(16)酷く甘い夜更け
夜更けになってようやく宴はお開きになり、エイジャ達はフェルダの店へ戻ると、そのまま別れて各自の寝室へ戻った。
エイジャはベッドに俯せになると、大きく息を吐いて体をシーツに沈めた。
酒には強い方なので、さして酔っているという自覚もないが、そこそこ量は飲んだので、少し頭の回転が遅くなっているような感じがある。
このまま寝ちゃおうか……そう思ったが、なんだかそんな気分にもなれず、エイジャは体を起こして、テラス窓に近付いた。
カーテンを開けると、ちょうど月が窓の中央に見えた。少し紗がかかって見えるのは、自分の目が酒のせいでいくらか潤んでいるのかもしれない。
少し外の空気を吸いたくて窓を開け、バルコニーに足を踏み出してひんやりした空気を胸に吸い込んだ。
この近辺は平屋造りの建物が多い。二階にあるこのバルコニーから見える景色は、家々の屋根がどこまでも連なり月の光を反射していて、まるでいつか見た夜の海のようだと思った。
手すりに頬杖をつき、エイジャは今日の宴の様子を思い返した。
ディノを失って不安もあるだろう。何とか、自分達の力で頑張っていこうとしているザックやノーラ達を思うと、自分も頑張らなくちゃ、という勇気が湧いてくるようだった。
結局、ベルとルチアを仲直りさせるという目的を達せられたのかどうか分からないが、店からの帰り道、酔っぱらった二人がいつものように舌戦を繰り広げながら歩いていたので、きっとあの二人はあれで良いのだろう。
フェルダさんも随分お酒を飲んでいたみたいだったけど、やたらと色っぽくなったぐらいで悪酔いはしてなかったみたいだ。
それにしてもルチアもかなりの量を飲んでいたけど、大丈夫なのだろうか。部屋で苦しんでいないかどうか、少し心配だ。
帰り道、微妙に心もとない足取りで歩いていたルチアを思い出す。あの時、本当は走って行って、肩を貸したかったのだけど。
(……婚約者、かぁ……)
無意識に、あまり考えないようにしていた事実を、ふいに思い出した。
意外といえば意外だし、当然といえば当然。
はっきりと聞いた事はないが、おそらくルチアは20代前半といった所だろう。まさに適齢期だ。
何しろ王宮では今のような変装もしていないのだ。あの容姿、洗練された優雅でスマートな身のこなし。次代の王であるカルニアス王子の側近を勤められるような知性と、王宮騎士団から近衛に昇格するほどの剣の腕の持ち主。
正直、逆にあそこまで完璧に美しい男に対して恋なんてできないような気がするが、王宮には庶民が到底拝めないような麗しい美姫が揃っていると噂に聞いた事がある。きっとそんな、美しく艶やかで、名のある家の女性と結ばれたのだろう。
(ちょっと……近付き過ぎたのかもしれないな)
そう胸の内でひとりごちて、エイジャは溜息をついた。
たくさんの人の好意に助けられて生きてきたエイジャは、周囲の人間へその優しさを返す事を大切にしてきた。
だが同時に、必要以上に親しい人間は作らないようにしてきた。
他人には明かせない秘密を抱えて生きている以上、一定の距離を保ってつきあう事が必要だった。
冒険者組合からの依頼で一時的に他の冒険者とパートナーを組んで行動する事もあったが、その後も一緒に組んで仕事をしたいと言われても、それを承ける事は決してなかった。
ルチアは、エイジャが何かを隠している事に気付きながらも、強引にそれを聞き出そうとはしない。
ただ側にいてくれる。そして、エイジャがルチアの助けを求めた時には、必ず来てくれる。
そんなルチアの優しさが心地よくて、つい距離を縮めてしまったのかもしれない。
甘えちゃいけない、そう思っていたのに、いつのまにかルチアにとって自分が特別な存在であるかのように錯覚していたのではないだろうか。
そう、婚約者がいるという事実を知って、気持ちが落ち込むほどに。
はあ、と深い息を吐き出し、エイジャは頭を振った。
なんだか自分がひどく弱い人間になってしまったみたいで。
こういう自分は嫌いだ。
女の子を守る時。女の子の笑顔を見た時。エイジャは男としての自分を実感する事ができる。
それはエイジャにとって自分自身の存在意義の再確認でもあった。
誰かを守る事のできる自分。誰かの役に立てる自分。
でも、ルチアが優しくしてくれると、心地よさと同時に、その存在意義が揺らいでしまうような不安があった。
