表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ヨクトメートルの命

作者: 浜能来

ヨクト(y)

ミリ(m)などの、ある単位の頭につけて用いる接頭辞

1mmが1mの10の−3乗倍を表すのに対し、1ymは1mの10の−24倍を表す

 雲をつく巨塔。

 結晶化した小さな鉱物たちが陽光にキラキラと光る、そんな雪のように白い石灰岩が積み重なって。魔法建築学の粋を集めて作られた純白の杭は、そう呼ぶに相応しかった。

 その周りには、火山の噴火口のようにポッカリと、一切の建築物はない。代わりとばかり、巣穴に群れるアリやハチなどと見まごうほど、足の短い草を踏みつけに様々の人々が群れている。

 彼らが一様に見上げる先には、地上数十メートルで浮遊する円環があった。三つの輪を重ねた形のそれは、はるか漆黒の先にある土星にも似ていて。子供に弄ばれる天球儀のように、金の煌めきを放ちつつふわふわ揺れる。

 三本の輪に回るのは、夕焼けの橙と、澄み渡る青空色と、命溢れる春の新緑と。

 それぞれが正義、厳正、公平の司法三原則を示していて、つまりそれは、この塔が裁判所であることの証拠である。


 そう、ここは『王立魔法裁判所』。


 そして、そこに集う彼らは--

 裁判所のシルクのような外壁にすーっと一筋、光が走る。扉のように四角を作り、果たしてそれは扉のように開かれた。

 暖かなオレンジの光を背景に現れるのは、人間大の木偶人形。制服を着込んだそれは、目も鼻も口もない木目そのままののっぺらぼうで、恭しく喋り出す。


「遠いところご足労いただきありがとうございます。毎日毎日、このようにたくさんの国民の皆様にご来場いただき、感謝の念に堪えません」


 文字通りの定型句に、野次が飛ぶ。含まれる感情には、裁判の緊張感だとか、被告人への憤りだとかなんだとか、そういうものは当然のごとく含まれていない。


「……失礼いたしました。そうですね、私の話を聞きに来たのではないのでしょうから」


 木偶人形は木偶人形のくせに一丁前に肩を落とし、直後、大仰に腕を広げて歓迎を示す。


「さぁ、開場です!  本日も斬首刑、絞首刑、焼死刑に残念ながら懲役刑!  よりどりみどり取り揃えております。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」


 どよめき。

 一礼する木偶人形を差し置いて、オレンジの光に我先と入っていく人々。どの人を取っても、おもちゃ屋のショーケースを前にした子供のような、そんな喜色だけが浮かんでいた。


 ◇◆◇


「72番、今日の徴収は終わりだ」


 閉じた瞼の裏にまで届いていたオレンジの光が、魔力の光が上へと引いていく。

 錆びついた鉄の被り物が外された。血の匂いに似た鉄臭さから解放されるも、結局待ち構えるのは嗅ぎ慣れた湿った岩の匂いだ。

 寝起きのようにぼやける頭を振って、岩を削っただけの椅子の上で身体を伸ばす。見上げれば、さっきまで自分の魔力を好き勝手に吸い取っていた被り物が、背後の岩柱の突起にかけられている。岩柱とそれは一つのホースで繋がっていて、きっと今頃は1ヨクトエーテルすら無駄にすまいと、装置内に残った私の魔力すらも吸い上げているらしい。

 別に浅ましいとも思わない。所詮、ただの装置なのだから。


「ん?  何をしている。さっさと牢に戻れ」

「……申し訳ありません」


 どうせ謝らなくても、こいつは何も言わない。あの痩せ細った神経質な看守なら難癖をつけてくるだろうが、長年の経験からこの無精髭の看守はなんとでもなると教えてくれる。

 そうではあっても、万が一のための謝罪を述べて私は立ち上がった。数時間座り続けて固まった体が悲鳴を上げる。岩を掘り抜いただけの洞窟の、その濡れた岩肌の感触が素足に気持ちいい。もう十数年間味わい続けた感触。ドーナツ状の部屋を見渡せば、部屋の中心にそびえる岩柱を囲むように座って被り物をしている囚人ども。ぽつりぽつりと配された松明に照らされたその様は、上にいる木偶人形と全く同じに見えなくもない。先ほどまで、私もアレだった。

