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須藤家界隈ホラー

呪物研究者は祓えない。――「呪われたアイドル」と、彼女を手に入れたい呪物コレクター

作者: 十字路
掲載日:2026/11/03

 スタジオの照明が一段暗く落とされた。


 すっと沈んだ影の中で、不気味な音楽と共に赤いライトが明滅する。


 天井から吊り下げられた大型モニターに、割れるような効果音と共に『真夏の心霊怪談スペシャル!』という赤い文字が浮かび上がった。


 司会者にカメラが向けられる。

 彼がわざとらしく肩を震わせると、出演者たちから笑いが起こり、画面の右側を流れる視聴者コメントも一斉に賑やかになった。


 大手テレビ局の系列制作会社が運営するこの配信チャンネルでは、若手芸人や売り出し中のアイドルを招き、毎週さまざまな企画を生放送している。


 その日は夏の特別企画として、怪談師や呪物コレクターをゲストに迎え、怖い話を聞き、心霊写真や呪物を紹介するという台本が組まれていた。


「さあ、続いてはお待ちかね。最近はアニメや漫画の影響でコレクターも増えているという、『呪物』です。」


 司会者が手元の原稿に一瞬目を落とし、演者席の若手芸人へ手を向けた。


「どうですか、呪物。興味あります?」


「いや、流行ってるのは知ってるんですけどね。見るのは面白いですけど、そんなんやったらご意見番の顔とか呪物化してーー」


「ちょっとどういう意味よ!」


 女口調の男の野太い声が即座に返る。

 お決まりの流れに司会者が大袈裟に仰け反り、スタジオに笑い声が広がった。


 向かいに並んで座る三人の少女たちも、顔を見合わせて笑っている。

 近頃少しずつ人気を集め始めていたアイドルグループ『トレステトラ』のメンバーだった。


 明るい栗色の髪を肩で揺らし、誰よりも大きな声で笑っているのが葵。

 その隣で、怖い話のたびに葵の腕へしがみついているのが莉央。


 そして一番端に座る長い黒髪の少女が、十八歳の須藤京香だった。


 切れ長の瞳に通った鼻筋、艶やかな黒髪。

 三人の中でもとりわけ整った容貌の京香は、最近では単独で雑誌の撮影に呼ばれることも増え、いずれグループの中心になるだろうと関係者から期待されていた。


 本人は人前に出ることにまだ少し照れがあるものの、仕事には真面目で、収録の合間にはスタッフへ丁寧に頭を下げる、そんな少女だった。


「今日は非常に危険な呪物をお持ちいただいた、ということで。」


 司会者に促され、若い呪物コレクターが膝の上の木箱をテーブルへ載せた。


 二十代半ばほどの男だった。

 黒いシャツに細身のジャケットを羽織り、少し得意げな顔で蓋を開ける。


 薄汚れた布の包みを解いた途端、スタジオから一斉に小さな悲鳴が上がった。


 翁面だった。


 ただし、能楽で見るような翁面とは随分印象が違う。


 長い年月を経て黒ずんだ木肌には細かなひびが何本も走り、頬は不自然に痩け、口元だけが大きく吊り上がっていた。


 笑っているようでいて、片側の眉は怒ったように寄せられ、もう片方の目尻は泣き顔のように垂れ下がっている。


 照明の当たり方で表情が変わり、正面から見ているはずなのに、ふとした瞬間、面の目がこちらを横目で覗いているような錯覚に陥る。


 どこを見ても何かが少しずつ噛み合わない、ひどく違和感のある顔だった。


「うわあ、これはちょっと……。」


 莉央が顔を引きつらせ、葵が「怖っ!」と声を上げる。


 画面には『夢に出そう』『これ本物?』『なんか笑ってる?』といったコメントが次々に流れていった。


 コレクターは、いかにも怪談らしい口調で面の由来を語り始めた。


 この翁面は、ある一般の方から譲り受けたものだという。


 元の持ち主の亡くなった祖父は、生前、夜中になると天井裏から足音や呻き声が聞こえると繰り返し訴えていた。


 家族は高齢による衰えを疑って取り合わなかったが、老人が亡くなり、遺品整理のために泊まり込むようになると、誰もいない天井裏から、夜ごと何かを引きずるような音が聞こえ始めた。


