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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

物の怪たちの宴

べとべとさん

作者: 2Bペンシル

ストーカーを題材にした物語であり、想起させる表現を多分に含んでいます。

被害に遭われたことがある方にはお勧めいたしません。


現在被害に遭われている方や周囲にそのような方がいらっしゃる場合は、早急に警察ないしは弁護士にご相談することを強く推奨します。

下記のポータルサイトでは対処法や相談窓口が紹介されています。ご参考になれば幸いです。


ストーカー被害防止のためのポータルサイト(警視庁)

https://www.npa.go.jp/cafe-mizen/index.html

 薄暗い取調室の中で、私は鋭い目をした宮地という名前の黒いスーツを着た刑事さんと向かい合っていた。宮地さんの隣にはパソコンの画面を見つめるグレーのスーツを着た佐藤という若い刑事さんが座っていた。

宇陀(うだ)さん。犯人は確保されています。あなたに危害を加えることはありません。二度と近づいてくることも」

 その言葉で、あの時の事が浮かび上がってきた。

 近づいてくる不規則な足音。後頭部を焼くようなねばついた視線。髪を掴まれて引き倒されたときの恐怖。

 どれも二度と思い出したくない。目を背けて封印してしまいたい。

 それでも、聞かないといけなかった。

 しゃべろうとして口を動かすと、数日前アイツに殴られた顎と左頬の内側がずきずきと痛んだ。

「……刑事さん、私は一体、何を見たんですか」


 歩道のない狭い住宅街の路地を、橙色の灯りがまばらに染める。家の壁に反射する足音と遠くから聞こえる車のエンジン音、耳を澄ますと微かに聞こえるテレビの声や子供の騒ぐ声。側溝から立ち上るヘドロの臭い。

 それだけならよかった。

 足を引きずっているせいで聞こえてくる、アスファルトと靴底が擦れるざりざりとした不快な音。

 その足音は強く張りすぎた弦が奏でる不快な高音のようで、後ろからチクチクと刺してくる視線はごわついたセーターのように私をイラつかせた。

――また……!

 振り向くと、街灯で逆光になっていて顔はわからないけれど小太りの影が見えた。

 アイツだ。しつこい、ついてくるなと言っても、やめようとしない陰湿な奴の影だ。

 もう二週間以上前からこうだ。帰り道でも買い物に行く道でも、私が一人でいるときには必ず付きまとってくる。

――逃げよう。

 私はカバンのベルトを肩にかけなおして、人が多くて明るい大通りの方へと走っていった。

 

 アイツに出会ったのは、大学の講義だった。

 小太りで、控えめに言えばモテなさそうなタイプだ。テカるぼさぼさの黒髪と脂ぎって光を反射するあばたとシミだらけの顔に、厚ぼったい一重。黒い立体マスクをつけているから口元はわからないけれど、整っているとは思えない。服のセンスも小学生くらいから変わってないみたいで、しわだらけの白と黒の横ボーダーTシャツにダボっとした黒いズボンをはいた。

 そんな奴が、慌てているというか落ち着かない感じで神経質そうに机を叩いていた。

 積極的に関わりたい相手かと問われれば、10人いれば9人がそうではないというタイプだろう。近くに居なくても、カビと数日放置した生ゴミが混じったような臭いが漂ってきたのもあるし。

 だからといって、困っている人が目の前にいるのを無視できなかった。

 見かねて声をかけると、歯の隙間から空気が抜ける音を混ぜながら「テキストを忘れた」と言ってきた。

 それでアイツにテキストを貸して、私は友人に見せてもらうことにしたのだった。

 ただまあ、返されたテキストに連絡先のメモが――それもノートの切れ端に汚い字で――挟まっていたのは気持ち悪かったけれど。

 それからだった。

 学食や購買、図書館……果ては最寄り駅や大学の帰り道でもアイツの姿を見る事になったのは。

 最初の一週間くらいは変な偶然もあるものだなと特に気にしていなかったものの、二週間もするとさすがに偶然とは思えなくなって、行く時間を変えたり帰りの道を変えたりしてみた。それでも、アイツは消えなかった。

 生来の気の強さもあって恐怖よりも怒りが先に来た私は、ある日大通りで逆にアイツを待ち伏せて「付き合っているわけでもないのに付きまとってくるな、いい加減にしろ」とか「アンタみたいなのに好かれても嬉しくない」とか怒鳴り散らした。