 いや、アレである。


 ――からん、からん。


 軽くて、乾いて、虚ろな音。搾りかすが放った、最期の自己主張。

 音は岩柱の向こう側から。蛍が夏の川辺に舞うように、オレンジの光の粒が岩柱の縁を彩る。人の命。成れの果て。魔力を吸いつくされて、カスになって。維持できなくなった肉体の崩壊。人の命の尊さなど知らないが、人の命は美しいという言葉は、ある程度認めてやってもいいだろう。臨終の光が消えていく。あの音はきっと、肉が光と消えて残った骨が落ちた音。


「ちっ、余計なことしてやがったな……」


 そばにいた看守は舌打ち一つ。オレンジの残照に照らされながら、その忌々し気な表情の影を強くして、携えていた刺又の先を動かす。やはり岩柱の影となって見えないが、音から察するに骨を掃いてどかしているのだろう。きっとアレも、『骨溜め』の仲間入りだ。

 つまり、私には何の関係もない。踵を返し、自分の居城に戻ろうとして、足もとに違和感。骨食いだ。何処からか入り込んで、『骨溜め』の骨を食い荒らすちいちゃなちいちゃな益虫。光を映さず黒々として、日本の長い触角を痙攣させる。

 白い骨ばかり食うくせに、足裏にべっとりとついた体液は緑色。彼は無残にも踏み潰されていた。他でもない、私によって。

 嗚呼、哀れ、哀れ――


 ここは、王立魔法裁判所のはるか地下。残念ながら懲役刑になってしまった無能無粋どもが集められる、裁判所の動力源。

 思い出す。あの日の裁判、自分の心が冷えて、萎んで、何かに吸い取られてしまうような感覚。

 私の裁判は、前座だった。あそこは裁判所であって、その実、娯楽施設であった。上流階級の下品な欲望と、下流階級のどうでもいい優越感のための。人の醜さのるつぼとしての、完成形。


 そして、そのるつぼでぷかり、浮かび上がるには、私の罪は足りなかった。


 もう何の罪かも覚えてない。窃盗か、暴行か。とにかく生活に苦しんだ末だった気がする。兎にも角にも、その罪はあまりにも軽すぎて、わざわざ裁判所を使うほどのものではなかったらしい。

 だから私の裁判は、天地を繋ぐ廊下となっている、塔の中央吹き抜けで行われた。

 地下から吸い上げられた魔力で壁自体がぼんやりとオレンジに光っていて。あるのかないのかもわからない天井からは、柔らかな光が七色に移ろいながら、残酷に私を照らし出していた。

 それだけでは飽き足らず、まるで私を取り囲むように。がこん、がこんと重い音を立てながら、筒状の壁を滑るように、無数の石の箱が縦横無尽に動く。入り口から入って来た人たちが、感嘆の声を上げながらやってきた石の箱に乗り込んでいくのが見えた。何て見事な彫刻だとか、どうでもいい感想が聞こえたのを覚えている。

 しかし誰一人として、目の前で行われていた私の裁判に、目もくれず。

 やっつけ仕事だった。弁護士もない。検事もない。木偶人形の裁判官だけがある。

 聴衆もいない。世間話に花を咲かせる声が聞こえる。私を指差す子供に、親があんなつまらないものを見るのはやめなさい、と言っている。

 機械的な言葉だけが、私の脳を通り過ぎていた。柔和な微笑みをたたえた女神の彫刻が、私を見つめながら壁を回っている。あなたにはこれから、アレを動かしてもらいますと言われて、それもいいかもしれないと思った気もする。

 気づけば私がいたのが、この地下牢だった。


「お帰り、今日も疲れたろう」

「皮肉ですか?  お疲れもなにもないでしょう」

「まぁ、そう腐るでない」


 同じ牢の好好爺、162番が鉄格子越しに声をかけてくる。

 他にやることもないからと、日課になっていた過去の思い返し。また同じところで、私の牢にたどり着いたようだった。

 岩壁を大の大人が三、四人寝転がれるくらいにくりぬいて、いくつも鉄の棒を突き刺しただけの牢。脇に立っていた看守が私を認めて、軋みをあげる扉を開けた。

 背の低い扉をくぐる私をシワの中に埋もれた瞳で眺め、162番は再び、作り物じみてシワだらけの顔を動かして言葉を紡ぐ。骨董品の魔道人形が動くみたいに、ぎぎぎと呻きが聞こえそうであった。