 調べてみると、梁に縄で吊るされたこの面が見つかった。


 周囲には古い札が何枚も貼られ、梁の下には、何かが長い年月をかけて擦りつけられたような黒い汚れが残っていたという。


「気味が悪いから処分してほしいと相談されたんですけど、僕としては興味深い品でしたので、譲っていただいたというわけです。」


「いや、そんなのよう持って帰れますね! ちなみに、持って帰ってから何か変わったことは?」


「今のところ、僕の家では特に何も起きていませんね。」


「結局何も起きてないんかい! ここまで話しといて!」


 芸人の突っ込みにご意見番が追撃を重ね、スタジオが笑いに包まれる。


 怖い話を笑いに変えるのも、この番組ではお馴染みの流れだった。


 その中で、京香だけが笑っていなかった。


 木箱がスタジオに運び込まれた瞬間から、ずっと気になっていた。

 男が布を解いた途端、京香は慌てて視線を落とし、膝の上で両手を強く握り締めた。


 京香には幼い頃から、時折、他の人間には見えないものが見えた。

 人混みの中に立つ奇妙な格好の人や、誰もいない部屋の隅に蹲る黒い影。


 大抵は見ないふりをしていれば何事もなく過ぎていったし、触ろうとしても指が通り抜けるだけだった。


 けれど、あの面だけは違った。


 面の目の奥に、何かがいる。

 空洞のはずの眼窩の向こうに、さらに暗い穴がある。


 そのずっと奥から、誰かがこちらを覗いている。


 目を合わせてもいないのに、京香が身じろぐたび、それがゆっくりと首を巡らせる気配がした。


「せっかくだから、ちょっと被ってみましょうか!」


 司会者が冗談めかして言うと、芸人が真っ先に面を手に取った。


「僕こういうの似合うんですよ。ほら、どうです? ご意見番より強そうですか?」


 顔に当てて低い声で唸ってみせ、それからくるりと京香へ向き直る。


「ほら、京香ちゃんもどう? めっちゃ似合いそう!」


 京香の肩が、びくりと跳ねた。


「……い、いえ。私は……。」


「え、そんな怖い? 一回だけ!」


「すみません。本当に、ちょっと……。」


 京香は必死に首を振った。


 芸人に悪意はない。

 場を盛り上げようとしているだけだ。


 だから誰も、京香の顔が本当に青ざめていることには気付かなかった。


「えー、そんなに? 京香ちゃん、意外と怖がりなんだねえ。」


 司会者が笑い、カメラが京香へ寄る。


 笑って返さなければと思うのに、口元がどうしても動かない。


 その時、隣から勢いよく手が上がった。


「はーい! じゃあ仕方ないですね、私が被ってみますか!」


 葵だった。


「おっ、葵ちゃん勇気あるね!」


「こういうのは、アイドルも体張っていかないと!」


 面を受け取る直前、葵は京香にだけ見える角度で、片目をつぶってみせた。


 ――大丈夫、任せて。


 いつもそうだった。

 京香が言葉に詰まると、葵が先に笑って、場ごと引き受けてくれる。


 葵は何の躊躇もなく面を顔へ当て、両手を広げて妙な踊りを始めた。


「どうですか皆さん! これからトレステトラのセンターは、この私がいただきます!」


 面の下からくぐもった声で宣言する葵に、莉央が「やめてよー!」と笑い、芸人が「その顔でセンターは無理やろ!」と突っ込む。

