はみ出してミス、ッテリ
この店のバーテンダーが作るカクテルが旨くて評判なのにも係らず、探偵はその店でオーダーするのはいつも同じ『フォアローゼス・ブラックラベル』のツーフィンガーショットだけだった。
「いつもの」
探偵はいつもの通りにカウンターの奥から二つ目のハイチェアに座った。
「承知しました」
バーテンダーは会釈をした。
スッとカウンターに置いたショットグラスに、後ろの棚から取り出したブラックラベルのフォアローゼスの蓋をキュルッと回し外してトクッと注ぐ。絶妙なタイミングでビンの口を上げて、バーテンダーは見事にツーフィンガーを計らないで注いだ。
「いつもながら見事だね」
探偵がバーテンダーに声を掛ける。
「恐れ入ります。けれども、探偵さんの推理ほどのキレを、私は持ち合わせていませんが」
バーテンダーは探偵に頭を下げた。
「よせよ」
探偵はニヤリと笑ってショットグラスを一気に飲み干し、トンとカウンターにショットグラスを置いた。
「今日もお仕事ですか?」
バーテンダーはフォアローゼスの瓶を探偵のショットグラスに傾けようとしていたが、探偵はそれを制した。
「よく知ってるじゃないか」
それを聞いたバーテンはフォアローゼスの瓶を引っ込めた。
「それは失礼しました」
会釈をするバーテンダーに、探偵は手を振る。
「いや、いいってことよ」
探偵はバーテンダーを見てニヤッとする。
「後で飲むから」
バーテンダーも微笑んだ。
その時だった。
『カラン、コロン』
ドアに取り付けてある鳴子が来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーが恭しく、新しい客に挨拶をする。
新しい客は女だった。
髪型はショートカット、丸顔に大きな目が印象的で、化粧はアイラインと口紅くらい、チークは薄い。ほうれい線と目尻のシワが、彼女をミセスだと断定させた。
ふんわりとしたオフホワイトにダークレッドのペイズリー柄シフォンワンピースで、彼女が歩く度に裾が柔らかく跳ねた。その上にはブラウンで丸首のニットジャケットを羽織っていた。こういった店に来慣れていない感じの女性だった。
「あのぅ、こちらに探偵さんが居ると伺って……」
それを聞いたバーテンダーはカウンターの中から案内をした。
「こちらへどうぞ」
バーテンダーの言葉に従って、彼女はおずおずとカウンターに近寄ってきた。
「ここにお座りください」
バーテンダーは奥から三つ目のハイチェアへと手招きした。
「それじゃあ、この方が?」
彼女が探偵を指差したと同時に、探偵は彼女の方へと向きを変えた。
「探偵の『工藤新作』と申します」
探偵が頭を下げると同時に、彼女も軽く会釈をした。
「まずはお座りください」
探偵に促され、彼女はハイチェアに座った。
「何か呑みませんか? 適量のアルコールは心を解しますから」
探偵の言葉にバーテンダーが頷く。
「私に腕を揮わせてくださいませ」
「それじゃあ、『ピンクダイキリ』をいただこうかしら」
彼女はバーテンダーに微笑んだ。
「珍しいですねぇ、『バカルディ』ではなく『ピンクダイキリ』とは」
探偵が口を挟むが、既にバーテンダーはピンクダイキリの仕込みに入っていた。
「今のあたしがそういう気分なの」
彼女は探偵の方へ頭を斜に向けた。
「僕の仕事も『バカルディ』ではなく『ピンクダイキリ』だと?」
探偵の意味深な質問に、意味深な質問で返す彼女。
「得てしてダイキリの方が美味しかったりしません?」
にこやかに笑う彼女だった。
そして彼女は語り出した、私の仕事の内容を。
しかし、それは唐突な告白から始まった。
「あたし、浮気してたんです」
ピンクダイキリを半分ほど飲み干した彼女の口から出た言葉だった。
「すっごくいい男の子でね、こんなおばさんでも『好きだ』って言ってくれたの」
彼女の薄かったチークが赤く化粧された。
「出会ったのは、駅の改札口。乗り越したあたしは改札で閉じ込められちゃってね、慌ててたら彼が後ろから声を掛けてくれて。『大丈夫ですか?』って。嬉しかったわ、あたし」
ピンクダイキリに口を付け、すするように呑む彼女。
「それからお付き合いが始まったの。久し振りにトキメキを感じたわ。充実してた。でも、途中から彼はお金をせびるようになってきた」
彼女は俯いた。
「ダメね、あたし。『嫌われたくない』って思ったからお金を渡してしまった。でも、そうなっちゃったら最後ね。もう後戻りが出来なかった。どうにもならなくなっちゃったの」
探偵が尋ねる。
「それで、彼とはもう別れたんですか?」
彼女はハッとして答えた。
「え? えぇ、はい……」
続けて探偵が尋ねる。
「ほほう、そうなんですか。それでは、彼からお金を取り戻したいと?」
彼女は俯いたままだった。
「……あ、いえ。そのぉ、そういうつもりではないんです」
探偵はショットクラスをクッと空けた。
「ふむ。難しい依頼のようですね」
彼女は探偵を見た。
「そうでしょうか?」
探偵はじーっと彼女を見つめた。
彼女の漆黒の瞳が何かを訴えていた。
「貴女の心、お探ししますけど?」
探偵は俯き加減で尋ねた。
「いいえ、もういいの」
彼女も俯き加減で答えた。
「本当にもういいんですか?」
探偵はショットグラスのツーフィンガー・バーボンを煽る。
