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Reasoning;01 緋色の遭遇(連載中)



 少年が空を見上げると、一面水色の中には文字通り一点の曇りなく、昇ったばかりの太陽が白い光を生き生きと放っていた。

 暑い。少年――畦倉奏(あぜくら そう)は心の中で呟く。今朝家を出る際に、テレビのお天気キャスターが言っていた「今日は5月下旬並みの陽気となるでしょう」という言葉が、奏の頭の中で繰り返し木霊する。そのときは特に意識せず聞き流していたのだが、今になって、その言葉の真意は熱い液体となり、彼の頬を伝って流れ落ちる。両頬の汗をTシャツの袖で乱暴に拭っても、顔全体が熱く紅潮しているために、未だにそれが顔中に張り付いているかのような不快感すらあった。

 奏が何とはなしに周囲を見渡すと、自分と同年代、あるいは年下の小学生が6、7人ほど歩いていた。彼らの表情は一見柔らかなものだったが、無理に表情を作っているために、かえってその形は強張っているように感じられた。というのも、今日は奏たちの通っている三神(みかみ)小学校で始業式が行われる日なのだ。進級への期待と好奇心、不安や緊張を彼らの表情は各々正直に伝えていた。奏もまた6年生になり、小学校で一番の大先輩になる。しかし、そんな彼の表情は、そのような隠された感情を一切表さず、水面のようにただ落ち着いていた。


 学校の南側に設置された内開きの少し小さな校門を潜り、運動場の楕円形のサークルを横切る。そこに、つい最近建て替えられたばかりの鉄筋の校舎が陽光を白く分厚い壁に反射させながら、どっしりと立っている。東西それぞれ左右対称に設置された生徒玄関を見ると、両方とも多くの生徒でごった返していた。奏はこの光景を目にしても特に驚かず、ああ、いつものアレか、と思った。

 1学期初日のクラス分け。三神小学校では、生徒玄関の入口にある窓にその年度のクラス割りを、大きな模造紙を使って公開する仕組みを採っている。それ以外には各教室の引き戸に貼ってあるぐらいだが、大多数の生徒はさっさと生徒玄関で確認する。奏はそんな状況に対し心の中で毒づく。面倒臭い。自分の新しい居場所を確認したら、すぐにそこに行けば良いのに。何でわざわざ他者を誘ってまで、そんなものに一喜一憂しなければならないのだろう。生徒玄関に足を近づけるにつれ、奏のこの考えは次第に強くなる。

「奏、ひっさしぶり」

 名前を呼ばれ、奏が振り返る前にぽん、と肩に手を置かれる。肩を少し震わせながら振り返ると、5年の時同じクラスだった黒川浩一(くろかわ こういち)が満面の笑みを浮かべて立っていた。

「なんだ、浩一か」

 奏がぶっきらぼうに返すと、浩一は苦笑しながら返す。

「『なんだ』はねえだろ、終業式以来だってのに」

 奏は構わずに浩一から目を逸らす。彼の唇は未だに動き続けていた。

「そうだ、奏、クラス割り見たか? おれとは残念ながらお別れだぜ」

 浩一は両腕を思いきり伸ばし、手をぱたぱたとさせる。おれはまだ見ていないし、そもそもお前とクラスが違ったところで残念ともどうとも思わない。奏は心の内で呟いた。クラスが違ったところで、休み時間に顔を合わせることぐらいできる。本当に残念と思うなら、それが叶わない時だ。たかだかクラス割りの結果の一つや二つで、勝手な仲間意識を持たれたり、ちゃちなお別れごっこを披露されたりしても腹が立つだけだ。

「そうか。浩一は何組になった?」

 奏はそんな自分の考えをおくびにも出さず、言葉を返す。一度でも相手にとって不快な行動をすれば、それが延々尾を引いていく。奏にとってこれほど厄介なものはなかった。

「おれは3組だ。ちなみに、奏は2組な」

「分かった、ありがとう。…じゃ」

 奏は浩一と手短に別れの挨拶を済まし、生徒玄関に向けて歩を進めながら、左手を自分の肩幅と同じぐらいの高さにまで上げる。おう、と浩一もまた返事を返す。そして、生徒玄関前に着いた奏はちらと6年2組のクラス割りを見る。数十の名前が連なる中、その一番右にある『出席番号1番 畦倉奏』と縦書きに書かれた文字を確認すると、彼はそそくさと玄関に行き、新しい靴箱の前で運動靴を脱ぎ、洗濯したばかりの白い上履きに履き替えた。


 教室の引き戸に手をかけると同時に、奏は改めて、そこに取り付けられた薄いガラス窓にある小さなクラス割りの紙に目を通す。間違いない、ここで合ってる。自分の名前を確認するやいなや、奏はゆっくりと引き戸を右に引いた。

