光源とした神殿だった。石膏のダビデ像が、その完璧な肉体を青白く浮かび上がらせている。私はその前に立ち、自らの内に飼う、醜くも純粋な渇望の形を確かめていた。私はもはや「教師」という虚飾の喪服を脱ぎ捨て、ただ一人の女として、この神聖な闇に溶けていた。


「——来たか」


 物陰から現れた人影に、私は恋人を呼ぶように囁いた。私の生徒、影山。この死んだ学校に、私の呼び声だけを頼りに忍び込んできた、ただ一人の共犯者。


「先生。命令どおり、この学校のすべての闇を、僕の罪で満たしてきました」


 その声は、暗闇に溶けるにはあまりに清澄で、私の耳朶を淫らに震わせた。私は彼へと歩み寄り、その白いシャツのボタンに、熱を帯びた指をかける。彼の瞳の奥に、怯えと同時に、それを凌駕するほどの期待が燃えているのを、私は確かに見た。


「良い子だ。お前は、この退屈な世界から解き放たれるために、私に選ばれたのだ」


 すべては、あの埃の舞う夕暮れの教室から始まった。そうだ、始まりは確かに、私の意志だったはずだ。


 第一章 視線


 夕暮れの教室。黒板に残るチョークの痕は、交わりの後の虚ろな痕跡のようだった。私は教壇から、無垢なる魂たちの群れを見下ろしていた。彼らが放つ、チョークの粉と幼い汗が混じる、甘酸っぱい腐敗の匂い。それを嗅ぐことだけが、私の孤独を癒す唯一の方法だった。


 ほとんどの生徒は、私の言葉を知識としてしか受け取らない、思考停止した家畜の群れだ。だが、影山だけは違った。彼は私の言葉の裏にある肉体の響きを、その乾いた唇が紡ぐ官能を、聴いていた。


 その日、私は彼の挑戦的な視線に応え、微笑んだ。その瞬間、彼の背後の席に座る須藤という生徒と、影山が一瞬だけ視線を交わしたのを、私は見逃さなかった。それはほんの僅かな、取るに足らない出来事。私は自らの高揚が生んだ幻覚だと、そう結論付けた。この遊戯の支配者は、私なのだから。


 第二章 物音


 放課後の理科室は、ホルマリンの冷たい無機質な匂いに満ちていた。授業中の些細な反抗を口実に、私は影山を実験台に伏せさせていた。「罰」という名の、甘美な儀式。


 彼の背中に指を滑らせると、苦痛とも悦びともつかない呻きが漏れた。それは規則という偽善の仮面が剥がれ落ちる、真実の音。私はその音楽に酔いしれていた。


 その時、廊下の向こうから、用務員の持つ鍵束が微かに触れ合う音がした。カチャリ、と。世界が、私たちの聖域を侵犯する現実の物音。一瞬、私の背筋を冷たい汗が伝った。だが、影山は動じなかった。彼は私の指の動きだけに、その全身全霊を委ねているように見えた。彼のその純粋さに、私はかえって大胆になる。この密室で、外部の音は、むしろ私たちの共犯関係を強固にするスパイスに過ぎない。ホルマリンの匂いに抗うように立ち上る、彼の熱い肌の匂いを吸い込みながら、私はそう信じ込んでいた。


 第三章 舞台


 屋上は、どこまでも開けているのに、世界から隔絶された密室だった。錆びた手すりの向こうに広がる街の灯りが、非現実的なほど美しい。


「先生」

 背後からかけられた声に振り返ると、影山が立っていた。

「今日の『課題』、終わらせましたよ」


 今日の課題——この建物の全ての窓から、自らの罪を告白すること。

 彼はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見せた。そこには、薄暗い教室の窓辺に立つ彼の姿が、動画として記録されていた。


「先生、見てください。これが、僕たちの舞台の記録です」


「ぼくたち」——その言葉に、私は歓喜した。だが、同時に、指先が微かに冷えるのを感じた。記録? なぜ? その疑問は、彼の指が私の指に絡みついた感触によって、思考の彼方へと追いやられた。屋上を吹き抜ける、排気ガスと若い肌の匂いが混じった風が、私の不安を攫っていく。これは私たちの契約の儀式なのだ、と。


 終章 観測


 そして、今。私たちは夜の美術室にいる。


 私の指が、かつて彼に世界の秩序を教えるためにチョークを握っていたその指が、彼のシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。それは、私が築き上げたはずの秩序を、私自身の手で解体していく儀式だった。


 月光だけが、私たちの舞台を照らしている。冷たい石膏のダビデ像が、沈黙のまま私たちを見下ろしていた。その完璧な肉体を持つ神の前で、私は彼という若く未熟な肉体を祭壇に捧げようとしていた。私が、聖母として。


 だが、彼の肌に私の肌が触れた瞬間、儀式の主導権は、音もなく彼の手へと移っていたことに、私はまだ気づかなかった。はじめは戸惑うように私を受け入れていた彼の身体が、やがて確信に満ちた熱を帯び、私を導き始める。彼の指が私の背をなぞる。それはもはや、教えを乞う生徒の指先ではなかった。求めるものの在り処を正確に知る、狩人の指だった。


 美術室に満ちる、乾いた石膏とテレピン油の匂い。その無機質な香りに、私たちの肌が発する生々しい匂いが混じり合っていく。それは、聖なる神殿が、俗なる悦びによって侵されていく匂いだった。私は抗うことをやめた。いや、抗うという思考そのものが、彼の与える快楽の波に溶かされていった。私が彼を堕としているのではない。この若い肉体が持つ、純粋で残酷な欲望の深淵に、私が引きずり込まれていたのだ。


 月光が、汗の浮いた彼の肩をぬらりと照らす。その光景は神々しいほどに美しく、そして、私の敗北を決定的に告げていた。私の築き上げた美学も、矜持も、すべてがこの若い肉体の前では無力だった。私は、ただ与えられる悦びに喘ぐだけの、雌の肉塊に成り果てていた。


 やがて、熱の嵐が過ぎ去り、静寂が戻る。私は、まるで魂を抜き取られた抜け殻のように、彼の胸に身を預けていた。心臓の鼓動だけが、やけに大きく部屋に響いている。朦朧とする意識の中、私は勝利者である彼の匂いを吸い込んだ。そのことに、奇妙な満足感を覚えていた。


 その時だった。影山の唇が私の耳元で囁いた。その声は、もはや無垢な生徒のものではなかった。冷徹な支配者の声だった。


「先生。これで終わりじゃないですよね?」

 彼の指が、私の髪を優しく、しかし抗えぬ力で掴む。

「次の『授業』は、何にしましょうか。……観測者たちも、きっと楽しみにしていますよ」


 ——観測者?


 私がその言葉の意味を理解するより早く、彼の手の中のスマートフォンが、暗闇の中で青白い光を放った。画面には、いくつものメッセージ通知が、次々と浮かび上がってくる。


『須藤:最高だった』

『田中:次の配信はいつ?』

『斉藤:先生、マジで綺麗だな』


 そして、美術室の深い闇の奥から、くすくす、と複数の人間が息を殺して笑う声が、確かに聞こえた。


 ああ。

 私は聖母でも、女神でもなかった。

 選んだのは、私ではなかった。

 この舞台の主役は、私ではなかった。


 私はただ、ガラスケースの中で悦びに悶える、美しい標本だったのだ。彼らに「観測」されるためだけに、この神殿に祀り上げられた、一体の静物に過ぎなかったのだ。

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