 アイツは、ボソボソと何かをつぶやきながら――聞く気もなかった私はアイツが何を言っていたのか知らない――怒られた子供のように私のことを上目遣いで見てきた。そのみっともなさが私の神経を逆なでて、徹底的に言ってやろうと十分くらい人ごみの中で私の言いたいことをぶちまけた。

 その後アイツを道のど真ん中に放って家に帰ったというのが、今から三週間くらい前。

 でも、アイツの付きまといはエスカレートした。

 どこに行っても、アイツがついてくるのだ。友達と少し遠くの町へ出かけて行った時も、就職が有利になるかもという下心を抱きながら参加している老人ホームへのボランティア活動の時も。コンビニでバイトしている時でさえ、店には来なかったけれど帰り道に付きまとわれた。

 どこにでもアイツが現れて、私に自分を見せつけるみたいに堂々と付きまとってくるようになった。

 それどころか私のSNSを特定してきて、”どうしてあんなこと言ったの”とか”お話したい”とか不気味なメッセージを送ってきた。その都度ブロックしたけれど、アイツは別のアカを作って執拗に連絡を取ろうとしてきた。

 思えば、この段階で警察に駆け込めば良かったのだと思う。でも、ストーカー被害を訴えたら警察にないがしろにされたニュースとかまともに取り合ってもらえなかったとかいう投稿とか、そういうのばかりが目に入ってしまって駆け込む勇気が出なかった。かといって友達に相談すると「つきあってやればいいんじゃないの」と茶化されたし、あんな母親なんか頼れないし、助けてくれそうな人は私の周りに居なかった。

 誰も助けてくれない、誰にも頼れないっていうのは、辛かった。


 一息ついて、乾いた唇をなめて湿らせる。宮地さんは、まとまりのない私の話を遮ることなく聞いてくれていた。佐藤さんは私の話をパソコンに打ち込んでいるのか、ずっとキーボードを叩いていた。

「お辛いことを思い出してくださり、ありがとうございます」

 私はその言葉に首を振った。

「……本当に辛いのはこれからでした」


 スマホのバイブ音がガラス机の天板で嫌に増幅されて、暗い部屋中に響いた。

 不安のせいで寝られないままベッドで横になっていた私は、身体をびくっと震わせた。

 恐る恐る手を伸ばして画面を見ると、映っていたのは滅茶苦茶なメールアドレスから送られてきた変な日本語のメールだった。

 ほっと胸をなでおろす。

――良かった。ただの迷惑メールだ。

 と、次の瞬間送られてきたのはアイツからの”なんで無視するの”というメールだった。

 恐怖が、背骨を引き抜かれるような痛みを伴って全身を駆け巡り、持っていたスマートフォンを床に落とした。

「なんで……」

 私のメールアドレスなんて誰にも教えていないのに。

――なんで私の連絡先を。

 どうして連絡が?

 心臓がバクバクと鼓動を早める。

 コン、コン。

 小さいけれど確実に聞こえる大きさのドアノックが鳴った。

 荒くなる息に体がついてこられなくなって、両わき腹がつる。

 ガチャ、ガチャ、ガチャ。

 ドアノブが回って引っ張られる。

 口をパクパクさせながら必死に酸素を求めてあえぐ。

 キィー。

 ポストがゆっくり開くときに立てる、耳障りな音。

 耐えきれなくなった私は体の自由が利かなくなっているのも忘れて、近くにあった布団をかぶる。薄っぺらい布一枚だけれど、それでも少し音がくぐもってくれた。

 でも、私の頼りない防壁を崩そうとするスマホのバイブ音とドアノブの回る音は、意識が途切れるまで続いていた。


 付きまといがひどくなってからも大学には行っていたけれど、アイツのいる講義には顔を合わせたくなかったから出なかった。

 その間も捨てアカからの”今日もいなかったね”、”勉強教えてあげるから会おう”という執拗なメッセージは続いていた。

 毎日不安に駆られていたからか、なんだか体調が悪くなって生きる気力が無くなっていったのを覚えている。友達と遊びに行くのもアイツがいるかもしれないって怖くて行けなかったし、サークルの飲み会なんかにも参加できなかったし、バイトも休みがちになってシフトに穴を空けるようになった。ついには大学にも行けない日のほうが多くなっていった。

 しばらくすると、私の付き合いが悪くなったからなのか友達がどんどん離れていった。店長からも「体調が悪いのは仕方ないが、これ以上シフトを空けられると困る」といわれ、バイトをやめる事になった。

