第四話 「真実と記憶」
「生み、出された…?」
告げられたばかりの事実に対して、確認するかのように疑問を投げかける。
それもそうだ。
生命というのは出産を通じることにより、長い時間をかけて育まれていくものであって、魔法のようにポンポンと作られていいものでは無い。
それに対して少女は、一瞬言い淀むような素振りを見せた後、ゆっくりと続きを話し始める。
「…信じてくれるか分からないけど、この世界は本来の世界とは隔離された、謂わば異空間として成り立っているの。しかもそれだけじゃなく、思ったことが何でも叶ってしまうような、夢の世界…。」
そう言って少女はゆっくりと左手を持ち上げたかと思うと、親指と中指の先を合わせてパチンッと弾いた。
そして次の瞬間
「キュルルルルルル!」
「うわあぁぁっ!?」
余りにも信じ難い光景に思わず飛び退る。
何故なら少女の背後にはトラウマの象徴…最初に泉で見たものと全く同じ姿で、清翠竜が立っていたのだ。
「キュルルルルルルルゥゥ!!」
あの時と本当に同じような雰囲気で立つ竜は、口を大きく開くと猛然と少女に襲いかかった。
「危ないっ!」
死角から迫り来る巨大な顎に少女はまるで気づいていない。如何に強い力を持っていたとしても、普通の人間が竜の口に噛まれて無事なはずが無く、直ぐに少女を助けようと手を伸ばした。しかし、
パチンッ
その手がもう一度指を弾いた瞬間、あと少しでその小さな体を噛み砕いたであろう竜がーー忽然とその姿を消したのである。
「はっ…?」
流石に唖然とした。
今の竜は幻覚だったとでもいうかのように跡形も無く消え、襲われた本人も平然とした顔で、変わらずそこに座っている。
「…これが、この世界。理想が現実に。夢が現に。知っているものなら、何でも一瞬で創って、一瞬で消せてしまう…。だからさっきの竜は、私が滝から飛び込んだ音を竜だと思い込んだ、あなたの空想から生み出されたモノ。」
実演は終わった、と言うように、再びゆっくりと少女は手を下ろしていく。
つまり、あの時の泉で実際に起こったのは1人の少女が水に落ちたという事実だけで、後の諸々は全て、それを清翠竜の出現と勝手に結びつけてしまった、自分の想像の世界だったというのだ。
ーー理想が現実に。夢が現に。
「………」
正直に言って、普段なら到底信じられる話では無かったろう。
しかし、指の一つで実際に竜が現れ消える現象を目の当たりにした今、それを疑う余地も根拠も、既に自分の中には残っていなかった。
「…あなたはまだ記憶が無いから別。自分の願いに固執されていなかったから、救い出すこともできた。だけど、簡単に叶ってしまう願いは、簡単にその願いの持ち主を呑み込んで、二度と現実に帰れなくしてしまう、の。愛した妻、望んだ地位、巨億の財宝…。みんな呑まれて、みんな消えていった…」
気づけば少女は、何処か遠い過去を見るような目をしていた。
変わらない表情からその機微を読み取ることは難しいが、その言葉の端々に感じ取れるのは、幾重にも連なった悔恨と諦念の情。
「…だからあなたはそうなる前に、早く此処から逃げて。そして、もう二度と入ってきてはいけない。出口なら途中まで案内する、から。」
少女はスッと立ち上がると、二時の方角に向いて静かに歩き始めた。恐らく其方について行けば、出口というものがいずれ見つかるのだろう。
「………」
白銀髪の少女の話を聞く限り、此処にいて自分が叶えられる願いは、自分がどんなものであるかを知っている必要がある。
しかし、今の自分が叶えたいのは「自分自身の記憶を知ること」そのものであり、どれだけこの場所に居たところでそれが叶うことはまず無いだろう。
そのまま一緒について行くだけで、本当の世界に行けるのだ。寧ろ、その方がよっぽど記憶を知る手がかりを掴めるかもしれない。
だが、まだ一つだけ、その口から聞いていないことがある。
「じゃあ、君はどうしてこの世界に居るんだ?」
「……」
此処が本当に何でも叶う夢の世界で、その危険性をそこまで理解している彼女自身が、今も尚留まり続けている理由。
「此処から帰る方法はもう知っているのに、どうして君は帰ろうとしない?」
夢を追って此処に来たものの、現実を知り、悲観したというのなら、今からでも帰ることが出来るはずなのに。彼女は「途中まで」と言ったのだ。
もちろん、願いに呑まれて消えるというのが実は全て真っ赤な嘘で、自分の平穏を侵す邪魔者を排除したいだけ、という可能性だってあるだろう。
それでも、さっき見たあの目が、あの言葉が、伝わってきた感情が、全くの紛い物だとはどうしても思えなかった。
「…私は此処から、出られない、から。それは私の意思や行動に関わらないこと。」
足を止めて白銀の髪を靡かせた少女は、こちらを振り向かないままに淡々と答えを返す。
「…本当は、ね…私もあなたと同じで、気がついた時には最初から此処に居たの。頭に残された記憶はほんの僅かで、何度も出ようとして、全部失敗した。出口はすぐ其処に見えているのに、もう手が届きそうなのに、私が入る一歩手前で、いつも遠ざかってしまう。」
先程までとは対照に、今度は少女が弱音を吐くかのような台詞を紡いでいく。
それはどこか、ずっと誰かに聞いて欲しかった、見て欲しかったという、叫びのような気がした。
「…それから暫くして、私が出ようとした所から、定期的に人がやって来るようになった、の。もしかしたら助けに来てくれたんじゃないか、って希望を持てたし、嬉しかった……だけど、違った、の。私には何故か人の思考を読み取ることができて、それで見えてきたのはどれも全部同じ、『世界を救う力をください』ということだった。誰も私を見てはいなかった、の。」
