(29)治外法権の街
アストニエル王国からの出国手続きは、思いがけない程あっさりしていた。
砦の下に退屈そうに立っていた一人の王宮兵の男に、出国する人数と性別、年齢を告げる。
男はそれだけを手元の帳面に書き込むと、馬車の中を確認もせず、ひらひらと手を振って送り出した。
「出て行く人間には大して興味はないのよ。入ってくる人間を見ているの」
フェルダが説明する。
「それにしてもやる気なさすぎなんじゃないの。あんなだからアストニエルから人が攫われて、簡単にシアルに連れてかれちゃうのよ」
憎まれ口を叩くベルを、ルチアが振り返る。
「その意見に関してはお前が正しいな。反論できない」
「帰ってくる時は厳しく審査されるって事?」
エイジャが少し心配そうに尋ねると、ルチアは軽く笑って首を振った。
「なんらかの身分証明があればそう手こらずに入れる。俺達は王宮発行の証明書があるから、問題ないだろ」
「ふうん、じゃあシアルにもその証明書で入るの?」
「いや……アストニエルの王宮関係者だという事は伏せたいからな。シアルでの身分証明書はフェルダが用意しているから、そっちを使う」
アストニエル王国の王宮魔術師であるフェルダが、どうやってシアルの身分証明書を調達してきたのか知らないが、きっとそれは聞かない方が良いのだろうと、エイジャは一人納得して口をつぐんだ。
しばらく馬を進めると、荒廃した砂漠地帯の真ん中に集落が見えてきた。
「おまえは、アストニエルを出るのは初めてだったよな」
ルチアの問いかけに、エイジャはこくこくと頷いた。
「じゃああの街の話は知ってるか?」
「……一応、噂には聞いてる。寄って行くの?」
「情報収集にな。それに、この眼鏡を直せる職人は、きっとこの街にいるんだ」
アストニエルを出た事がなくても、この街の事は大抵の人間が知っている。
アストニエル王国でも、シアル公国でもない。どちらの国にも属さない、国境の街。それが、ラグースだった。
元々ただ砂漠が広がっているだけで国境の線引きがあいまいだった所に、いつのまにか人々が集落を作り始め、長い時間を経て一つの街を形成したと言われている。
存在をよく知られているとはいえ、安全に旅をしたい者なら、この街に足を踏み入れる事はせず、迂回して通り過ぎるのが常だ。
どの国にも属していない治外法権状態にある為、出国はしたが入国が認められずに仕方なく居座っている者や国から追われているお尋ね者も多い。商人や情報屋なども数多く集まり、ここで手に入らない物はないとまで言われているが、治安の悪さは筆舌に尽くしがたいともっぱらの噂だった。
「ねー、ラグースに入るの!?」
街の入り口に向かっているのに気付き、後方の馬車の御者席から、ベルが声を張り上げる。
「ああ、そうだ。お前はよく知った街だろう?」
「行った事もないわよ!人をお尋ね者扱いしないでよね」
ベルが不満そうに頬をふくらませる。
「ルチアは?来た事あるの?」
エイジャの言葉に、ルチアが頷く。
「何年も前だが、王宮騎士団にいた頃に来た事がある。安全な街とは言えないが、噂に尾ひれがついてる所もあるからな。三歩歩くだけで身ぐるみはがされるとか、街に女が一人もいないとか、そこまでじゃない」
その話はエイジャも聞いた事があった。アストニエルを出る人間はあまりおらず、シアルからやってくる人間も少ない為、噂話ばかりが先行しているのだ。
「でも、おまえは一人で街を歩くんじゃないぞ。女が少ないのは事実だし、餓えた獣みたいな輩がうじゃうじゃしてるからな」
「ちょっとぉ、その心配は普通私に対してするもんじゃないの!?か弱い乙女よ!?」
ベルの声が後ろから響き、ルチアは目を眇めてベルを振り返る。