「また大人しく戻ってきたのかね」

「はい、無駄なことはしない主義です」

「ほっほっ、長くここにいるが、君みたいにつまらない男は初めてだ。上のやつらの気持ちもわかるのう」

「……私に言っても、嫌味にはなりませんよ。残念ながらね」


 扉の閉まる音を背中に聴きながら、敷かれた薄い布に寝転がる。汗臭く黄ばんでいても、慣れてしまえば気にならない。魔力の徴収が終わってしまえば、生命活動最低限に残された魔力を大事に大事に、こうして寝転がって次の徴収を待つほかはない。162番もやはり、牢にいる間は岩壁に背を預けて座り込んでいるのが常だった。彼が教えてくれたのだ。余計なことをすれば、今日のアレのようになるのだと。

 私はいつものように瞑目して、口癖を口にする。


「今日も、私は幸せですから」

「ははぁ。また、誰か死んだのか」

「……はい?」

「ん?  違うかの?」


 何か言い返そうとして、押し黙る。

 路地裏の極貧より幾分良いと、まともに何ができるでもないが、食事だけは一日二食は取れるのだからと。そういう意味で言っていた。だが、この骨と皮ばかりの老人の瞳は、強い。薄れた色素に反して、確信が満ち満ちている。その瞳の前にいるのはたいそう居心地悪く、不快で。心がのぞかれる感覚とはこのことか。

 不思議と、心がささくれだつ。


「お前さんは自覚がないのだろうが、お前さんのその口癖は人が死んだ時に出るもんじゃ」

「たしかに、今日は一人死にましたが……」

「ほっ、健康なことじゃ。大方脱走しようとして、体力を使ってしまったのじゃろうなぁ」

「えぇ、まったくもって愚かなことです」


 魔力徴収はそのものの生命活動に必要な最低限まで行われる。それはその人間の体調に寄ることなく、脱走しようと体力を使い、生命力たる魔力を消費しようものなら、翌日の魔力徴収で死んでしまう。一日中に脱走しようとしても、ギリギリの魔力量では脱走の前に魔力が尽き、生命力が尽きる。

 だから脱走は愚かなことで、誰もが飼い殺しを受け入れていて、故に誰もが死んだ魚の目をしている。自分の目をくりぬけば、同じ目があることだろう。

 そんなものだから、なぜか一人目をぎらつかせていたアレが死ぬことなど、とうにわかっていた。予想通りでしかなかった。

 だというのに、人が死んだからと自分は幸せだというなど、まるで言い聞かせてるみたいで。

 見下ろしているはずなのに、まるで下から探り見られているような162番の視線から、いつの間にか私の目は逸れていた。誤魔化すように、目を閉じる。

 瞼の裏の暗闇の中で、隙間風が抜けるような、小さな笑いが聞こえた。


「すまんの。老人の戯言じゃ。だからそう拗ねるな」

「別に拗ねてなどいません。ただ、脱走しようとして、脱走できなくて死ぬ彼らより、私は比較的幸せ。それだけです」

「あぁ、わかったよ。もう何も言わん」


 薄目を開けると、降参したよとばかりに両手をあげる162番がいた。ただ、その動きはひどく緩慢だ。老いによる衰えだと、猿でもわかる。

 証拠に、年に一度魔力徴収量の調整があるわけだが、彼の徴収量は年々減っている。魔力とは生命力。もう彼の命は長くないと、皮肉にも私たちを縛る装置が告げていた。最近では、看守に肩を貸されて戻ってくることもあるという。


「ただ心配じゃのう。もう儂も長くない。こうしてお前さんをいじってやるやつがいなくなってしまう」

「別に、いなくても構いませんよ」

「そうは言うがの、ここでの生き方を教えたのは儂じゃよ?」

「別に、あなたがいなくても私は大人しくしていたと思いますがね」


 そうかね、とだけ残して彼はどうやら眠りに入ったようだった。終わったと思い心が嘆息する。詰まったものを抜こうとする。けれど、目をつむれば彼の呆れた声色が反響し、謝意と憐みの入り混じった表情が目に浮かぶ。

 どちらが根負けしたかは知らないが、意識が睡魔につかまるまで、私はそれらとにらみ合っていた。


 ◇◆◇


「なぁ、72番だろ。ちょっといいか」

「……なんですか?」


 私が牢に戻る途中で声をかけられたのは、それから少しのことだった。最近魔力徴収室で人がよく死んでいて、また牢で162番に笑われるのかと、滑らかな岩壁を撫でながら考えていた時だった。急な仕事の増加に喜び勇んだ骨食いたちが、右に左に走り去る。

