(52)背信の代償 -2
「リヴィオ様、少し休憩されますか」
いつのまにか部屋に入ってきていたらしい声に、魔術書から顔を上げる。
「ああ……ありがとうございます、タオさん」
リヴィオが答えると、タオと呼ばれた男は手に持っていたティーセットのトレイを机の端に置いた。
「こんな事までして頂いてすいません」
「とんでもありません。リヴィオ様に研究に集中して頂くよう、主から言いつかっておりますから」
リヴィオが大公から内密の依頼を請けて村へ戻った後、ほどなくして大公から遣わされてきたのがタオである。
普段は大公の従者として身辺警護の任についているらしく、見るからに剣の腕の立ちそうな鍛えられた体つきでありながら、こうして甲斐甲斐しくリヴィオの研究の補佐をしてくれる。
シアルの人間の例に漏れず信仰心は厚い。朝夕の礼拝には必ず参加し、ろくに神官としての仕事を手伝わないリヴィオに代わって父の手助けもしてくれているようだ。
これもリヴィオが雑務に追われる事なく依頼に専念できるようにとの大公の配慮なのだろう。かけられた期待の大きさを実感する。
「どうですか。研究は進んでいらっしゃいますか」
魔術書を閉じて横に置き、紅茶のカップを手にしたリヴィオに、タオが尋ねた。
「はい、なにぶん相当昔に書かれた古代語なので、読み解くのに時間は掛かりますが……。
タオさんはご存知ですよね、これはあの千年前の戦争の頃に書かれたものですよ」
「はい、そのくらい昔のものだという話は主から聞いております」
「嘗てシアルは魔術によって千年前の戦争を乗り切った。それには何か決定打となった、途方も無い古代魔術か魔道具が関わっていたはずだというのは以前から推測されていたんです。でも、その記録がどこにも残っていない。片鱗すらない。俺もずっとそれを不思議に思っていたんですよ。でも、この本に、その手掛かりがあるはずなんです。これはすごい事なんですよ」
熱っぽく語るリヴィオの話を、タオは口元に穏やかな笑みを浮かべ、瞳を伏せてじっと静かに聞いていた。
この世界にある魔道具は、すべて千年前の戦争よりも前に作られたものだと言い伝えられている。なぜ、戦後は魔道具を作り出す技術が忽然と消えてしまったのか。それは長らく魔術研究者達の間で大きな謎とされてきた。
そもそも、魔道具とは誰がどうやって作り出したものなのかさえも記録にない。
古代に記された書物がかろうじていくつか残されているものの、千年以上前に記されたそれらは保存状態が悪く、読み取れる文字はわずかで、肝心の魔道具の原理に関わる記述は見つかっていない。
だが、今リヴィオが解読しているこの魔術書は、おそらく近年まで大公家で特別な時間固定の魔術をかけられて眠ってきたのだろう、まるで昨日書かれた本のようにきれいなままである。
大公家にとって極めて特別な書物。その扱われ方も異例ながら、書かれている内容もリヴィオを存分に興奮させるものだ。
アイサル神の教えを説く教典の形を取ってはいるが、書かれているのは凄まじい大きさの魔力を作り出す為の理論である。
『神の大いなる力を手に入れる』『神へ近付く』といった表現が度々登場するが、これは現在リヴィオ達神官がアイサル神の教えとして用いている教典には出てこない概念だ。
神の力を手に入れようとは甚だ不遜であるように思えたが、これが書かれたのが千年も昔である事を考えれば、教義の解釈に変化があるのも仕方が無いのだろう。
リヴィオは寝食も忘れて解読に没頭した。これを読み解く事ができれば、間違いなく歴史的偉業となるはずだった。
『即ち、血と肉の犠牲をもって神へ近付くものなり。数は多いほど良し。少なくも百余』
その一文に至った時、リヴィオは目を疑った。
血と肉の犠牲……?