「………」
それは、少女が本心から思っていたことなのだろう。
後ろを向いた状態の少女の顔をよく見ることはできない。しかし、決壊したその静かな心の叫びは、目の前にいる1人の少女がどれだけ助けを期待し、どれほど裏切られたと感じていたのか。全てが十分なまでに伝えられていた。
「…だけど、そんな人達もやがては夢に溺れて消えていき、今はもう、人も殆ど来なく、なった。」
そこで少女はふっと此方に振り返る。
姿も表情も何一つ変わらないのに、その瞳は何処か儚げで弱々しく、今の彼女は吹けば飛んで、消えていってしまいそうな感じがした。
「…これで話は、終わり。ごめんなさい…あなたはちゃんと出口まで案内する、から、早くついて」
「できないよ」
再び出口の方に向き直ろうとする少女の言葉の続きを遮る。
「僕が此処を出て行った後、君はこれからもずっと、此処に一人で居続けるつもりなのか?自分の事も分からず、誰も助けに来ないこの世界で……そんなの、寂し過ぎるよ…」
今の少女の状況を考えると、その気持ちは痛いほどに理解できた。
自分と大して変わらない年頃の女の子が、自分と同じように記憶を無くしたまま、こんな訳の分からない世界に放り出されている。それも、昔から変わらずにずっと。
長く伸びた黒髪を地面から離し、少女と同じ目線に立った。
「僕は、君を置いたまま逃げることはできない」
「…勝手なこと、言わないで。私の話、聞いてたの?」
だが、少女も負けじと真っ直ぐに目を見て反論してくる。
「…私は此処から出られない。あなたまで道連れになる必要は、ない。」
「道連れじゃない。君を連れて此処から出るんだ。」
少女の口調は完全に諦めの色を呈していた。
しかし、それを鵜呑みにして素直に退く訳にもいかないのだ。すると、
「…バカ、なの?」
いつの間にか細身の剣を手にしていた少女は、それを有り得ないほどの速さで振り抜くと、黒髪の少女の首に向けて突きつけていた。
「私は…もう夢を見たくない。私が期待を持った人達が、願いに呑まれて消えていくのは、もう耐えられないのっ!!」
そこで初めて、今まで無機質を貫いていた少女の顔が、苦痛と怒りに歪んだ表情を見せた。
突きつけた剣の切っ先は細かく震え、瞳には薄っすらと涙が光る。
「だからっ…あなただけでも、逃げてよ…もう、悪夢は見たくない…」
「………」
涙は次第に溢れだし、緑の瞳は悲痛に揺らぎ始めた。
今や少女の心の鍵は完全に壊れ、これまでずっと塞ぎ込んでいたであろう感情が、渦となって漏れだしているのだろう。
だが、そこに現れる拒絶や逃避の声の陰で、確かに聞こえた一欠片の声があった。
本人も既に捨ててしまった小さな声が。
ーー助けて
「………」
目の前で震える剣の先を掴むと、血が滲み出すのも気にせずそれを握りしめた。
「なっ、何、をして…」
突然の行動に少女が思わずたじろいだ。
そうこうしているうちにも、血はどんどん流れを加速させて剣先を濡らしていく。
「僕は夢じゃない。この流れる赤い血が、今もそれを証明し続けている。」
力の抜けた手から握ったままの剣を抜き取ると、離れた地面に向けて放り投げた。
そのまま一歩歩み寄ると、血の流れていない方の手で少女の腕を掴む。
「は、はな、して…」
「離さない。」
拒否の言葉も無視して、強くその手を握り続ける。
「…僕は、君を絶対に見放さない。君の前から絶対に消えて無くならない。」
そして、自分より僅かに背の低い少女の体を抱き寄せると、強い言葉でそれを口にした。
「ーー僕が君をこの世界から助け出す」
「あっ……」
ーー条件のクリアを確認。次のフェイズへ移行を開始する。
その瞬間、世界が光るように、真っ白に書き換えられていく。
花々の咲き乱れる大地は視界の端から徐々に白く塗りつぶされていき、青い空まで雲のように白く染まってしまった。
「これは…」
「…こんなの、私も知らない。今までずっと何も変わりなんてしなかったのに…」
そして、二人以外の全ての存在が白く色を失ったところで、今度は「ゴゴゴゴッッ」という石同士を擦り合わせたような激しい音が響き渡った。
白い地面が一面赤茶色のタイル模様に変色したかと思うと、そこから次々に同色の岩盤が迫り出し、何かの規則に沿うように形を変え、空間を作り、途轍もない速さで一つの姿を露わにしていく。
やがて轟音が次第に収束し始め、全てが終わった頃、目を開いたそこはまるでーー遺跡のような世界に造り替えられていた。
周囲はまるで二人を取り囲むかのように出来上がった石壁で覆われているが、何故かほの明るく、前後に向けてずっと路が続いている。
余りの出来事に、暫く様子を見たまま立ち止まっていると、
「…うっ…!」
白銀髪の少女が突然頭を押さえて倒れ込んだ。
「どうした!?」
余りに突然の異変に、直ぐに声をかけて状態を確認するが、予想に反して少女はすぐに手を解き、ゆっくりと立ち上がった。
「…い、ま…頭の中に、いきなり情報が入り込んできて、記憶が…」
「お、おい…無理して立ち上がったりしたら」
「…ううん、大丈夫。少しだけど、思い出し、たの。私の…こと。」
それでも尚、混乱したような顔つきをした銀髪の少女は、黒髪の少女がかけた制止を静かに振り切る。
そして、小さなその口から、また一つの真実が告げられた。
「私は…『第六聖剣 アステリア』。世界を導く王の剣となる者。」