 彼は、私にしてみればまったく知らぬ、赤の他人。ドーナツ状の魔力徴収室は幾つにも枝分かれした洞窟の先端にあるものだから、牢に戻る最中、普段会わないような人に会うのは別に珍しくもないのだが。相手が一方的に私を知っていることに、何かきな臭さを感じずにはいられなかった。


「厄介事なら遠慮したいのですが」

「あー、もちろん、厄介といえば厄介だが、悪い話じゃあないぜ」


 その男は声こそ若いが、ここは長いのだろう。伸ばしっぱなしの髪に無精髭、そして運動不足でこけた体。つまりは、自分と同じ体をしている。

 けれども一つだけ、違うところがあった。

 目だ。あの愚か者どもと同じぎらつきではないが、まだその目は上を見ている。生きている。話の内容など、聞かずともわかろうというものだ。


「残念ですが、脱走なら他を当たってください。私は今のままで幸せだ」

「--ははっ、本当に言うんだな。『幸せだ』なんて」


 破顔一笑。

 私はその反応に162番を思い出して顔をしかめる。彼はその後もしばらく笑い続けたあと、笑い疲れたとばかり、一つのため息を残して笑いを収めた。

 そして、先程までの砕けた雰囲気までもを収めて、彼は言った。


「なら、俺たちの脱走を手伝えよ」

「……だから、私は今で十分なのです。危険を冒してまで逃げたくなど」

「誰が、お前に逃げろと言った、72番」


 耳を疑う一言だった。

 脱走とは、逃げることのはずだ。だのに、彼は私に逃げろと言うわけではないらしい。

 真意こそ計りかねるが、伸ばしっぱなしの髪の奥で光る彼の目が、ふざけているのではないと語りかけてくる。


「はっきり言って、脱走なんてできるはずがない。俺たちの体力には限界がある。ご丁寧に個々人に合わせてギリギリまで魔力を吸い取っていきやがるからな」


 戸惑う私に取り合わず、彼は言葉を続ける。


「地下深くにあるここから、誰もその詳細を知らない道を通って、一度の追っ手もかからずに逃げられるはずがないんだ。追っ手から逃げ切れても、そこで魔力の尽きた俺たちは光になって消えちまう」