神の大いなる力を手に入れる為の理論は、結論としてそう結ばれていた。
古代語を一文字ずつ読み解きながら、リヴィオは全身の血の気が引いていくのを感じた。
神……などではない、これは……
悪魔の書物だ。
それ以上先を進める事はできなかった。魔術書を閉じた手が震えている。
これをどう大公へ報告すれば良いのか、衝撃のために頭が混乱して視線を彷徨わせていると、視界の端に男の影が映った。
「どうかされましたか」
「……タオさん」
いつのまにか、机上に山積みとなった書物の後ろに、タオが立っていた。扉を開けて部屋に入ってきていたのにも気が付かないほど、集中していたらしい。
「何か分かりましたか」
「……いえ、あの……まだ、なかなかやっぱり、難しくて……」
リヴィオは喉が詰まりそうになるのを必死にこらえて言葉を絞り出した。タオにも、この事は容易には話せない。
「そうですか、今日はもう遅いですよ。ここまでにされますか?顔色が悪い」
そう気遣われ、リヴィオはのろのろと頷いた。
「リヴィオ様、今日は本を持って行かれるのですか?」
魔術書を手に研究室を出ようとすると、タオが声を掛けてきた。
いつもは本は研究室に置いて帰るのだが、こんな危険な代物を、施錠するとはいえ置き去りにするのはためらわれた。
「ああ……はい、家でもう少し読んでみようかと思って……ちょっと気になる所があるので」
「そうですか……しかし、ご存知の通り、大公家に伝わる大変貴重な書です。ご自宅へ持ち帰られるのはあまり感心しませんが」
珍しく反対してきたタオに、リヴィオは首を捻る。
「いえ、大丈夫ですよ?ちゃんと自室に持っていきますし……夜間は自宅は施錠していますし」
「ですが、やはり」
いつになく強い口調で反論するタオに、リヴィオはなぜか薄気味の悪さを感じ、そんな自分に戸惑った。
タオさんにまで怯えるなんて、ずいぶん気が高ぶっているようだ。
「……すいません、タオさんの仰る通りですね。ここに置いて行きます」
リヴィオは魔術書を机の上に戻し、タオと連れ立って研究室を出ると、いつも通り厳重に鍵をかけて自宅に戻った。
「めずらしい、夕飯の時間にリヴィオが戻ってるなんて」
家に戻ると、ニナが母親の料理を手伝っているところだった。
「本当ね。リヴィオ、いくら研究が大事だとはいっても、食事はきちんと取らなければだめよ。ニナちゃんがいつも食事を研究室まで届けてくれるから良いものの……ちゃんとお礼を言ってるの?感謝しなければだめよ」
「まあ、まあ、叔母さま、私、全然苦にしてないから」
母親の小言が始まりそうなのを、ニナがうまくなだめてくれた。
「アイサルの神よ、貴方と、この食事を用意してくれた妻とニナに感謝し、ありがたくいただきます。願わくばこの恵みが、苦しみの中にある全ての人々に与えられんことを」
父親の言葉に合わせ、皆で祈りを捧げる。
ひさしぶりに家族で囲む食卓。
いつも食事などそっちのけで研究に没頭し、それ以外の事はすべてわずらわしく思っていたリヴィオだったが、今は普段うとましく感じていた家族とのやりとりが心を落ち着かせた。
自分の居場所が、子供の頃と変わらずそこにあること。おぞましい狂気の世界に心を持っていかれそうだった自分に気付く。
リヴィオが恐れたのは、自分の中に確かに存在する研究者としての興味だった。人の道を外れた、神をも恐れぬ所業……でも、それこそが未知の世界への扉を開くのだとしたら?
違う。
父と母、そしてニナ。彼等がいるからこそ、この世の中は自分にとって意味のあるもので。
同じように、誰もが誰かにとって生きている価値があるのだと、アイサル神はそう教えていらっしゃる。
神に近付くために多くの命を犠牲にするなど、やはり正気の沙汰ではない。大義に背く行為だ。
あのような背教の書が、大公家で時間固定の術をかけられて眠ってきたのはどういう事なのだろう。
そして何故今、大公殿はそれを蘇らせようとしているのか。内容について、どこまでご存知なのだろうか……
「リヴィオ、スープをおかわりする?豆のスープ、好きでしょう」
手が止まり、どこか遠くを見つめてぼんやりしているリヴィオを気遣うように、ニナが声を掛ける。
「あ、ああ、ありがとう」
いそいそと配膳をするニナの姿に目を移す。食器の場所もすっかり把握しているようで、勝手知ったるといった様子に思わず笑みがこぼれた。
ニナがそんなリヴィオを不思議そうに見る。
「いや、ニナは僕よりずっと家の事を分かってるんだな、と思ってさ。まるで、うちの娘みたいじゃないか」
軽く首を振って答えると、ニナの顔がみるみるうちに赤くなった。
「やだ、私そんなつもりじゃ!」
そう言ったきり、黙ってしまった。何か気に障る事を言っただろうか。その後、ニナはリヴィオの方に顔を向ける事もなく、俯き加減でそそくさと食事を済ませると、さっさと後片付けに立ち上がってしまった。
何だかよく分からないリヴィオは父母に助けを求めるように視線を投げかけたが、軽く肩をすくませただけだった。
4月ギリギリの更新になりました……
本当はもう少し先まで進めたかったのですが!
いつも読んで下さる皆様、ランキングクリックして下さる皆様、本当にありがとうございます。
※5/13(私的に)大事な一文がすっぽり抜けているのに気付きまして、慌てて修正しました。食事の前の祈り……大した事ではないんですけど、作者としては入れておきたかったのです。(なぜ抜けてたんだろう?)




