第二話 ヴェニスの船乗り
アドリア海の水の宝玉ヴェネツィア共和国、生まれ育った地を初めて遠くから眺めた。
海上から見る我が故国は、ムラーノのガラス細工のように繊細で、この都市を築きあげた先人たちの努力が偲ばれる。
息をするのを忘れて景色に見入っていた私は、後ろから掛けられる船長の声にひどく驚いてしまった。
「いい景色だろ、坊主。船に乗るのは初めてか?」
「うわっ…はい、初めてです…」
「済まねえな、お前がこの船に乗ったのはこっちの手違いだ。髪型と体格が良く似た漕ぎ手が出港時間に遅れたので探していてな」
ソランツォ提督は日に焼けて縮れた髪をボリボリ掻きながら、私に説明する。
「警士の奴等にも頼んだのだが、どうも間違えたようだ。心配するな、パレンツォの港で降ろしてやる。帰りの船の書状も俺が書いてやるから、気にせずに船旅を楽しめ」
どうやら、私の事は男性と間違えられたようだ。
ドレスでは出歩きにくいのでゴーボの服を持ちだしたのだが、髪を肩ほどで切り落としたのも有るかな?好都合だ、このまま通そう。
「ありがとうございます、ソランツォ船長。その漕ぎ手は見つかったのですか?」
「あの馬鹿は首だ、人手が足りないから今まで我慢してやったが、船の時間に遅れるとか言語道断だ。クソッ…」
この船は人手が足りないのか…ますます好都合ね
「…あの、私で良ければ雇ってくれませんか?」
私の発言に、暫く体を見まわして「まあ、慣れれば何とかなるか」と呟き採用してくれた。役職は雑用係だった。理由は船の事以前に一般常識が欠落していたからだ。
仕方ない事だと思う。レースの編み方ならともかく、船具の名前や縄の締め方、重い道具を運ぶ力なんて全く専門外だ。
私がいかに恵まれた生活をしていたか、改めて思い知らされた。
へとへとになり、その日の仕事を終えて部屋に戻る。
本来なら見習い船員は雑魚寝だが、全くの初船乗りなので下手に共同部屋で吐かれたら困ると言う事で、面倒を見てくれる先輩船員の個室で暮らすことになった。
「ねえ、君の名前を聞いていなかったね。なんて言うんだい?」
彼は石弓兵のアントニオ、私を叩いて起こしてくれた人で、船長に私の世話を押し付けられた船員だ。14才の時から今年を含めると4年間も船に乗り続けたベテランの乗組員だ。
「……シロッコ」
「…ふざけてる?」
「ふざけてない。本当にそう言う名前だったもん」
シロッコと言うのは南東から吹く風の事で、エジプトへ向かう交易船にとっては全くの逆風だ。船長に名前を聞かれて咄嗟に名乗った名前だった。
「ふーん、姓はあるの?」
「無い」
「本当の事を言えよ」
「…アンドロギュヌス」
「……喧嘩売ってる?…まあいいか、これから宜しく」
「うん、宜しくね。今日は疲れたからもう寝る、おやすみ」
「おい、そっちは俺の布団!」
敷布団に横になると、直ぐに睡魔が襲って私を眠りへと誘った。
「……全く、とんでもない子供だな」
眠るシロッコを忌々しげに見つめるアントニオだった。
彼は、14才の頃から家の方針で石弓兵となった。この国ではある程度の資産を持つ家はその子供を商船の石弓兵として乗船させるのは一般的な道だった。船乗りとして航海の技術を学び、海外を訪れて他国の文化や情勢、商売の技術を修得させるのだ。
その後はそのままベテラン乗組員として続けて、いずれ船長になるか、大学に進学するかは人によりけりだが、彼は来年より大学へ進学する事になっている。つまり、今年の航海が最後の交易となるはずだった。
「その途端にコレだとはね…」
彼の実家の親戚が船長を務めるこの船に、破格の待遇で乗り込み、今年の交易は楽できると思った矢先に見知らぬ少年を同室にされてしまった。
この少年との出会いも衝撃的だった。
「おい、アイツが見つかったらしいぞ!」
「本当か!?やっと出港できるぜ!」