 私が孤立し始めたのと、ほとんど同時期だったと思う。

 SNSで知り合った男が――滑井(ぬめい)という名前で、プロフィール写真はすごいイケメンだった――私の相談に乗ってくれるようになったのだ。

 向こうからフォローしてきたのだけど、話してみると趣味も話も会うし住んでいるところも近いようだった。人との交流がアイツのせいで乏しくなっていた私にとっては、そんな理想的な話し相手は砂漠の中のオアシスというか蜘蛛の糸というかそういう存在になっていった。

 それである日、やっているスポーツの話をしていて"最近、前やってたテニスが出来てない"と送ると、その男が"どうして出来なくなったの"と聞いてきたのだった。

――この人なら相談に乗ってくれるかも。

 どうしてつい先日知り合った男に話せると思ったのだろうか。

 それくらい孤立しているのが辛かったのかもしれない。この人なら大丈夫だと思ったのかもしれない。

 友人がいなくなってサークルにも参加できなくなって、バイトもやめて大学も休みがちになって引きこもっていた私にとっては数少ない相手だったから。

 それで私は、アイツから受けている付きまといについて、所々ぼかして相談してみた。

 するとその男は"そういうことだったのか。君の周りにそんな男がいたら、捕まえてやる"と言ってきた。

 今考えると、知り合って間もない男にそんなことを言われたら不審がるだろう。でも、その時の私はまともな判断ができるような精神状態じゃなかった。

 周りの人が離れていく孤独も家に引きこもる生活も、私を蝕んでいたから。

 人は追いつめられると、はた目から見たら狂った判断をしてしまう。

 私は”じゃあ一度会ってほしい”なんて、自分から言ってしまった。

 それが、間違いだった。


 数日後、滑井と会うため最寄りの葉月駅で待っていた。アイツが現れるかもしれないという恐怖と、もしかしたら滑井が助けてくれるかもしれないという期待が体を震わせていた。

 でも、約束の時間になっても滑井は来なかった。

 代わりに現れたのは、アイツだった。

 アイツは脂ぎったぼさぼさの髪と腫れぼったい目、中学生でも着ないような剝がれかけの黒いプリントTシャツと黒いズボンに立体型マスク、ひょこひょこ動く特徴的で気味の悪い歩き方でこちらに向かってきた。

 凍った池に飛び込んだときのような悪寒が頭からつま先まで駆け巡った。

――アイツだ。

 すぐに逃げようと改札に向かうと、スマホが震えた。

――滑井からだ。

 助けてもらおう。そう思って画面を見ると、滑井から”なんで逃げるの”というメッセージが来ていた。

――え、嘘。

 身体が硬直して、その場から動けなくなる。

 滑井の正体はアイツだった。

 独りになった私が唯一頼れる人は、私をこんな状態に追い込んだ奴だった。

 肩を掴まれる。

 スマホから目を離すと、アイツが私のそばにいた。雑巾みたいな生乾きの臭いと脂が酸化した胃のあたりがムカムカする臭いが混じった、耐えがたい悪臭が私を襲った。

「へへ……来て、くれたんだ……」

 私は肩を掴む手を本能的に振り払って、改札へと走った。


 それからどう帰ったのかは覚えていない。

 気づいたら家にいて、トイレの壁にもたれかかっていた。便座からは酸っぱい臭いがして、口の奥のほうも喉が絞まる苦い味がしたから、たぶん吐いたのだろう。それすらも覚えていないけれど。

 体が芯から冷えて震えた。

 同時にスマホが震える。

 見ると、滑井からの”君の家って、思ったより古いんだね”というメッセージだった。

――家がバレた。

 全身の毛という毛が逆立つ。

 コン、コン。

 玄関から、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 

「家にまで来たのはその時からなんですね」

 あの時のことを思い出すと、今でも吐き気がする。安全だと思っていた場所が侵された時、足場が崩れて地面に落ちていくようだった。

「……はい」

 どうしてか、あの時のことを考えると子供の頃にあったことを思い出す。父親がいた頃の話だ。木登りしていた私が木から滑り落ちて地面にぶつかりそうになった時、父親が抱きとめてくれたことを。

――ああやって誰か抱きとめてくれれば、よかったのに。

「それからしばらくは……どこにも行っていなかったので、家から出なくても何とかなりました。おなかも空きませんでしたし、バイト代を貯めていたのでそれを切り崩せば……でも、そうもいかなくなったんです」

