飛散①
レイノールは記憶喪失だった。どうやら自分は反政府軍の戦闘機パイロットで、戦闘機の故障による事故で記憶をなくしたらしいとは聞いたが、怪我が完治しても記憶は戻らなかった。
昔の自分はどうやら高尚な意思のもと反政府軍に所属し役目を果たしていたのだという。だが、同僚の誰に聞いても己がそうまでして政府を憎んでいた理由を知る者はいなかった。
原動力の大部分を占めていた理由を喪失したことで、レイノールは戦う意思を半ば失っていた。そんな状態で戦場へ戻っても成績は低迷するばかりで、ついには上官に呼び出しを食らった。
「うちの軍では、どうしてももう役には立たないと判断された奴は科学研究室の実験体に回されるんだよ。情報を外部に漏らすわけにも、ただ殺すわけにもいかなくて作られた苦肉の策だ」
まあ、科学研究室の室長様は大層お喜びらしいが。そう言って、上官は失笑した。
「お前がその候補に挙がっている。このままうちの隊にいれば遠からず実験体になる日が来るだろう。生きたまま解剖されたくなければ異動願を出した方がいい」
上官は真剣な眼差しで言った。レイノールは記憶を失うまで隊でトップを争う成績を出していたらしい。きっと目をかけてくれていたのだろう、と他人事のように思った。
「ご忠告、ありがとうございます」
無感情に礼を言い、レイノールは執務室を後にした。
正直なところ、自分の行く末にそこまで興味がなかった。痛いことは嫌なので、生きたまま解剖はできれば避けたい事態だが、死ぬことそのものには特に抵抗はなかった。生きる意味の大半を占めていたであろう自分の意思が思い出せないのだ。それどころか他人から聞くことすら叶わない。そんな状態のまま生きることに意味を見出だせなかった。
自室に戻る廊下を歩く途中、ふとこの角を曲がれば科学研究室だと思い出した。先程話題にあがったことで少し興味が湧いたので覗いてみることにした。
研究室の扉は真ん中が透明な硝子になっていて、そこから部屋の中が見えた。
ちょうど件の人体実験の最中だったようで、台の上には拘束から逃れようともがく男の姿があった。男を冷たい目で見下ろすのは、肩までの銀髪にバイオレットの瞳、ノンフレームの眼鏡をかけた美しい男で、恐らく彼が室長のスティナ大尉だろうとわかった。
冷たい表情をしていた科学者は、しかしメスを持った瞬間に瞳を輝かせた。そして男の体に刃を突き立てる瞬間には恍惚とした笑みを浮かべたのだった。
レイノールは科学者に見惚れていた。彼は狂っている。しかし美しい。
もし実験体になればあの顔が自分に向けられるのだろうか。そう考えてゾクリとした。悪寒ではない、明らかにそれは興奮だった。
自分でもおかしいと思った。これでは狂っているのは己の方だ。この感情は何かの間違いなのだと、証明しなくてはならないと思った。
「それで、あなたのことをよく知って、人体実験をするあなたをもっと観察して、幻滅しようと思ってここに異動願を出したんです」
科学研究室の隣の準備室で、現在の上官である室長スティナの向かいに座し、レイノールは言った。何故科学研究室に来たのか、という問いの答えだった。
「それはまた不純な動機だな」
「どうせ異動願を出さなければあなたに解剖される身だったんです、どこに異動しようが動機は不純ですよ」
レイノールは無表情のまま肩をすくめた。
「それもそうか」
スティナもさして気にした様子はない。
レイノールは科学研究室に異動願を出し、スティナの助手となった。志望動機は不純であるが、仕事はきっちりとこなしている。スティナからも、それなりに重宝されているようだった。
「それで、半年私を観察した結果はどうだ?幻滅できたのかい?」
「それがどうにも、今からでも実験体に名乗りをあげたいくらいで」
「とんだ変態だね」
レイノールは無表情を崩さずに言い、スティナも表情を変えることなく答えた。
「だが困るな。君は助手としてけっこう優秀なんだ。こんな不気味な研究室じゃ近寄る者も他にないし、君がいなくなっては仕事ができない」
「今までできてたんだから、できなくはないでしょう?」
「君ができなくしたんだよ」
そう言ってスティナは苦笑した。実験中以外で彼の笑顔を見るのは珍しい、とレイノールは内心少し驚いた。
「まあ、あなたに解剖されたいとは言っても、まだあなたの隣にいたいと思うのも事実で、つまりは早急に死にたいとかそういうわけではないので安心してください」
「うん、とりあえず私は君がいないと非常に困るんだということを覚えておいてくれればそれでいいよ」
また冷たい表情に戻ってスティナはそう言った。
「さて」
と、レイノールは立ち上がる。
「少し休憩しすぎましたね。薬品の準備してきます」
「ああ、ありがとう」
準備室を出て、科学研究室の扉を開ける。
最近ではスティナに必要とされる喜びも感じ始めていて、己の心に生じる矛盾にわけがわからなくなってきている。
あなたの隣で生きていたいのに、あなたに殺されたいだなんて。
「いつか俺を殺してくださいね」
一人きりの科学研究室で、レイノールは呟いた。