「おはよう」

 奏が少しだけ大きな声で挨拶をしながら教室に入ると、中で二つ、三つある数人のグループの面々がちらちらと新しいクラスメイトの姿を確認する。奏が敷居を跨いですぐに、一人の女子生徒が声を上げる。

「おはよう、奏くん。また同じクラスだね」

 彼女――泉繭美(いずみ まゆみ)は、口角を左右対称に伸ばし、にこりと笑顔を作る。奏もまた、彼女に向けて軽く手を振った。やがて、そんな繭美の声に呼応するかのように、方々からおはよう、今日からよろしく、といった言葉が飛び交う。奏は彼らに対し、繭美のそれと同じように手を振った。

 そして、教卓の後ろにある黒板に向き直り、白のチョークで大きめに書かれた『進級おめでとう』という言葉と、その右側に書かれた座席表に目を移す。奏の名前は、校庭側の窓際、一番後ろの端に書かれていた。それを確認すると、彼は机と机の間をすたすたと歩き、自分の席を目指す。その間、脇から繭美を含めた数人の女子グループの会話が耳に入った。

「奏くんって、転校生だよね。親の都合で、今年になってすぐに引っ越したとか」

「そうそう。どうだった、繭美。そのテンコーセイ。一緒のクラスだったよね」

「うーん…すごく頭はいいんだけど、ちょっと人付き合い悪い感じ? 何だか他の人と距離を置いてる感じだったかな…」

「うっわ、何そいつ」

 そうして、かすかに笑い声が聞こえてきた。これに対して、奏は特に気に留めることはなかった。彼女たちの話している内容は事実に違いないし、いちいち気にかけていたら切りがない。自らの『転校生』という立場が他者の関心をあらゆる形で惹きつけることは、奏自身数々の転校の経験から学んだことだった。

 やがて、奏は席の前に着くと、紺色のランドセルを机の上に置き、椅子に腰掛ける。そのまま一冊の文庫本をランドセルから取り出し、それを机の右手側にある「し」の字の形をしたフックに掛けた。奏は文庫本のページを手早く捲り、分厚い紙の栞を挟んだ部分に辿り着く。彼が、昨日まで読んだ行を探していると、不意に声をかけられた。

「それ、『ホームズ』だよね?」

 聞き慣れない女子生徒の声だった。奏が顔を上げて声のした方に向き直ると、彼の右後ろに、少女が立っていた。彼女は水色のTシャツの上から白い薄手の上着を纏い、膝丈より少し上ぐらいの長さのチェックのスカートを履いている。顔つきは可愛らしい童顔で、小柄なことも相まって、四年生か五年生と間違えそうなほどだ。彼女は両頬に窪みを含んだ笑顔を見せながら、快活な口調で続ける。

「確か『緋色の研究』だっけ? ホームズ最初の事件の」

「あ…ああ、そうだけど」

 奏は少女の口調に少なからず圧倒されながらも答える。まさか初対面の女の子に、ホームズに関心を持たれるとは奏自身も予想だにしていなかった。

「きみ、ホームズ、好きなの?」

 奏がおそるおそる尋ねる。すると、少女の目の色があっという間に変わり、大きめの瞳がきらきらと輝く。

「もちろん! だってホームズかっこいいじゃん、僅かな手掛かりから事件の犯人を捜し当てる。まさしく正義のヒーローだよ」

 少女はやや早口で、頬を紅潮させながら告げる。奏がどう言葉を返せば良いか迷っていると、彼女は我に返ったように視線を奏に移す。

「ごめんなさい、つい熱くなっちゃって……あっ、そうだった、名前。まだ言ってなかったね」

 少女は思い出したように言葉を吐くと、そそくさと改まった素振りを見せる。

「わたしは冲美浅葱(おきみ あさぎ)。きみの席の隣になってる。とりあえず今日から一年よろしくね、畦倉奏くん」

 先ほどと同じ、頬に窪みを作った爽やかな笑顔で少女――冲美浅葱は言った。奏もそんな彼女に倣って、ぺこりと頭を下げる。

「ど…どうも」

 少しくぐもった口調でそう言うと、奏は再度机の上に広がったままの『緋色の研究』に視線を落とした。浅葱もまた自らの椅子に座り、荷物の整頓を始めた。

 本を読み進める中で、奏は考える。「今日から一年」――か。心の中で、何度もその言葉を反芻する。もしかしたら一年も居られないかもしれない彼にとって、その言葉は大きな岩のようであり、心の中でさらに重みを増し続けていくように感じられた。