「大学へ休学届を出しにいく必要があったんですね」

「はい。その帰り道……」

 喉が詰まる感覚。

 絞りだした声は私のものとは思えないほどしゃがれていた。

「アイツに、襲われました」


『葵、聞いてるの? 学校からあんたが来てないって電話来たんだけど、どういうことなのよ? はっきり言いなさいよ』

 聞きたくもない女の声が電話越しに耳を突き刺す。出来ればこの声を聞きたくなかったのに。

「お母さん、最近ちょっと体調が悪くて……」

『だから地元で就職しなさいっていったでしょ。女なのに大学なんて行くからそうなるのよ。ちょっとくらいの体調不良なんでしょ、女は我慢強くないと結婚した後に大変なのよ。あの男が仕事辞めさせられた後、お母さんがなんとかして家を支えてたの知ってるでしょ、甲斐性のないろくでなしと結婚しちゃうとこうなるのよ。あの男が死んだあとあんたは私立高校とか金のかかる場所に行ったせいで本当に生活が――』

 早口でまくしたてられる父親への罵倒と私を責める言葉の数々。アイツにいつ襲われるかわからないという恐怖でここ最近眠れていなかった私には、あまりにも重い言葉の数々だった。

『――ところで奨学金の振り込みはどうなってるの。留年したらもらえなくなるんでしょ、こんなに休んでどうするのよ、留年はしないの大丈夫なの? お母さん、パートだけじゃ生きていけないから、あんたの奨学金が頼りなのよ、お母さんを見殺しにする気なの?』

 またお金の話だ。この女の浪費癖が全ての元凶なのに。

 父親はこの女の膨大な借金を肩代わりした挙句、返済の見込みがつかないストレスから倒れて退職に追い込まれて、鬱になって自殺したのも。塾に行って勉強したかったけれどお金がないからと言って行かせてもらえず、結局滑り止めの私立しか合格できなかったのも。高校は9割が就職で大学に行く方が珍しいって学校で、アイツがいるこの大学しか選べなかったのも。

 この女が見栄を張ってブランドやらなんやらに手を出さなければ、起きなかったかもしれない。

 それに奨学金を親に渡すのはダメだって分かっている。でも、渡してやらないと毎日のように電話してくるか、家に乗り込んでくるか……ストーカー並みに質が悪いことをしかねないのがこの女だ。

 出来る限り離れていたい。とはいえ、このままいけばこの女の言う通り留年からの退学だ。そうなってしまうと、この女の元に戻らないといけなくなる。それだけはいやだった。

 なら、選べる選択肢は多くない。

「……留年はしないから。でも、本当に体調が悪いの。しばらく休ませて」

 バイト先の店長が辞める前に教えてくれた『休学であれば奨学金は給付されないけれど、中断扱いだから復学すれば大丈夫』という話。調べてみたら、届け出とわずかな学費さえ出せれば休学できるらしい。

『休んだらどうなるの奨学金は』

「少しの間、もらえなくなる」

『はぁあ?』

 キンキンとした頭の中をかき乱す声の後、始まったのは私への罵倒だった。

『大体ね、あんたの成績さえよければ滑り止めの私立になんて行かせないで済んだのよ。公立は学費安いのよ、大学なんてあきらめて高卒で働けば金なんてかからなかったのよ。それを何十万だから知らないけど人様のお金使って迷惑かけた挙句いったい何様のつもりよあんた、頭おかしいんじゃないの。あんたなんか娘じゃない――』

 アイツに振り回された挙句、母親から理不尽なことを言われて――第一、入学金は父親が死ぬ前に私に渡してくれた隠し通帳からだし、学費と生活費は全部奨学金と私のバイト代で賄っていたのに――いよいよこらえきれなくなった私は、スマホのスピーカーを怒鳴りつけた。

「――じゃあもういい!」

 ピッという電子音。

 すぐに母親がかけなおしてきたけれど、着信拒否リストに登録した。もう二度と声を聴きたくなかったから。

 暗い部屋に響くのは、私の荒い息遣いだけだった。

「……届け出、出しに行かなくちゃ」

 しばらくして息を落ち着かせた私は、洗濯しておいた服を手に取った。

 袖に手を通すのは、二週間ぶりだった。


 休学届や異動届を出し終わって学生課を出るころには、不親切な案内や窓口が混んでいたのも相まって、外は墨を流したようになっていた。

――怖いな。

 帰り道にアイツがいるかもしれないと思うと、足がすくんだ。でも、ずっとこうしているわけにもいかない。友達だった人たちに会いたくもないし。

 構内を隠れるように移動して正門を出ると、大通りにつながる道は私を待ち構えているみたいに真っ暗だった。

 遠くに見える大通りの灯りを目指して、背中を大学の明かりで照らされながら、神経をとがらせて暗い道を進む。走りたかったけれど、しばらく引きこもっていたせいか既に足が棒のようになっていた。