「今度という今度は許さねェ…袋にしてやるぜ」
その漕ぎ手は船の中でも相当な鼻つまみ者だった。
勤務中に酒は飲むわ、いびきは煩いわ、上陸中も常に酒瓶抱えて寝転がるわの酒乱で、人手不足で無かったら間違い無く解雇されていた。
遠くに小船が見えて来たので、帆を張って船を動かす準備をする。
先行する船団から既に2時間も遅れている。余り遅れる訳にはいかない。
3本のマストに三角帆を全て張り終え、少しずつ船が前進し始めた辺りで小船が追いついた。
「待たせたな!言われた通りだった。道端で寝転んでいたぜ!」
本当に酔いつぶれていたか…度し難いろくでなしだ、弁解の余地はない。
船尾に接舷して、警士から引き渡される。
船員の手に彼が手渡されると、直ぐ様小船は離れて街へと戻って行った。
上甲板に転がされる彼を数人の乗組員が取り囲む。
船長は船倉に入っていった。見て見ぬふりをすると決めたらしい。
「おい、ちょっと待て。コイツ誰だ?」
船員達からざわめきの声が聞こえる。
様子を見に行くとよく知る船員とは全く別の人間だった。
一瞬、ウルビーノで見たヴィーナスの絵が降臨したのかと思った。
幼少期、両親と共にヴェネツィア軍の司令官ウルビーノ公爵グイドバルド2世の居城を訪問した時に、自慢げに見せられたティツィアーノの絵画だ。
目の前の人物の太陽の光に当たり、仄かに光沢する茶色い髪、細筆で引いたような眉、桜色の小さな唇から洩れる吐息は、その伝説が如く、無機質な甲板を季節の草花で彩らせるようだった。
「これは……いったい…」
我を忘れて、眠れる人物の顔に手を伸ばす。
絵画を超えた美の存在に、アントニオは歓喜し、その実像を掴もうとする。
そして、その人物の着用している服装が、男性の物だとようやく気が付く。
「少年だったか…」
少年の頬を軽く叩いて起こす。少し何かを呟くと少しずつその眼を開く。
黒い瞳がアントニオを一心に見つめる。
彼に見つめられて、気恥ずかしくなり船長を呼ぶ。
「船長!目を覚ましましたよ。でも、どういう事です?違う人物ですよ」
そうだ、目の前に居る人物は、あの漕ぎ手とは比べ物に成らない。
何処の馬鹿だ?彼とあの酒乱を取り違えた警士は。
船員達を押しのけて、甲板の手摺に捕まり遠ざかる水の都を見つめる少年。
その横顔だけでも、父の世話になっている画家ヴェロネーゼ辺りが見たら、そのまま素描を始めそうだった。
船長と話す少年の声も、春の鳥のさえずりのように美しい。
「……アドニス」
古の神々が愛し奪い合った少年の名がこれほどふさわしい人物居ないと思った。
「本当にきみは何者なんだい?」
その美しい寝顔を見つめる、少年と言うのは事実だろうか?
幼さが少し残る顔が、小さな格子窓から洩れる月明りで幻想的に彩られる。
―――確かめたい。
その欲求を抑えきれず、手を伸ばす。服まではもう僅かだ。
「……お爺様、ごめんなさい」
唇から洩れるその呟きに、己の欲情に罪悪感が湧いた。
「……いったい何を考えていた」
追及するのは止めよう。人には知られたくない事は多くある。
同じ部屋の乗組員で良かった。次の港で降ろされる人間や別の部屋であれば、とても耐えられなかっただろう。
「……俺も寝るとするか」
「…体中が痛い」
翌朝、布団から起きると腕とか足とかから激痛が走った。なんなのよこれ。
「普段運動して無いという証明だな。おはよう、シロッコ」
「おはよう、アントニオ」
「体中が痛いだけか、気分が悪いとか無いのか?」
私は少し考えて言った。体が痛い以外に違和感はない。
「別に無い。大丈夫、体が激しく痛むだけ」
「船酔いしないのか、凄いな。俺が初めて船出した時は、それは酷かったさ」
「顔をダビデ像みたいにしてよ、桶が片時も離せなかった。
最後は舌と内臓まで吐きだすかと思ったぜ」