「か弱い乙女は自己申告しないだろう」
「誰も言ってくれないんだから自分で言うしかないじゃない。それとも私なんて夜道を一人で歩いてても誰も襲わないっての!?」
「何言ってんの、ベル。ダメだよ、一人で街歩いたりしたら。俺が必ず付いていくからね」
エイジャが言うと、ベルはぱあっと顔を綻ばせた。
「うん!ありがとっ、エイジャ!」
ルチアは途端に機嫌の良くなったベルを振り返る。
一つの疑惑が頭をもたげていた。
エイジャはどの女性にも親切だが、ベルに対しては特に優しく接しているように見える。
案外、ベルみたいな女が好みのタイプなのだろうか。
ルチアには全く理解できないが、ストレートに好意を示してくるベルに、エイジャもまんざらではないのかもしれない。
しかし、そもそも王都に残してきた恋人がいるのかもしれないし、そういう話はエイジャの口から聞いた事がないのだから何も分からない。
エイジャの話から察するに、(エイジャに自覚があるのかないのかは別として)半端なくもてる事は間違いない。
その女達全てを拒否する事がエイジャにできるとも思えなかった。
いや……逆に、しっかりとエイジャを支えていけるような、心優しい女性が王都にいるのなら。それでいいじゃないか。友人として側にいると決めたのだから、良い相手と結ばれる事を願ってやるべきだ。
旅を続ける中で、ベルが当初思ったほど悪い娘ではない事は分かってきたが、それでもやはりベルにエイジャをまかせるのは不本意だ。
エイジャに必要なのは、心に負っている傷を、そっと包み込んで癒してやれるような。それでいて、あいつが自分の身のを軽んじて危険に身を投じそうになった時には、守ってやれる強さがあって、辛い時は側にいて支えてやれる……
(……つまり、俺がそうしてやりたいって事だな……結局)
自縄自縛に陥っている事に気付き、ルチアはうなだれた。
ラグースの町並みは、今はもう懐かしいアストニエル王都のそれに少し似ていた。
白煉瓦作りの建物が立ち並び、その隙間を埋めるように屋台形式の商店がひしめきあっている。日差しが地面に濃い影を作り、時折大通りを吹き抜ける強い風が砂埃を舞い上げる。
通りには人が溢れ、様々な訛りの言葉が飛び交う。王都にも様々な人種が集まってはいたものの、ここラグース程ではなかった。顔つきも髪や肌、瞳の色も多種多様で、まさに人種のるつぼと言える。
ただその誰もが、どこかぎすぎすとした緊張感を漂わせているのが、明らかに王都とは雰囲気を異にしていた。
町外れの馬小屋に馬と馬車を預けたエイジャ達は、宿を探して大通りに足を踏み入れた。
途端に、四方八方から投げつけられる不躾な視線を感じる。
(嫌な空気だな。……こういう雰囲気、ひさびさだ)
エイジャは胸の内でひとりごちる。
「相手にするな。珍しがってるだけだ」
一歩前を歩いていたルチアがエイジャを振り向いて言った。
エイジャは頷くと、すぐ横を歩いていたベルを守るように腕を引いた。
「え、エイジャ」
「危ないから。俺から離れちゃだめだよ、ベル」
ベルは驚いたように目をぱちくりとさせたが、嬉しそうに頷いた。
二人の様子に、ルチアはまたひそかに気落ちするのだった。
今晩の宿を取ると、エイジャ達は少し早い夕食を取るため、併設された食堂へ足を運んだ。
「話には聞いてたけど、ほんとに荒んだ街ねぇ」
席についたベルがテーブルに頬杖を付く。
「いつもの事よ。慣れれば面白い街なんだけどね、ここも」
フェルダは何ともないように言うと、テーブルに置かれていたメニューを広げる。
「お前が一番注目を浴びてたような気がするがな」
「そうよねぇ、歩くお宝博覧会って感じよね」