 だがな。彼はそこで一度言葉を切る。

 ここまでのことは全て真実であり、疑うべくもなく、だからこそ私は惹きつけられた。脱走への期待でなく、純粋なる好奇心として。

 彼は満足げに口の端を釣り上げ、果たして告げる。


「俺たちで作る道なら、話は別だ」

「--道を、作る?」

「そうだ。一箇所だけ、この洞穴にはゆるい場所がある。そこを、掘るんだ」

「そんな馬鹿な……」


 ありえない。体力の問題でいえば、ただ逃げるよりもよっぽど体力を使う。どう考えても途中で魔力が切れてしまう。そのためには何人が……


 あぁ、そうか。


 そういえば、何人も死んでいるじゃあないか。


「つまり君は、私に死ねと言うのか」

「……察しが早いな。そうだ、俺はお前に逃げろとは言わない。死ねと、ただ死ねと言う」


 やはり。近頃の魔力徴収による死亡率の高さは、彼の企みに起因していたのだ。

 別に怒りもわかない。死ねと言われたからなんだと言うのだ。元来、脱走を考える人間は愚かである。

 だから、私は自然、鼻で笑っていた。嘲笑していた。


「おい、それだけは許さない。嗤うのだけは許さない」


 途端、彼の声のトーンは低いものに変わる。腹の底に彼の声が響くようで。気づけば、一歩下がっていた。そして、それに無性に腹立つ私がいた。


「許さない? 私の反応は当然だ。自分が脱走できるわけでも、脱走の成功が保証されているわけでもない。無駄死にと何が違う」


 自分の声の大きさに驚く自分を心の片隅に感じながら、視線は目の前の男を捉えて離さない。鼻白むでもなく、怯むことなく、私を見つめ返すこの男。

 どこか、哀れみを込めて私の目を覗き返す、この男。


「そうか、お前には死んだように見えるか」

「見えるも何も、死んだだろう」

「すると、お前は生きているわけか」

「わけもなにも、見たままだろう!」


 要領をえない、まるでカーテンを押すような問答に苛立った頃。今度は、私が嘲笑を返される番だった。


「じゃあやっぱり、お前は動く死体で間違いないじゃないか」

「なに……?」

「死んでも殺せば蘇る。死んだ彼らの方が、よっぽど生きているさ」

「何を根拠に……!」


 私を止める声があった気がした。

 それを言ってはならない。それを言って仕舞えば--

 言って仕舞えばどうなるのだ。その答えだけは聞こえない。聞かせまいとするように。

 けれども、私には確信があった。

 この男は答えを持っている。賽は投げられた。今にこの男は、この腹立たしい顔で、つまびらかにしてしまう。

 未知への恐れと、やれるものならやってみろという敵意が、私の中でまぜこぜになる。


「お前は、ただ生き損なってるだけだからだ」

「は……?」


「じゃあ今、お前は何をしてる。生きてるだけだろう」

「そ、それは仕方なかった! 俺の生まれは貧しかったし、裁判は不当だった!」

「人のせいにするな。そう言ってるうちは、お前はそいつらに生かしてもらってるんだ。心を守ってもらって、生きてるつもりになってるだけだ」


「そんなことはわかってる! 俺はそれを選んだんだ。それが幸せだから。俺は自分で選んでる。何もしてないわけじゃあない!」

「その幸せはお前の幸せか? 誰かと、俺たちと比べて幸せなだけじゃないのか? そんな幸せは安すぎる。そんなものにすがって、お前は『考える』を捨てただけじゃないのか?」


「それは……」


 頭の中を言葉が渦巻く。

 罵倒、暴言、誹謗中傷。

 言訳、弁解、自己弁護。

 そのどれもが、頼りなく思えて仕方なくて。私の口は、酸素を求める魚のようにぱくぱくと開閉を繰り返す。

 言葉の渦は急速に自分の脳を冷却し、心を冷却し、残されたのはひたすらの恐怖。私の知らない私を削り出した、目の前の男への恐怖。


「おいっ、何をしている」


 弾かれるように振り向く。耳障りな声の持ち主は、あの痩せ細って神経質な看守だ。剣呑な目つきで舌打ちをしながら、のっしのっしと歩いてくる。

 不意に、あの男が顔を寄せてきた。


「一つだけ言っておく。俺たちは選んだんだ。どうせいつか終わるなら、せめて自分で選んだ終わり方を、と。逃げたんじゃない、選んだんだ」


 それだけ言って、彼は早足に去っていく。その背中をぼんやりと眺めていると、乱暴に肩に置かれる手があった。


「おい、何を話していた」


 振り返るまでもなく、看守だった。彼はすでに腰にさげた警棒に手をかけていて、きっと体罰を振るう理由を見つけて内心喜んでいることがありありと見えていた。

 なるほど。あの眠たげな看守にしろ、こんな腐った看守しかいないのだ。あの計画も、もしかしたら成功するのかもしれない。


「おいっ、何がおかしい!」


 言われて気づく。どうやら僕は、笑っていたらしい。看守の表情からして、さぞ気味の悪い薄ら笑いだったのだろう。

 衝撃。

 ちらつく視界。その中で看守が横倒しになる。

 いや、私が横倒しになったのだ。

 どろり、生暖かさが私の頭と洞窟の床の間を満たしていく。この鉄臭さを嗅ぐのもいつぶりだろうか。痛い。痛い。この感覚もいいつぶりか。懐かしい、いや、懐かしむものではない。私がそれほどマゾヒスティックであった覚えはない。

 いや、そうだ。そもそも、そもそもである。


 --そういえば、私がこの看守に殴られるのは初めてか。


 何故だろうと思った時には、眼前に靴底が迫っていた。


 ◇◆◇


「ほら、着いたぞ。次はないからな」


 厳格な言葉とは裏腹に、きっとその顔は余韻にほころんでいるに違いない。私は腫れ上がった瞼の裏で、次を待ち望んでいるのはお前だろう、と毒づいて、そのまま背中を蹴り飛ばされた。

 倒れ、頰をしこたま擦り付けた床面は、薄くくたびれた布の感触で。後ろ手に縛っていた縄が解かれる感触が、私が自分の牢に戻ってきたのだと教えてくれる。

 ぎぃ、と。安っぽい鉄格子が軋み、続く鍵の閉まる音が日常の帰還を告げた。


「おぉ、今日は随分遅いんだの」


 すっかり、しゃがれていた。朽ちかけた椅子に座れば、ちょうどこんな音になる。

 どれだけ人のものとは思えずとも、この牢には私の他に162番しかいないのだ。命を吐き出すかのような咳に、穴を開けて音の鳴るようにした砂糖菓子を通したかのような呼吸。