ルチアに大事な人がいると知っただけで動揺するような、弱い心を認めたくはない。
これからも自分は、一人で生きていかなくてはいけないのだから。
ギィ、と音がしたのに気がついて、顔を横に向ける。
隣のバルコニーに、ルチアが立っていた。
窓に手を掛けたまま、驚いたような顔でこちらを見ている。
「……ルチア。どうしたの?」
エイジャが声を掛けると、ルチアははっとしたように目を瞬かせた。
「……ちょっと酔い覚ましにな……。飲み過ぎた」
「やっぱり。飲み過ぎじゃないのかなぁって心配してたんだよ。シャルル・ノワールを何本も開けて。あれ、度数かなり高いんじゃないの?」
「シャルル・ノワールだったのか、あれ……。度数も高いが値段もかなりするぞ、あのノーラって女も結構したたかだな」
ルチアは店を出る前、ボトルを入れた分は払うと言って何故かルチアのゴールドカードをベルがノーラに差し出していたのを思い出した。
最初から金は払うつもりだったからいいのだが、なんでベルが自分のカードを持っていたのか不思議に思いながら、ルチアはバルコニーの手すりに体を預けた。
エイジャがこちらをじっと見ている。
「大丈夫?お水、持ってこようか?」
「いや……いい。大丈夫だ」
しばらく二人の間に沈黙が続いた。
「婚約……」
エイジャがつぶやいた言葉に、ルチアの肩がびくっと跳ねた。
「婚約、してたんだね。おめでとう。……って言うとなんか変だけど。
水臭いよルチア、何で言ってくれなかったの?」
「いや……そんな改まって言うような事でもないし……第一、関係ないだろう」
そう言うと、エイジャは黙り込んだ。
「……エイジャ?」
「そ……だね。関係ないね……」
エイジャは手すりに掛けていた腕を離し、身体の向きを変えた。
「関係ないけど……でも……俺達は今はチームなんだし……それぐらい、話してくれても……」
「あ、いや、関係ないっていうのは・・俺の婚約者が、俺達の旅には関係ないだろうっていう意味だぞ。お前が関係ないっていう意味じゃ……」
なぜ、俺は慌ててるんだろう。
なぜ、エイジャは顔をこちらに向けないんだろう。
ルチアは、隣のバルコニーにいるエイジャに手が届かない事を歯がゆく思った。
こんなに近くにいるのに。
うまく廻らない頭でそう思った時、ひとりでに身体が動いた。
物音に気付いて振り向いたエイジャは、バルコニーを飛び越えようと手すりに足を掛けるルチアの姿を見て戦慄した。
「キャアアアアッ!!」
二階とはいえ、酔って普段の運動能力を失っている今の状態では、失敗して下に落ちれば大怪我をするに違いなかった。
エイジャは慌てふためいて駆け寄ったが、止める間もなくルチアは軽々と手すりを飛び越え、駆け寄ったエイジャの腕を掴んだ。
そのまま胸の中に抱き込まれ、エイジャはパニックに陥った。
「る、る、ルチア!?どうしたの!?」
動転した声で尋ねるエイジャに答えず、ルチアは腕に力を込める。
「気持ち悪いの?ねえ……大丈夫!?」
「……大丈夫だから……少しの間、このままでいてくれ」
「えっ!?」
腕の中の抵抗が弱まり、エイジャが身体を強ばらせながらも、ルチアを気遣ってじっとしているのが分かった。
抱きしめたエイジャの身体はやはり、男の物とは思えないほどに頼りなく、柔らかくて。
ルチアは、人買いの男達との一戦で気を失ったエイジャを抱きしめた時の事を思い出す。
あの時は気が動転していて分からなかったが、後になって思ったのだ。
本当に男なのか?
王宮騎士団にいた頃、訓練や作戦の最中、同僚の男達の身体を背負ったり組み合う事はあった。
剣士の揃った騎士団の男達の体つきと比べる事に無理があるのかもしれないが、エイジャの身体はあの男達とは完全に異質なものに思えた。
その後、謝りに来たエイジャに思わず問い質したくなって引き止めてしまったが、さすがに聞くわけにはいかなかった。
「お前は本当に男なのか」などと、誰が聞けるだろうか。
今も酔いのせいで、正常な判断力が自分にあるとは思っていない。
でも……ならばこの細い腰も、小さな肩も。
月光を浴びて輝く白い肌も、伏せた長い睫毛の下で、濡れたように光る碧玉のような瞳も、全てが甘く、胸を斬られるように切なく感じるのも、全て酔いのせいなのだろうか。
ああ、きっと酔いのせいだ。シャルル・ノワールのせいだ。だから、俺がこれから何をしようかなんて、誰にも責められるものではないんだ。