 道半ばといったところで、不規則に鳴る足音が後ろから聞こえてきた。

――アイツだ。

 振り返ろうとしたとき、髪を掴まれて後ろに引き倒される。

 ブチブチという髪の千切れる音と、ゴリッという首の鳴る音。

 首から腰まで走る鋭い痛み。

 見上げるとアイツの顔が私の上にあった。オレンジ色をした大通りの微かな光に照らされて色を失った、陰影がはっきりとしたその顔は化け物のようだった。

「どうして答えてくれないんだよ……」

 マスクをしていた時には知らなかった分厚い唇とその奥から覗く乱杭歯。

 湿ったような体臭に混じった血なまぐさい口臭。

 アイツが私の腹に馬乗りになって身体をまさぐってくる。逆光のせいで陰影が消えた分、なおのこと不気味さが際立った。

 その光景も私の状況もあまりに非現実的で、怖いという感情以外のことを感じるという余裕はなかった。

「こんなに好きなのに……!」

 荒い息遣いとズボンのファスナーを開ける音が聞こえてくる。

――ああ。

 怖かったけれど、抵抗するのも嫌になっていた。

 親にも見捨てられて、友達もいなくなって、こんなのに襲われる私の人生って何だったんだろう。私はただ人並みの生活をして、仕事で活躍するとか誰か好きな人ができて結婚するとか、そうでなくても友達と一緒に居られればよかったのに。そういう生活をして、普通の人生を過ごしたかったのに。

――私の人生はこの化け物に弄ばれて、ここで終わるか壊れるんだ。

 そう思い始めると、途端に怒りが湧いてきた。

――嫌だ。

 腹に乗られているせいか声が出ない。それでもアイツを振り落そうと手足をめちゃくちゃに動かすと、左頬に衝撃が走って口が鉄の味で満たされた。

「あばれないでよ!」

 白く火花を散らす目は、アイツが右手をもう一度振り上げたのを捉えた。

 と、濡れたスポンジを床に落とした時のような湿ったベチャベチャとした音が近づいてきた。その音は小走りをしているかのように、少しずつ大きくなりながら私のほうへと向かってきた。

――何?

 アイツも音が聞こえているのか、殴ろうとした手をそのままにして辺りを見回した。

 大きなベチャッという音が一度響いたかと思うと、突然アイツが大声をわめき始めて両腕をブンブンと振り回し始めた。

「わあぁ!」

 私の体の上で暴れているアイツの顔を凝視していると、ぼんやりとだけれど『何か』がアイツに覆いかぶさっているのが見えた。

 それは、無色透明な『何か』だった。

 一番近いのはサラダ油を塗った透明な90 Lごみ袋だろうか。それが橙色の灯りをてらてらと反射しながら、アイツの上半身を覆っていた。暴れているのに合わせて、ベチャベチャという音を鳴らしながら、まるで生き物のように蠢いていた。

 アイツのあんこうのような顔が、その『何か』を通して見ているせいかくしゃくしゃにした写真のように歪んでいく。目が見たこともないほど見開かれて、口の辺りが白く染まる。乗られている腹のあたりがじんわりと生暖かくなっていった。

 目の前で起きていることが一切、理解できなかった。

 なぜか「すごく意味が分からないことにあうと思考停止するのって本当なんだぁ」とのんきに考えていたことだけは覚えているけれど。

「べとべとさん、お先にお越し」

 突然、若い女の人の声が聞こえた。

 するとその『何か』はベチャリという音を立てて飛び上がり、闇夜に溶けていった。

「あとは警察に任せてね」

 足音が遠ざかり、びくびくと震えるアイツの体が私の体に覆いかぶさった。

 胸が押しつぶされているせいで苦しい息を何度か繰り返すと、生乾きと鉄の臭いが混じった体臭に、なぜか乾いた唾のような生臭さが混じっていた。


「……これが、私の覚えている限りの全部です」

 私とアイツはほどなくしてやってきた警察の人に病院へ運ばれた。私は口から血を流していたし、アイツは失禁したまま痙攣していたから。

 ただ病院のエントランスを見た後、昨日までの記憶がない。三日ほど気絶していたらしい。

 付き添ってくれていた女性警官の方曰く、病院についた途端に気絶して目を覚まさなかったのだとか。お医者さんが言うには、極度のストレスのせいで神経がすり減っていたのが原因らしい。