「えぇ、本当に。だって、あたしが置いてきたのだから」
彼女もピンクダイキリのカクテルグラスに口を付ける。
「そうなんですか」
探偵はショットグラスをカウンターに置いた。
「そうなの」
彼女もカクテルグラスをカウンターに置いた。
「香水の香りがひどいですねぇ」
探偵が呟いた。
「あ、こ、これは、あ、あたしの体臭がひどくて……」
恥ずかしそうに、けれど大きな声で言い訳をしているような彼女。
「シャネルのクリスタル。好きな香りなんですけど、こんなにきつくては」
探偵が続ける。
「しかも開封してからかなりの時間が経過したクリスタルですね」
探偵の言葉に首を傾げる彼女。
「それってどういう意味です?」
探偵はニヤリとする。
「そんなお答えをされますか」
探偵の口ぶりに怪訝な顔をする彼女。
「よく見ると髪の毛が濡れてますね? 今日は晴れていると思ったが。違いますか?」
探偵の言葉に、彼女は慌てて毛先を触る。
「こ、こ、これは……」
彼女は既にビビっていた。
「それに、その服装。やたらと前ばかりが赤黒いんですよね。たとえ、それが元々の服の柄としても」
探偵は最後の切り札を口にした。
「ち、違います! これは彼の血じゃないです!」
遂に彼女は口走ってしまった。
探偵は全てを悟った。
彼女の秘密の全てを。
「ミセス、告白しちゃいましたね」
探偵が彼女を見つめる。
彼女の目は涙であふれていた。
「そ、そんな、そんなつもりじゃなかったのにぃ……」
探偵にすがる彼女。
だが、探偵は追撃の手を緩めなかった。
「どっちの『つもりじゃなかった』のでしょうか?」
探偵は呼吸を整える。
「彼を殺す『つまりじゃなかった』の方なのか、僕にバレる『つもりじゃなかった』の方なのか」
彼女は嗚咽して既に答えられない状態だった。
「恐らく、この近辺のラブホテルでしょう」
探偵は謎解きを始めた。
「貴女が、その男の子と密会をしたのは。それも数時間前に」
滔々と話す探偵。
「お金の話か、別れ話か。それは僕の憶測の範囲を出ませんが、恐らくどちらか、いや両方だったであろうと確信している。そして、その話がこじれた。『最後にして』『いやだ』『金をくれ』『もう無い。渡せない』そんな問答が繰り返された。もっとも貴女はこじれることを覚悟していたのでしょう。強気になっている男の子が力任せに貴女をねじ伏せようとしたところで、貴女は持参してきたナイフで彼を刺した」
溜息をつく探偵。
「何度も刺したでしょう、おそらく。男の子を愛するがゆえに、そして男の子が憎いゆえに。正気に戻った貴女が周りを見渡すと、ベットの上は男の子の遺体を中心に血の海になっていた。貴女は慌てて服を脱ぎ、血を洗った。そして風呂に入って身体に付いた返り血を落とした。だけど、そう簡単に血が洗い流せる訳じゃない。ミセス、ルミノール反応を馬鹿にしちゃいけないよ」
探偵は一息付いた。
「そして、血生臭さがラブホテルの部屋に充満した。貴女はたまらず、備え付けてあった香水を振り撒いた。それがシャネルのクリスタル。香水ってのはね、少しだけ身に付けるから香水になるんだよ。振り撒いたら、只の匂いの洪水だ」
探偵は頭を掻いた。
「たぶん、貴女はそのラブホテルの部屋から僕に電話をしたのでしょう。アリバイ工作の意味も含んでね。待ち合わせのこの時間に、僕とここで会ってたと。でも、それはアリバイでも何でもないぜ、ミセス。今頃はラブホテルも大騒ぎじゃないかな。清掃係が数時間前に死んだ男の子を見付けてさ」
探偵はここまで告げると、ショットグラスに注がれたツーフィンガーのバーボンを煽った。
「素晴らしいわ」
彼女が顔を上げた。
「そう、その通りよ。あたしが殺したのよ」
彼女はハイチェアに座り直してバーテンダーに告げた。
「お替りをちょうだい。今度は『バカルディ』で」
バーテンダーが仕込みに入る。
「あの子があまりに我儘だから殺っちゃったわ」
バーテンダーがそっとカウンターに差し出した『バカルディ』を彼女は口にした。
「あたしはお金持ちなんかじゃない。普通のサラリーマンの主婦だからお金なんか無いわ。只の暇潰しだったのに、あの子、何を勘違いしたのかしらね、ふふん」
彼女は『バカルディ』を飲み干した。
「さすがは『名探偵』さんね。これほどの実力とは思わなかったわ。負けよ、あたしの負け。完敗だわ」
探偵に微笑む彼女。
「どういたしまして。ほんの朝飯前でしたけどね」
探偵も彼女に微笑み返す。
「やっぱり『ピンクダイキリ』じゃなくて『バカルディ』だった、ってことなのかしらね」
無表情で尋ねる彼女。
「さぁ、それはどうでしょうか? 僕にも解りませんが」
さり気無く彼女の言葉をかわして微笑む探偵。
店の外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「あら、手回しがいいわね」
探偵に悪態を付く彼女。
「それが仕事ですから」
彼女に微笑む探偵。
「ありがと」
彼女は探偵にお礼を言った。
探偵は彼女に満面の笑みを見せてから腰から深くお辞儀をした。
その時だった。
『カラン、コロン』
ドアに取り付けてある鳴子が来客を告げた。
「こちらに……」
入ってきた男が全てを告げる前に、彼女は席を立って入り口に向かった。
「じゃあね」
振り向いた彼女は探偵にウインクをした。