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「こっち見んなバーカ!」
帰り道、全然見てないのに、村野はぼくを突き飛ばした。周りもおもしろがって村野と同じ言葉を繰り返した。女の子たちは、ぼくが鼻血を出したのを見ると、怖がって逃げていった。
鼻をつまんで家に帰ると、お母さんが泣きながらお姉ちゃんの着替えをバッグに詰めていた。何もわかってくれない、何もわかってくれない。呪文みたいに繰り返しながら、もうすぐ手術をするお姉ちゃんの元に出かけた。ぼくの鼻血には、気付いていなかった。
部屋にこもってトラキチを抱っこしていると、お父さんが帰ってきた。会社で少し偉くなったらしいお父さんは、いろんな人の悪口を言うようになった。今日もお母さんの悪口を言う声がした後、すぐにいびきが聞こえてきた。
ぼくは、お風呂に入って少しだけ泣いた。今日は卵と一緒に入らなかった。
部屋に戻ると、机の上にびっくりした顔のトラキチがいた。机には、卵の入った箱がある。トラキチは前足で卵をつついていて、驚いた拍子に、その足が卵を押した。
卵が畳に落ちて、くしゃって音がした。
慌てて駆け寄って卵を両手ですくうと、大きなひびが入っていた。
「ばか、トラキチのばか!」
ぼくは泣きながらトラキチに叫んだ。トラキチが部屋のすみっこに逃げて、「うるせえ!」ってお父さんが怒鳴った。
卵は死んでしまった。
ぼくは箱に卵を寝かせて、枕元に置いて、泣きながら布団に入った。少ししたらトラキチがゆっくり隣にやってきて、「ごめんね」っていうみたいに、「にゃー」って鳴いた。だから布団に入れてあげて、ぼくらは仲直りした。
泣き疲れて眠ってしまったぼくは、真夜中に目を覚ました。
窓から差し込む月光が眩しくて首を曲げると、ぼくと同じように光を浴びている卵が、揺れていた。
目の前でひびが増えて、ぱりぱり音がする。少しずつ殻がむけていく。
卵の中から、卵が出てきた。
ただ、その卵には小さな黒い目がついていた。マジックで書いたような点の目。太い線みたいな手と足もあった。卵は目をぱちぱちさせて、ぼくを見ていた。トラキチも、ぼくの隣で卵をじっと見つめている。
卵は立ち上がると、ぴょんと箱から飛び出して、畳に乗ると踊り出した。ぴょこぴょこ跳ねながら、楽しそうに身体を揺すっている。ぼくも何だかうずうずして、気がつくと布団の上で同じように踊っていた。トラキチも嬉しそうに跳ねている。
一晩中踊って、ぼくらは疲れてぐっすり眠った。
夢の中に、屋台のおじさんが出てきた。
毛糸の帽子にもじゃもじゃ髭のおじさんは、両手で段ボール箱を抱えていて、その中には目と手足のついた卵がいくつも入っていた。
「よく育ててくれたね」
おじさんはつまらなさそうな顔で、口元だけ笑った。その足元に、もう一つ卵がいる。あれは、ぼくの卵だ。おじさんが屈んで手を伸ばすと、その腕に飛び乗った。
ぼくの卵を段ボール箱に入れて、おじさんは背中を向けた。
目が覚めると、卵はどこにもいなかった。
枕元の箱の中には、卵のあった場所に、きらきらのスーパーボールが一つだけ乗っていた。