 アイツのその後について詳しいことはわからないし知りたくもない。刑事さんの言う通りもう私に付きまとわず、一生刑務所に入っていてくれるならそれでいい。

 でも、気になることが一つある。

 あの晩、見たものは何だったのだろうか。あの透明な『何か』は何で、アイツに何をしたのだろうか。

「もう一度聞きます。私は一体、何を見たんですか」

 刑事さんが顔をしかめ、首を横に振った。

「……捜査中です。わかり次第、お伝えします」


 俺は警察手帳片手に、もう一度事件現場を訪れていた。

 暴行と強制わいせつ未遂、それは物証も証言もそろっている。それに宇陀さん(マル害)を襲った被疑者(マル被)の家宅捜索では、隠し撮りされたであろう彼女の写真――それも体液で汚されたもの――が見つかり、所有していたノートPCからは彼女の行動が事細かに記録されたデータと大量のSNSアカウント、そして彼女の趣味嗜好を学習させた生成AIが見つかった。まだ検証中だが、滑井の正体はその生成AIだと見ていい。

 問題は、捕まったマル被の異常な精神状態だ。

 逮捕の時点で失禁と自分の氏名もわからないほどの意識障害。診察した精神科医がいうには「外傷がないため、大変なショックを受けたことによる全般性健忘」だそうだが、要は自分が何者かもわからないほどまで発狂したということだ。

「一体、何が起きたんだ」

 それを教えてくれる証拠は、何も残っていなかった。

 マル被をあんな精神状況に追い込んだのは誰だ。何をしたら人間をあんな風にできるというのか。マル害が最後に聞いた『べとべとさん』――調べたら夜道に現れる妖怪だそうだ――それが正体だというのか。

 異様さを目の前にしてありえないと断じることができれば、どれだけ楽だろうか。

 数年前からこんな風に、マル被が発狂する事件が起きている。共通点はただ一つ、証拠がないということだけ。

 それこそ、目には見えない化け物がやったかのように。

「……妖怪が本当にいるっていうのか」

 懐のスマートフォンが震える。

――署からの電話だ。

 俺は考えるのをやめて、現場から立ち去った。


 半透明で不定形な異形がびちゃびちゃという水音を暗い夜道に響かせる。

 べとべとさんの前を歩くのは、一人の美しい少女だった。

「七つのお祝いにお札をおさめに参ります、行きはよいよい帰りは怖い……」

 彼女は立ち止まって振り向き、(くう)を見た。

「人の世を生きるなら、人の理を忘れずにね」

 また歩き出した彼女は、夜の闇へと消えていった。

 はい、どうも2Bペンシルです。今回も読んでいただき、ありがとうございます。

 今回取り上げたべとべとさんは、『夜道を歩いていると後ろから足音がする』という実体のない妖怪です(奈良や静岡での伝承)。後神や送り狼など、人の後ろをついてくる妖怪というのは思ったよりも多く、当時の方々が如何に夜道の背後を気にしていたのかというのが伝わってきますね。

 さて小説の内容を少し話しますと、一割くらいは実体験です。人生のうちのたった数か月でしたが、当時のことを思い出しながら書くのは苦痛で……ずいぶん時間がかかってしまいました。当初は加害者視点で書こうとしましたが、その体験ゆえか「あぁ? 何ナマ言ってんだこの【以降自主規制】」という感情が先行してしまい、一行以上書けなくて被害者視点に変わったという経緯がある作品です。後にも先にも、登場人物にここまでの怒りを覚えられることはない気がします。

 それでは締めに入りましょう。今回も読んでくださり、ありがとうございました。本作は練習がてらあまり使ってこなかった形式をとってみましたが、いかがだったでしょうか。この形式、もう少し凝れるな……とは思いましたが、それは追々。皆さまもストーカー被害にはお気をつけて。

 では、読者の皆さんに感謝を込めて。今回も読んでいただき、本当にありがとうございました。


参考文献等

・越智啓太. ケースで学ぶ 犯罪心理学. 北大路書房, 2013.

・信田さよ子. 加害者は変われるか?――DVと虐待を見つめながら. 筑摩書房, 2021.

・伊藤潤二. 伊藤潤二傑作集(8) うめく排水管. 朝日コミックス, 2013.

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