(42)印
エイジャは驚きのあまり言葉が出ず、ただ目を瞬かせてキーラの瞳を見つめ返す事しかできなかった。
また視界が暗くなる。抵抗する間もなくもう一度唇を重ねられて、今度ははっきりとキスされた事が分かった。
「キー……ラ……」
唇を離したキーラに、エイジャはやっと言葉を絞り出す。
だがキーラは何も答えず、急くようにエイジャの寝間着のボタンを外し始めた。
「キーラッ……、待って……」
エイジャの制止もまるで耳に入っていないように、ボタンを上から二つ外すと、白い首筋に唇を滑らせる。
鎖骨の下にチリッと走った微かな痛みに頭が冴え、ようやくエイジャはキーラの腕を掴んだ。
「キーラ!だめだよ、こんなの……!」
キーラははっとしたように目を見開いた。
いくら恋を知らないとはいえ、エイジャにだって、キーラが何をしようとしていたのかぐらい分かる。
キーラはエイジャの事を男だと思っているのだから。
「なんで!?エイジャ、私の事、大事に想ってるって言ってくれたじゃない!だったらいいでしょ……減るもんじゃないんだからっ!」
キーラはやけを起こしたように言い放った後、俯いた。
エイジャはゆっくりと体を起こした。
「どうしたのキーラ……何があったの?」
キーラは顔を上げずに声を絞り出す。
「エイジャ、お願い……私を、一緒に連れて行って。もう、この街にいたくない」
「キーラ……」
エイジャは素早く寝間着の前を確かめる。キーラを部屋に招き入れる前に、サラシを巻いておいた事に安堵しながら、黙り込んでしまったキーラの手を取った。
びくっとキーラの肩が跳ねる。
「キーラ……
……ロメオさんが好きなんでしょう?」
キーラは顔を上げた。大きな目をさらに見開いてエイジャを見つめ返す。
「なんで……?」
「なんでって……分かるよ」
「なんでそんな事言うのっ、好きじゃない!あんな男……大嫌い!」
「本当に好きになってしまったら、側を離れるんでしょう?キーラは」
穏やかな声で告げられた言葉に、キーラは答えに詰まって口をつぐんだ。
「そう、キーラが言ったじゃないか」
「それは……エイジャの時の話だもん……」
「じゃあ、なんで大嫌いって言いながら、泣くの」
そう言われてキーラは指を自分の頬に当てる。
新たに流れ出した涙が指を濡らした。
「キーラ、話して。何があったの?」
もう一度諭すように尋ねると、キーラの表情がぐにゃりと歪んだ。
胸に飛び込んできた体を今度はちゃんと受け止めて、嗚咽がおさまるまでエイジャはキーラの背中を撫で続けた。
「ロメオに……聞いたの……
毎晩、女の人を部屋に呼んで、何をしてるのって……」
少し落ち着いたキーラが、ぽつりぽつりと話し始めた。
「そうしたら、私は知らなくていい事だって……
私には言えないような事をしているんでしょうって問いつめたら、子供には関係ないって……ロメオがそう言ったの」
キーラの訴えに、エイジャは眉をひそめた。
ロメオの年齢は三十から四十そこらという所だろうか、確かに年齢差はあるが、キーラの事を子供扱いしてはぐらかすような物言いをする事はないと思っていた。
「ロメオは、変わったわ。最初はあんなじゃなかった。格好は派手だったけど、どこか自信なさげで、優しくて。私、よくロメオを怒ったの。もっとしっかりしなさいよって。一回り以上も年が離れた私の言う事、素直に聞く人だった」
涙で時折声を詰まらせながら、キーラは話を続けた。
「最初に会ったときもね……すごくオドオドした感じだった。食堂の仕事が終わって、その時に住んでた宿に帰ろうとして街を歩いてたら、声を掛けられたの。
なんだか挙動不審だし、ナンパかと思って無視したのよ。
そしたら、店のオーナーだって言うから、驚いちゃって」
その様子を思い出したのか、キーラは小さく苦笑した。
「自分の家はバカみたいに広くて、持て余してるって。自分の店の従業員が安宿で危ない目に合っているのは放っておけないから、従業員寮だと思って住めばいいって言ってきたの。なにこの男、下心でもあるのかしらって疑ったけど、試しに少し手に触れてみたら、犬にでも噛まれたみたいに驚いて後ずさるもんだから、おかしくて」
「ロメオさんが……?」
「そう、ロメオが。今のあの人からは想像もつかないでしょう?」
想像がつかないどころか、まるで別人だ。
「だから、絶対に変な事はしない、もししたらすぐに出て行くからって約束させて、付いて行ったの。
あの屋敷、ボロボロだったのよ。まるで幽霊屋敷。人の住む場所じゃなかった」
