第二話 「紅く染まる」
そのまま草花の生えた地面に、両腕と両膝をついて無気力に倒れ込んだ。
「(そんな…僕は…男じゃ、無かった…?)」
あの不可思議な夢を見た時から前の記憶が、自分には残っていない。
過去を失い、夢を失い、自分を知る人達さえ居ない世界で、自分の人格だけは、今ここに居る「自分」という存在を証明してくれているものだと、心の何処かで安堵していた。
それなのに、目の前に映し出された一つの揺るぎない事実は、ただ一つ確かだと思っていた「人格」さえ否定してしまったような感覚。
最早、自分という存在自体が、全て虚構で出来上がった紛い物なのではないかと思えてくる。
何が本当で、何が嘘なのか。
「ははっ…」
自然と乾いた笑いが漏れる。
尚も少女の顔を浮かべ続ける水面を見つめていると、全てを投げ出して消えてしまいたくなりそうだった。
そこに、
ーーピチャン…
ーーピチャ…
……何処かから水の跳ねるような音が聞こえてくる。
ーーピチャン…ピチャン
何故か耳朶をよく打つ音だった。
音はその後も途切れることなく、ピチャン、ピチャンという軽快なリズムを刻んでいく。
とはいえ、少し離れたところには、規模こそかなり小さいものの滝が存在しており、水が跳ね返った音なんてごく普通のことだと割り切る。
どうしてそんな音に気を取られたのか自分でも不思議に思いながら、再び失意の底に沈みかけていたその時、
ーーバッシャァァッ!!
「!?」
何か物凄い水飛沫の飛び散る轟音が辺り一面に響き渡り、意識が舞い戻った。
それまで現実を映し出していた水鏡は波紋で忽ちに形を失い、崩れ去ってしまう。
一体何が起きた!?
思わず顔を上げて水音の発生源を探した。
落石?倒木?滝の決壊??
色々と思考を巡らせてみるが、それらに該当しそうな現象はどれも発生していない。
ただ分かるのは、滝から少し離れた水面を中心に波紋が広がっているようである。
「………」
波紋の中心に直接的な原因らしきものは何も見当たらなかったが、よく見るとその真下から「ぷくぷく」と泡らしきものが上ってきていた。
失われたはずの記憶の片隅で、覚えのない知識が危険を訴えかける。
あれは「清翠竜」が現れる予兆ではないだろうか、と。
ーー清翠竜
それは、とても澄んだ淡水にのみ生息すると云われる竜の一種。
竜にしては珍しい水中での活動に完全適応した種で、植物プランクトンを主食とすることから、全身が見事な翠色に輝いているとされる。
頭の中で流れる知識を振り返りつつも、未だ目を離すことはできない。
水面からは今もぷくぷくと気泡が上り続けていた。
ーーただし、縄張り意識は他の竜族同様に強く、長時間縄張りを侵す者には尾を使った激しい水飛沫での威嚇。
そして、それでも離れようとしない者には
ザバァッ!
波紋の中心から再び水飛沫が湧き上がった。
それも、先程のものよりずっと激しい音を立てて。
ーー竜自らが超高圧のブレスを出して侵入者を排除する。怒りの象徴たる気泡が上り続けたら要注意。
「キュルルルルルルゥゥ…」
甲高くもよく通る鳴き声が響き渡る。
そこには、身体を見事なエメラルドグリーンに覆われた一匹の竜が半身を覗かせていた。
鱗の一枚一枚がまるで刃のように研ぎ澄まされており、光を反射して水面を翠の極光に輝かせるその姿は、まさに芸術の域に達していると言っても過言ではない。
常人ならば惚れ惚れと見入ってしまうことだったろう。
尤も、その怒りに震えた鋭い眼光と、狙いを定めた大ぶりな口を向けられていなければの話だが。
「ギュルルルルゥッ!」
清翠竜は一際激しく鳴き叫ぶと、口の中で浮いた水を急速に回転させ始めた。
魔法と水の融合。
回転する水は激流の如く荒れ狂い、凄まじい音を上げている。それがブレスとなることは文字通り、火を見るよりも明らかであった。
「(どうする、逃げ切れるか……いや、今のこんな身体であんなものを避けられるとは思えない。防げるかどうかと言えば……ダメだ。魔法の知識なんてモノ、まるで分からない。)」
そうこう悩んでいるうちにも、ブレスはどんどん大きく固まっていく。
「(…あぁ、僕はまた死ぬのか…せっかく生きたいと願った結末がこれとはね…)」