 スタジオは再び大きな笑いに包まれた。


 京香は咄嗟に手を伸ばしかけ、そのまま凍りついた。


 面の縁から、黒く細いものが伸びていた。

 髪の毛のようにも、虫の脚のようにも見えるそれは、葵の頬に沿って少しずつ這い上がり、耳の穴を探すように先端を曲げた。


 面を被った葵の動きが、ぴたりと止まる。


 両手を広げたまま、まるで誰かの囁きに耳を澄ませているように。


「……葵?」


 答えはなかった。


「もう、葵ってば!」


 莉央が笑いながら面を取り上げる。

 黒いものは一瞬で消え、葵は何事もなかったように瞬きをした。


「え? 何?」


「何じゃないよ、気持ち悪い!」


「えー、せっかく盛り上げようと思ったのに!」


 葵はいつもの笑顔に戻り、莉央もつられて笑った。

 司会者はもう次の話題へ進んでいる。


 京香だけが、声を失ったまま葵の横顔を見つめていた。


 番組はその後、何の問題もなくエンディングを迎える。

 出演者全員がカメラに手を振り、生放送は終了した。


 この配信の終了後、出演者と制作関係者のうち五名が、わずか数日の間に事故や原因不明の急病で相次いで倒れた。

 その中にはトレステトラのメンバー二名が含まれており、番組はやがてインターネット上で「呪われた生放送」と呼ばれるようになった。


 グループは活動を休止し、そのまま解散。


 須藤京香は、十八歳で芸能界を引退した。


 尚、番組で紹介された翁面は、持ち主だったコレクターが救急搬送された後、行方が分からなくなっている。



     ◇



 それから八年後。


「……ですので、呪物と呼ばれる器物については、それがどのような意図で作られ、どのような場面で使われ、所有者や地域社会からどんな意味を与えられてきたのかを、分けて考える必要があります。必ずしも、人へ害を与えるために作られたものばかりではありませんので――」


 大学の講義室に、ぼそぼそとした女性の声が響いていた。


 正確には、響いてすらいなかった。


 マイクを通しているのに声は妙に小さく、教室の後方では空調の音と学生たちの衣擦れに紛れてしまっている。


 スクリーンには古い形代や祭祀具の写真が映し出され、教壇の女性がそれを細い指で示しながら、淡々と説明を続けていた。


 二十代半ばほどに見える女性だった。


 ただし、決して若々しいという意味ではない。


 艶の失われた長い黒髪は後頭部で無造作にひとまとめにされ、分厚い黒縁眼鏡の奥には、ひどく疲れた目が覗いている。


 化粧気のない顔は青白く、目の下には濃い隈。

 皺の寄ったシャツに羽織った灰色のカーディガンは、袖口が伸びていた。


 背中は軽く丸まり、パソコンの画面を覗き込む姿はどこか不格好に見える。


 須藤京香、二十六歳。


 呪術文化や祭祀具、呪物と呼ばれる器物を専門とし、異例の若さで助教の席を得た民俗学者である。


 八年前の華やかさは、今の京香からはまるで感じられなかった。


「……こちらは厄を引き受ける役割を持つと考えられた人形代の一例ですが、使用後の処理方法は地域や時代によって異なります。川へ流す場合もあれば、特定の場所へ納める場合もありまして……。」