 刻限のチャイムが鳴り、奏を含め全校生徒は教員の引率のもと、東校舎の外れにある体育館に移動した。そこで、およそ一時間程度の始業式と着任式を終え、生徒はクラスごとに元の教室に戻る。そのまま六年二組の生徒全員が教室に帰って来ると、引き戸から上下黒色のレディーススーツとスカートを纏った女性が教室に入ってきた。女性は小さな顔とはアンバランスな大きめの眼鏡をかけており、そこから覗く焦茶色の瞳は彼女の面持ちを顕著に伝えていた。

「み、皆さん、おはようございます」

 女性がはにかんだ口調でそう言うと、奏たちも声を揃えておはようございます、と返す。方々から新しい先生だ、美人だね、という声がぼそぼそと耳に入る。女性は小さく咳払いをすると、奏たちに向き直る。

「これから一年間、皆さんの担任を務める国別結子(くにべつ ゆうこ)です。学校には、着任したばかりで慣れないこともありますが、卒業まで皆さんと一緒に頑張りたいと思います。よろしくお願いします――」

 結子がそう言って身体を直角に曲げた瞬間、彼女の頭は教卓の角に鈍い音を立ててぶつかった。結子が咄嗟(とっさ)に頭を右手で押さえると同時に、生徒たちの間で大きな笑いが起こる。中でも、五年の時に奏や浩一と同じクラスだった雲矢斉護(くもや さいご)に至っては、笑いのあまり目元に涙を浮かべていた。

「先生、サイコー」

 斉護は口元に笑みを浮かべながら告げる。彼の言葉を聞いた結子もまた、頬を赤く染めながら返す。

「ありがとう、早速みんなと親しくなれたみたいで嬉しい……イタタ」

 結子はぶつけた頭を左手で優しく撫でながら、右手に持った座席表と教員ファイルに目を通す。

「では、三時間目の大掃除まで時間がありますから、みんなにも自己紹介をしてもらいましょう。名前と、それから好きなものや趣味、もしあれば私の授業への要望を言って下さい。…では、出席番号順に、畦倉奏くんからお願いしたいと思います」

 結子はそう言うと、教室の隅に座っている奏に目を移す。彼女と同じように、生徒たちも一斉に奏の方を向き直る。奏は生徒全体を見渡せる角度になるように席を立つと、大きな声で発言する。

「畦倉奏です。好きなものは……特にはありません。趣味は読書です。先生には、ぼくたちが内容を容易に理解できやすいような授業をして頂ければ、と思います。以上です」

 言い終わると、奏はすぐさま席に座った。方々から(まば)らに拍手が上がる。結子は頬を強張らせながら頑張ります、と呟いた。

「では、次は犬居紫葉(いぬい しよう)さん」

 クラス全体の視線が、今度は教卓の真ん前に座っている少女――紫葉に注がれる。紫葉は席を立つと、椅子を机の中に入れ、結子に向けて姿勢を整える。その際に、肩まであるツインテールの黒髪が小さく揺れた。

「犬居紫葉です。好きなものは勉強とスポーツです。趣味も同じです。国別先生には、私立中学の受験にも十分対応できるような授業をしてほしいと思います。以上です」

 紫葉もまた、奏と同じようにさっさと着席する。再度疎らに拍手が上がる中、結子の顔には微かに焦りの色が浮かんでいた。きっとぼくと犬居の正反対な意見をそれぞれ鵜呑(うの)みにして、ぼくたちの意見を合わせた授業をどうやっていこうか混乱しているのだろう。奏は心の中でそう思った。

「では、次に――」

「はーい!」

 結子が名前を口にする前に、浅葱は自ら進んで名乗りを上げ、勢い良く席を立った。

「冲美浅葱です。名前の『冲』はさんずいの付いた『沖』じゃなくて、にすいの方です。好きなものは、ゲームとか遊びとか、おいしいケーキとかいっぱいありますが、一番はずばりホームズです! 一番の趣味は読書で、ホームズを読んでます! 先生への要望は特にはありません、以上で終わりです!」

 浅葱は席に座ると、座ったまま椅子を机の中へと動かす。方々からは、奏や紫葉と比べると少し大きな拍手が上がった。奏は心の内で少なからず感心していた。こういう自己紹介の場に置いて『ホームズ』を何の躊躇いもなく口にできるほど、彼女――浅葱はホームズ好きなようだ。ここまで来たら、もはや清々しいまでだ。そう思いながら、奏は静かに拍手をした。すると、結子がぽつりと口にする。

「冲美さんは、ホームズがとても好きなんですね」

「はい! だって、ホームズは正義の味方ですから!」

 浅葱は自信たっぷりに言った。その顔には、満面の笑顔があった。




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