逃げる努力も忘れて、またもや彼は望みを捨てようとしていた。
もう、諦めてしまえば楽になれるんじゃないか。
そんな考えがすっと脳裏をよぎる。
思い返せば、酷いことしか無かったじゃないか。
体が消えて、戻ったら女の子で、今は竜に殺されようとしている。
こんな人生を生きた先に、希望があるとも思えない。いっそこのまま消えてしまえば
「(…消える?)」
その言葉で不意に目が醒めた気がした。
「(バカか僕は。僕はあの時心の底から願ったじゃないか、『消えたくない』って)」
地面に足をついて真正面から竜に向き合う。
「(僕はまだ知らない…僕のことも、世界のことも、この体のことも)」
その目は真っ直ぐに対象を見つめて、
「(だから僕は知りたいんだ、全てを)」
竜が首を大きく持ち上げた。
ーー僕はこんなところで
「消えるわけにはいかないんだよっ!」
次の瞬間、首を勢いよく倒した清翠竜の口からブレスが発射された。
荒れ狂う激流がまるで槍のような鋭さと威力を伴ってその華奢な体を粉砕しようと襲いかかる。
「(どうすれば…どうすればいい)」
激流は凄まじい速度で向かっており、直撃するまで残り1秒も無いだろう。
即死の一撃を走馬灯のようなスローモーションで見つめながらも、脳は必死で回答を探し続ける。
どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、
どうすればこの攻撃を防いで生き延びられる?
ーーキィィィン…!
「っ!!」
その刹那、脳裏に突然一つの答えが流れこんできた。
ーーファスト・シールド
両手を使って魔力を一つの盾とする技。
約2秒間しか保たないものの発動は比較的容易であり、盾を顕現するまでに所用する時間は平均して僅か0.4秒という非常に高い簡易性を有する。
ただし、両手を使用しなければ顕現できないという特性上、武器を用いて戦う者にとっては用途が非常に限定され、魔力消費も激しい為に、実戦で活用される事は少なかったとされる。
まさに一瞬のうちに情報は流れ去る。
普通なら到底理解など間に合うはずも無いのに、何故か昔から知っているかのように理解は及んだ。
「……」
実際に使えるかは分からない。
もしかしたら失敗するかもしれない。
それでも、
「ファスト・シールドッ!」
素早く突き出した両手を広げ、そこに全力で意識を集中させた。
そして、
ドォォォォン!!
果たして、激流が少女の体を打ち砕くことは叶わなかった。
真正面から迫りくる激流が、腕の僅か数センチ先で薄緑色の盾に防がれていたのだ。
「ぐっ、あぁっ…!」
しかし、その余りにも重い一撃は盾を構えた小さな体ごと吹き飛ばしてしまう。
華奢な体が草の上を何度も転がっていく。
「っ…はぁっ、かはっ…!」
盾で防いだことで直撃こそしなかったものの、衝撃で5メートル近く吹き飛ばされた体は、既に全身が悲鳴を上げていた。
右腕は折れてぶらんと垂れ下がり、足は脱臼したかのように言うことを聞かない。
転がっている時に口の中を切ったのか、さっきからずっと血の味がする。
目の前では、仕留め損なった標的を確実に消し去る為なのか、清翠竜が再び高水圧を生成しているところだった。
「ここまで、なの、か…」
必殺の一撃を放たんとするエメラルドの輝きを睨みつけるも、右腕の使えない今の状態では、さっきの盾でもう一度防ぐことも叶わない。
仮に腕が使えたとしても、魔力というものを使い過ぎたのか、脳がグラグラとしていて不可能だろうと感じた。
それでも、終わりの時は刻一刻と近づいていく。
「ギュルルゥゥッ!」
竜の首が予備動作を始め、遂にブレスを放とうとした
その時、
「…邪魔」
竜の真下からバシャッと水音を立てて何かが飛び出したかと思うと、その首が一刀両断される。
「なっ…!?」
竜は何が起きたのか分からない、といった表情のまま、頭身を断面に沿ってスライドさせると、現れた時と同じように盛大な水飛沫を上げて倒れていった。
泉は夥しい量の血液を吸い上げ、澄んだ透明から一転して底知れない真紅へと変わり果てていく。
そして、血の海と化した泉に浮かぶ竜の亡骸と、その上には
「…汚い」
全身を返り血のドレスで染め上げた、美しくも悍ましい白銀の死神が立っていた。