キーラは懐かしそうに薄らと笑った。
「なんなのここは、こんなボロ家に女の子を住まわせるつもりなのって、散々言ったけど、ロメオは申し訳ない、もう少しちゃんとするつもりだからって頭を掻いてた。
……なんか、放っておけなくて。二人で少しずつ、家の修繕をしながら暮らし始めたの」
鬱蒼と茂った薮のような庭、ところどころ床が抜け落ちた廃墟のような屋敷が、自分達の手によって少しずつ蘇っていくのは、想像した以上に楽しかった。
自分の店の従業員だからといって、なぜ家に住まわせようと思ったのか尋ねたキーラに、ロメオは少しだけ過去の話をしたという。
「……昔ね。大事な人を失った事があるんだって。だからもう、女の人が攫われるのを見たくないって、そう言ってた」
「そっか……、それで」
エイジャは昼間にロメオが見せた辛そうな表情を思い出した。
「詳しくは言わなかったけど。きっと、恋人だったのよね。その人」
キーラがくすんと小さく鼻を鳴らす。
「だから、屋敷の女の人達を毎晩呼んで、その人の代わりにしてるんだわ」
「……そうかなぁ……俺には何だか信じられないんだけど」
「そうに決まってる。だいたい、ロメオが屋敷の女の人達に話すのを聞いたでしょう?ペラペラとうまい事ばっかり言って、褒め倒して。あんな事、私には言った事がないのよ!?」
憤るキーラだったが、エイジャはそれを聞いて少し考え込んだ。
「ねえ、キーラ。明日は仕事?」
急に話題が変わり、キーラは目をぱちくりと瞬かせた。
「え?うん、朝から夕方まで、仕事だけど……」
「そっか」
「なんで……?」
キーラが不思議そうに尋ねる。
「俺、出発が延びたんだ。明日はまだこの街にいる事になったんだよ。
だから、明日ちょっとロメオさんと話してみたいんだけど」
「ええっ、ロメオと!?何話すの!?」
「ん?まあ、それは明日になってから。夕方、キーラの仕事が終わったら迎えに来るから、一緒にロメオさんの屋敷に帰ろう」
「……キーラが気の毒だから、抱いてやってくれとか、言わないよね?」
「何言ってんの、そんな事言うわけないでしょ」
「……そうよね」
キーラは恥ずかしそうに下を向いた。
「じゃあ、今日は帰ろう。明日キーラ朝から仕事なんだったら、少しは寝ないと。
俺、送っていくよ」
キーラはまだ何か言いたそうに躊躇していたが、立ち上がったエイジャに手を取られて腰を上げた。
エイジャとキーラはそっと宿を出て、ひっそりと静まり返った街を歩きだした。
かなり月の明るい夜ではあったが、それでもキーラの持ってきたランプがなければ足下がおぼつかない。
「こんな道を女の子一人で来るなんて、もう絶対ダメだからね」
エイジャが注意すると、キーラは首をすくめた。
「もうしないわ、こんなこと」
そう言うと、エイジャの腕を取った。
「ああ、もう、絶対エイジャの方がいい男なのになぁ、私、なんであんなオジサンが好きなのかしら」
「ロメオさんはいい人じゃないか」
エイジャが答えると、キーラは少し頬を膨らませた。
「エイジャにそんなふうに言われると、何だかイヤだわ。私、今でもエイジャの事も好きよ?じゃなきゃ、あんな事しないわ」
あんな事というのが先程の行為だと分かって、エイジャは少し気恥ずかしくなって頬を掻いた。
「キーラ、もうあんな事しちゃいけないよ」
「ごめん」
素直に謝ったキーラに、エイジャは苦笑する。
「2年前にも、キスしてくれなかったのにね。私、いつも待ってたのよ」
「……ごめん」
今度はエイジャが謝る。キーラはふふっ、と小さく笑った。
「でも、エイジャに印、つけちゃった」
「しるし?」
「ここ」
キーラが自分の鎖骨の下あたりを指差す。
エイジャが不思議そうに自分の襟元を少し開き、示された場所を確認する。
そこにあったのは、赤い鬱血痕。
「キスマーク、さっき付けたの」
キーラがいたずらっぽく笑う。
「キ……」
エイジャは顔を赤くして絶句した。
「これ、これがそうなの?」
冒険者仲間との酒場での他愛ない会話で耳にした事はあったが、実際に目にするのは初めてだった。
「どうやってこんな印つけたの!?」
「あれ、知らないの!?分かんなかった?
あー、なんか嬉しいなぁ、エイジャに初めてキスマークを付けた女は私ってこと?」
「もう、キーラ……」
エイジャは苦笑を返す。それでも、いつものキーラの調子が戻ってきた事が嬉しかった。
いつも読みに来て下さる皆様、ありがとうございます。
大変遅くなってすいませんでした……!