「どうした、何かあったのか?」

「……」


 ただでさえぼんやりとしか見えないが、ぼんやりとしか見えないほどには、私は小汚くやられてしまっているはずだった。体の節々がヒリヒリと熱を持ち、服と擦れるだけで痛みが走る。床に触れてみて気づいたが、顔の形もどうやら変わってしまっているらしい。

 162番はそれすらも見えないほどに、老衰しきっているのだった。


「何も言わんか。まぁ、物言わぬ人形だろうと、一人で死ぬよりはマシじゃな」

「何を……」


 何を言っているのか。

 ぼやけた視界の先で、重い何かを吐き出すように、深いため息が落ちる。いったい、彼の骸骨が動いていると見まごうような体のどこに、それほどのものがあったのか。ぼやけた視界の中で、彼らしき像はその身をいつもの私のように、そして今の私のように横たえていた。


「何を? 相変わらず自分をわかっていないのじゃな。わかってるんじゃろ、わしは死ぬのだ」


 言われてみれば、そうだった。

 彼の弱っている様を見て、死を予感しない方がどうかしている。もちろん私だって、あと少しで彼と話すことも笑われることもなくなるのだと、なんとも呼べぬ心持ちでいたのだ。

 我ながら、何を言っていたのだろう。

 きっとこれも、あの不愉快な男のせいに違いなかった。

 そう思うと、遥か彼方であの男が、また私を笑う気がして。だからこそ、言葉には不本意な苛立ちが乗っていた。


「ご冗談を。それだけ言う元気があるんだ。死ぬ間際でもそんなに口が回るなら、墓場ではきっと恨み言のコンサートが開かれますよ」

「つまらん洒落を言うのじゃな。そういう柄でもなかろうに」

「冥土の土産というやつです。あの世でもこれをタネに私を笑うといい」

「ほっ、今日は随分と手厳しいの」


 そしてまた、162番は咳き込む。

 なぜ、喋るのだ。私にはそれがわからない。これまでも、彼は苦しみながらも私を笑う。かといって、私に嫌がらせをしたいといった幼稚さを持っているのでもない。むしろ、彼の落ち窪んだ眼窩には思いやりがあった。今もきっと、私の塞がれた狭い視界の先で、彼の光を失った瞳にはそれがある。


「しかし、冥土の土産と言うならば、わしも代わりに土産を置いていこう。押し付けがましいかもしれんが、老人とはそういうものだろう?」

「……」

「謝罪じゃよ。地獄には行きたくないものだから、最期に受け取ってくれ」

「別に、私を笑ったくらいで地獄に落ちるとは思えかませんがね」

「違う。そうではない」


 骨ばった胸腔が膨らむ。皮がちぎれてしまいそうだった。同じ感想を持ったのか、かさかさと足音をまき散らして私の眼前を骨食いが行く。止めようとした腕は届かない。痛みにひきつった腕では。

 ほどなく、声が落ちてきた。


「わしはお前を縛ってしまった。ただでさえつまらなかったお前を、本当につまらなくしてしまった」

「……あなたも、私をつまらないというのですね」

「あぁ、そうじゃ」


 あなたも。私は他に誰を思い浮かべてあなたもと言うのだろう。木偶人形。あの男。あるいは。


「お前はわしじゃ。何もしない、そんな選択をしたつもりの、木偶人形」

「あなたも、私をそういうのですね」


 老木を粗く削った彫刻のよう。身じろぎもしなかった162番の目がわずかに持ち上がった。気がした。腫れあがった瞼は未だ視界をぼやけさせている。もやは脳にまで及び、浮かんだ言葉が思考の関所を流れ出る。

 弱った身体から出る音は、頼りない。


「じゃあ、どうしろって言うんです。どうすればよかったんです」

「そう、それじゃよ。お前さんは選んだわけじゃない。だから、別の道など見ようとしたことがない」

「そんなことはありません。脱走を考えたこともあった。でも、無理じゃないですか」

「無理か……」


 162番の嘆息が、狭い牢屋に染みわたる。けれど、無理なものは無理だ。

 日々魔力を吸い取られる私には明確な活動限界があるのだ。ここが正確にどこかもわからない。無理に決まっている。

 あの男の言うことがおかしいのだ。死ねば終わりだ。生きたい。誰もが思う。骨食いがまた一匹通っていく。彼らも生きたい。だから生きる糧になりかけの162番に近づいていく。