「……これから朝食なのにやめてよ」
「ああ悪い、行こうぜシロッコ」
朝食の固焼きビスケットと肉の煮込み、アルコール度数の高いマルヴァジア酒の水割りが出される。
「船の上で暖かい食事が出る事は余り無い。しかも生の鶏肉から作られている、奮発したな」
「もうじきパレンツォに到着するからさ」
アントニオの疑問に答えたのはコック長だ。
「あそこで補給も行われる、多少豪華にやっても問題は無いさ。それより坊主、船酔いせずによく飯が喰えるな、良い船乗りになれる証拠だぜ」
「ありがとうございます、コック長さん。あ、後名前はシロッコですよ」
「シロッコか!たまげたなそいつは良い名前だな」
コック長は帽子の上から私の頭をガシガシと撫でまわす。
気持ちは嬉しいけど、帽子がずれそうに成るので困るなぁ……
「おい、シロッコ早く食べて行くぞ」
アントニオがやや不機嫌な声で私を促す。
慌ててビスケットを残り汁に浸し、口に流しこんで船倉を後にする。
「……眩しい」
黒いフェルト帽の縁を眉の位置まで抑え、照りつける太陽からその身を守る。
目の前に見えるパレンツォの港には、数隻のガレー船が停泊しており、その周りには花に群がる蜜蜂のように無数の小舟が、木箱や樽を積んでガレー船を取り囲んでいた。
「あのガレー船が合流予定だった船団だ。」
後ろからアントニオが話しかけてくる。
「先日、あの地でペストが発生してね、上陸するのは禁じられたんだ。
だから、ああして小船で補給しなくてはいけなくなった」
アントニオは私の姿を見回して苦笑する。
「運が良かったな、この船の船員に雇われて。
昨日の体力の無さを見れば、お前なんか直ぐに感染しておっ死ぬよ」
「さあ、俺達も荷揚げを手伝うよ」
数人の船員と共に、ロープを引き上げて積み荷を甲板へ引き上げる。
幾ら喫水線の浅いガレー船とはいえ、揺れる船の上での荷揚げはかなりの重労働だ。甲板の上も濡れている為、皮の靴は中まで濡れて気持ち悪い。
幾度目かの引き揚げの時だった。
「ロープの拘束いいぞ!」
下の小船から威勢の良い声が掛かる。
「よし、引き上げるぞ。それ!」
数人がかりでロープを引っ張り、じりじりと樽が船尾へと上がっていく。
後少しで船員の手に樽が届く時だった。
「うわぁ!」
甲板で足を滑らせて、転倒してしまった。
「この馬鹿!ロープを押さえろ!」
「樽が斜めになっているぞ!早く修正しろ!」
片方のバランスが突然崩れた為に、樽が斜めになる。
更にロープが解けて、樽が海上に叩きつけられる。
「うお!」
「どわぁ!」
重心を失った船員がまとめて転倒する。
突然の事態に茫然としている私の胸倉を起き上がった船員の一人が掴む。
「この糞ガキが!貴重な真水をどうしてくれる!?」
「……ご、ごめんなさい」
産まれて初めて怒号を正面から受けた私は、動揺して混乱する。
心臓が早鐘のように脈打ち、恐怖で歯の根が鳴り、声が震える。
「ごめんなさいじゃねぇ!」
振り下ろされる鉄拳を覚悟して目を閉じる。
しかし、待てどもその衝撃が私を襲う事は無かった。
「やめろ!」
アントニオが船員の腕をガッチリと掴んでいた。
その華奢な体格からは信じられない力で腕を掴まれた船員は身動きが取れない。
「まだ新米だぞ、多少の失敗は目を瞑れ!」
「いてて!手を離せ!」
アントニオが手を離すと船員の怒りの矛先が彼に向いた。
「その失敗はお前の管理不足からじゃねえか!」
「……そうだ、俺の責任だ」
船員の鉄拳がアントニオを襲うが、彼は微動だにせず受け止める。
「お前らは甲板掃除でもしてやがれ!」
船員は甲板に唾棄すると、荷揚げ作業に戻って行った。
「……行こう、シロッコ」
「……うん」
それから私達は一日中、甲板掃除や船具の手入れをしていた。
その日の仕事はろくに会話せず、その後の食事も殆ど喉を通らなかった。