ルチアがフェルダに向かって言った言葉に、ベルが同意する。
今日のフェルダは見るからに上質そうなベルベットのロングドレスに、色とりどりの宝石が光る金のネックレス。指にも大粒の宝石をあしらった指輪をいくつもはめている。
「アタシはいつも通りにしてるだけよ?」
「そりゃそうだけど。絶対あいつら、フェルダさんの全身総額いくらか計算してたわよ」
「まあ、女ってだけでも人目を引いちゃうのよ、ここじゃ。気にしない、気にしない」
フェルダの言葉に、エイジャとベルは改めて食堂の客を見回す。
八割近くの席が埋まっていたが、その全てが男だった。
「それにしても、昔来た頃に比べてさらに女が減った気がするな」
ルチアがつぶやいた時、背中から威勢の良い声が飛んできた。
「はい、おまたせー!熱いから気を付けてね!」
「あら、噂をすれば、女の店員だわ」
フェルダが振り返る。少し離れた別のテーブルに出来上がった料理を運んできた若いウェイトレスが、こちらに向かって声を掛ける。
「いらっしゃい!ちょっと待ってね!」
高い位置で結われた灰色の髪が、少女のきびきびとした動きに合わせて揺れる。エイジャと同い年くらいの、ぱっちりと勝気そうな瞳をした少女だ。
淡いピンク色のワンピースに白いエプロンを付けて働く姿は、男しかいない店の中で異彩を放っていた。
人数分のグラスをトレイに乗せ、こちらに近付いてくる。
「はい、いらっしゃい!ご注文は?」
グラスをテーブルに置きながら、少女が顔を上げた。
「…………キーラ……!?」
エイジャの声が震えているのに、ルチアが気付いた。
少女の動きが止まる。
「えっ……エイジャ!?」
ガタンと音を立ててエイジャが立ち上がった。
「やだ……エイジャなの!?なんでこんな所に!?」
あまりの驚きに言葉を失っているエイジャとは反対に、キーラと呼ばれた少女は嬉しくてたまらないように声をはずませた。
「会いたかったわ、エイジャ!」
エイジャに駆け寄り抱きつこうとしたキーラを、ベルが止めようとした時だった。
「バカッッ!!!」
エイジャが声を荒げ、キーラもベルもびくっと動きを止めた。
「エイジャ……」
「ど、どこ行ってたんだよ!!人がどれだけ心配したか……分かってんの!?何も言わないで……!!」
ルチアもフェルダも、呆気にとられてその様子を見ていた。
本気で怒っているエイジャを見たのは初めてだった。
「ご、ごめんなさい!エイジャ……だってあの時、どうしようもなかったのよ!あのままだと、エイジャにまで危険が及びそうだったから、私、しかたなく……」
うつむいたキーラに、エイジャは唇を噛む。
「……元気にしてたのか?ひどい目にあったりは……?」
「うん……大丈夫。国境越えるまではヒヤヒヤしたけど……。この街に来てからは、ここのオーナーにも良くしてもらってるし……」
「……そっか」
エイジャはそう答えると、黙り込む。
なんとも言えない空気が漂った。
「俺……ちょっと部屋に戻るよ。ルチア達は食事……続けて?」
「あ、おい、エイジャ……」
ルチアの声も耳に届かないように、エイジャは足早にその場を後にする。
後には、気まずい沈黙とキーラが残された。
「……ちょっと、なんなの!?エイジャがあんなに怒るなんて……」
ようやくベルが口を開くと、キーラはちらりとベルを見る。
目線だけを素早く上下に動かして品定めするような仕草に、ベルは憤った。
「なんとか言いなさいよ!あんた、何者!?」
「何者って……エイジャのカノジョだけど。あんたこそ何?」
張りつめていた空気が、瞬間的に凍り付いた。
「・ ・ ・ カ ノ ジ ョ で す っ て ーーーー ! ? 」
ベルの金切り声が店内に響き渡った。