 ほら、生きたいと思うことにおかしさはない。

 視線。

 感じたのではなく、思い出す。生きた視線だった。死に向かうくせ、その視線は生きていた。

 ならば自分はどうだ。生きているか。死んでいるか。


 ――とさり。


 答えはここだと、そう言われたような気がした。音は目の前から、162番がいたところから。


「162番……?」


 ぼやけた視界を、その霞を払おうと、必死になって目を凝らす。痺れひりつく痛みの中で、どうやら162番の腕が力なく垂れたのだと、見て取れた。

 そういえば、彼と話していたはずなのに、言葉の続きはまだか。私は声をかけたのだ。私が聞き逃していただけなら、なにかしら反応があってしかるべきではないか。

 ならば。ならば……?

 オレンジ。朧月のように滲みながら、広がる光。広がり、昇り、ふわりと消えて。

 滑稽なほど軽い音を立てて、162番だったモノは崩れた。

 周りを這い回っていた骨食いが、砂浜に押し寄せる波のように群がる。162番は食われていく。カリコリカリコリと小気味良い音とともに食われていく。


 払いのけてやるべきだろうか。しかし身体は動かせない。


 音は、私の心まで食っていくようだった。なにせ、162番が死んだことに、その白骨が食われることに、私は何の感慨も抱かない。ただ、音とともに身体の中にも骨食いが入り込んだのか、手足の先からひんやりとした感触が這いずり上がってくる。重く、重くなって、どっぷりと黒に沈んでいくような。


 あぁ、なるほど。アレは私か。


 払いのけるべきだ。動かなくても、動くのだ。


 ◇◆◇


 足は地面を離れてくれない。名残惜しむように、ずるずる、ずるずると。丹念にこの岩肌を拭き掃除してやるかのように。足を引きずり歩く。

 魔力を吸われ、生命力を吸われ続けた身体は、すぐに水を吸った毛布がのしかかったように重くなってしまった。背は曲がり、冷や汗が頬を伝うのをやけに鮮明に感じ、もしも今の姿を見る人がいれば亡霊と思われることもさもありなん。

 今更の後悔が心の隅で囁いてくる。あのまま大人しく牢に戻ればよかったのに。

 日々の魔力徴収を終え、牢に戻る途中。監視の目を逃れるのは簡単だった。そもそも監視の目などないのだから。162番が死んで、『骨溜め』に送られて、私の不在を訝しむ同居人は居ないのだし、今日の牢番はあの怠惰な看守だ。

 私は、どこに向かっているのだろう。

 ここを歩く中、何度も自分に問うた。悲しいことに私は私にすら見捨てられたようで、答えがない。

 もしかしたら、見直してもらうためなのかも。そう考えて、いや思って、歩を進め続けている。


 カビ臭い匂い。壁で燃える松明の間隔は長すぎて、道しるべにはなっても足元を照らしてはくれない。また一匹、前に出した足にひんやりとした硬質がぶつかって、逃げていく。

 また一匹。また一匹。骨食いの数はどんどん増えていた。

 別に何の不思議もない。私は彼らの食事処たる、『骨溜め』に向かうのだから。

 別に、墓参りとか、そういう心持ちじゃあない。あの男に聞いたのだ、私の死に場所はどこであるのか。

 すると、彼は刺すような視線で私のつま先から頭のてっぺんまでを軽く三往復はして、ぼそりと言った。


「殺されたか」


 死体も殺せば蘇る。その実、162番という私の死体が殺されたのであろう。私の中には火が灯っていた。闇を照らすのでなく、闇を喰らうかのような、仄暗い火である。


 骨食いの骨をかじる音が幾重にも重なり、不気味となって私を誘う。

 急に視界が開けた。闇になれた目に、積み重なる白骨の山と、群がる骨食いの蠢きが映る。あそこに162番がいるのかはわからない。埋もれて混ざって判別がつかない。

 気味悪がって看守も寄り付かない。骨食いが集まるからと、大量にはられた蜘蛛の巣が一歩歩くごとに腕に、顔に、絡みつく。その裏に、穴はある。


 見返せ。一矢報いろ。タダで死んでやるものか。

 心の中で声がする。やっと私は私に認められたのか。私の駆動力、仄暗い火の声が聞こえてくる。

 決して誇れたものじゃない。あの男の持つ、自分たちの未来のための煌々と輝く炎の対極だ。

 でも、別にいいじゃないか。私はやりたいんだ。彼は、どうせいつかは終わるなら、せめて自分で選んだ終わり方を、そう言った。なら、選ぶ理由くらい私に選ばせろ。

 食事のトレイからくすねさせてもらった、荒削りでささくれだったスプーンを握りなおす。開いている手を『骨溜め』の外壁に当てて、円形のその部屋の外周を回る。

 凸凹とした岩肌は決して触り心地の良いものではない。むしろ痛い。それでも続けていくと、何の前触れもなく、私の腕が岩壁に飲まれた。


 --ここだ。


 支えを失って崩れた態勢を立て直す。ちょうど左腕の肘から先だけが岩壁に飲まれ、見方によっては私が壁から生えてるようにも見える。

 私はいつも通り、一つ息をついて、岩壁の中に踏み込んだ。

 透明な膜に、体を押し付けるような、そんな感覚。踏ん張ると、突き抜けた感覚とともに、空間に出る。

 岩の中に埋まるのでなく、空間に。大人が一人寝られるかどうかの細長い空間。


「おや、次が来たね」


 足元から声がする。私と同じ囚人服を着て、胡座をかいているらしき人影。声のしゃがれ具合が、162番を思い出させる。あの男の言っていた、隠蔽魔術でこの空間を隠してくれている協力者とは彼だろう。


「……番号は」

「72番です」

「うむ、了解した」


 先程までよりも闇が濃い。ぼんやりと輪郭しか見えないが、彼は顔を伏せ、もう私との話は終えたつもりらしい。ならば、私も話すことはない。

 壁を伝って歩いて、細長い空間の一番奥に辿り着く。目の前の壁を撫ぜると、ポロポロと崩れる。それまでと異なる凹凸が、今まで私と同じように、スプーンでここを掘ってきた人たちを思わせる。

 自然と、右手に持ったスプーンを壁に当てていた。


 さくり。


 心地の良い音だった。足で感じる、溢れた砂の冷たさも心地良い。

 仄暗い火が語りかける。もっと、もっと、もっと。

 見せかけの理性が語りかける。意味はない。意味はないのに何故続けるのか。


 さくり。


 そうだ、意味はない。ここが地下なことはわかっていても、どれくらい深いかは知らない。けれど、裁判所なんていう威信の塊の地下なのだ。そう浅いはずもなく。

 つまり、全体から見れば、長さの最小単位、ヨクトメートルほどにすら届かないかもしれない。


 さくり、さくり。


 けれど意味はある。

 足の甲に積もる砂。私の失くしてきた何かが戻ってくるようで。

 そう、意味はある。自分に言い聞かせてるだけかもしれない。それでも、意味はある。


 私は今、命を掘り出しているのだ。


 162番のようにはならない。環境に流されて、適応したつもりになって。その先にあるのは、私の後ろにある骨の山。誰が誰ともわからず、囚人Aとして、番号として死ぬ。

 あぁ、それは、それは確かにつまらない。

 ならば私は私のせいで死んでやる。私の死の責任を他の誰にも譲るものか。私の命の所在を誰にも譲るものか。


 さくり、さくり、さくり。


 手足の感覚が薄れる。分厚い手袋越しにスプーンを握ってるように思う。足の甲に積もる砂も、積もっていくはずなのに軽くなっているように思う。

 視界もぼやける。ぼやけた気がする。暗闇だからわからない。

 音が聞こえない。心地良いスプーンの音はどこへ行った。元々いなかったのか。

 思考がだるい。手足が重い。掘れている? 掘れていない? わからない。ただ掘れ、掘れ、掘れ。


 さくり。


 さくりさくり。


 さくりさくりさくり。


 あぁ、我が愛しの、ヨクトメートルの命よ。


 --からん、からん。


 軽くて、乾いて、虚ろな音。搾りかすが放った、最期の自己主張。

 いつのまにか狭い空間に飛び交っていたオレンジの光。蛍のように飛び交って、蛍のように散っていく。

 胡座をかいていた老人は、その明かりを頼りに目の前の壁に向かう。遺されたスプーンを拾って、刻む。


『72』


 刻み終えて、光が消えて。老人は何事もなかったようにスプーンを捨てる。

 骨食いたちの足音が、近寄ってきていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