 声は小さく、抑揚もほとんどない。


 そのうえ実例を挙げるたびに地域差や年代の問題、研究上の留意点まで補足するため、予備知識のない学生には少々難解だった。


 初めは真面目にノートを取っていた学生たちも次第に集中を切らし、後方ではスマートフォンを覗く者や、机に伏せて眠る者まで出始めている。


「……なあ、マジで眠くね?」


 前方の席の男子学生が、隣の友人へ顔を寄せて囁いた。


「分かる。今日の先生、催眠術でも掛けてんのかな。」


「テーマ、呪物と儀礼だしな。これも呪術の一種なんじゃね?」


 二人は小さく笑い合い、教壇の京香が反応しないのを確かめると、さらに声を潜めた。


「てかさ、あの先生って何歳?」


「二十代らしいよ。」


「嘘だろ。三十後半くらいかと思ってた。」


「顔色やばくね? なんか呪われてそう。」


 その言葉に、斜め前の学生が振り向いた。


「なあ、知ってる? あの人、元アイドルなんだって。昔、呪われたアイドルグループってあったじゃん。都市伝説系の動画で見たんだけど、あれのメンバーだったらしいよ。」


 一人が机の下でスマートフォンを操作する。


 検索結果には、八年前のグループの写真や、問題の生配信を取り上げた動画が次々と並んだ。


 画面の中で、華やかな衣装を纏った少女が笑っていた。

 艶やかな黒髪を肩へ流した、息を呑むほど美しい少女だった。


「……うわ、めちゃくちゃ可愛いじゃん。」


「いや、待てって。これ、マジであの先生?」


 男子学生は改めて教壇へ目を向けた。


 分厚い眼鏡を掛け、猫背で資料を読む、疲れ切った女性。


 画面の中の少女と同一人物だとは、到底信じられなかった。


「どうしたら八年でああなるんだよ……。」


「呪物って怖ぇな。」


「いや、先生自体がもう呪物化してんじゃね?」


 声を潜めることも忘れた一言に、周囲からくすくすと笑いが漏れた。


 次のスライドへ切り替えようとしていた京香の指先が、マウスの上でほんの僅かに止まる。


 けれど京香は学生たちを見ることもなく資料を切り替え、何事もなかったように説明を続けた。


 聞こえていなかったわけではない。

 もう聞き慣れているだけだ。

 だから、ここでどう反応しても、笑い声が増えることは分かっている。


 引退した直後には、同情する声も多かった。

 それが年月と共に、奇妙な事件を経験した元アイドルへの好奇心へ変わっていった。


 大学へ進んでも、研究者になっても、「あの呪われたアイドル」という言葉が経歴から消えることはなかった。


 化粧をしなくなったことにも、髪を整えなくなったことにも、大した理由はない。


 意味がないし、面倒だからだ。


 研究室に泊まり込んで資料を読み、朝方まで論文を書き、数時間眠ってそのまま講義に出る。

 休日は地方の資料館や旧家を訪ね、空いた時間には古物商の売り出し情報を調べる。


 外見を気にする時間があるなら、論文を一つでも多く読みたかった。


 それに――自分にはもう、誰かのために綺麗な服を着たり、華やかに笑ったりする資格はない。


 そう思っていても、八年前の自分と見比べられれば、傷付かないわけではなかった。


 いちいち傷付くなら、身なりに気を遣えばいい。そうしないと決めたのは、自分でしょう。


 京香は胸の内で自分に言い聞かせ、眼鏡を一度だけ押し上げた。


 やがて予定の資料を説明し終え、時計を確かめる。

 講義終了まで、あと数分残っていた。


「……それでは、今日の内容はこの辺りで。何かご質問がありましたら……。」


 学生たちはすでに帰り支度を始めていた。

 その中で、先ほど京香を笑っていた男子学生の一人が、隣から肘で小突かれ、にやにやしながら手を上げた。


「先生、ちょっといいですか?」


「……はい、どうぞ。」


「呪物って、本当に呪われてるんですか? 呪われてるかどうかなんて、誰にも証明できないじゃないですか。」


 学生はそこで言葉を切り、周囲をちらりと見回した。


「先生も昔、呪われたとか何とか噂ありますけど。そういうのって、学問としてちゃんと証明できるんですか?」


 後方から、笑いを堪えるような声が漏れた。


 京香はしばらく彼を見つめ、それから少しだけ首を傾げた。


「……なるほど。良い質問ですね。」


 学生の笑みが深くなる。

 京香はそれに構わず、マウスへ手を伸ばしてスクリーンを切り替えた。


「今のご質問には、三つの問題が含まれています。呪物を研究する意味があるか。呪いの効力を証明できるか。それから、私自身に起きたことについて。順番にお答えします。」


 スクリーンに、人の形をした薄い板が何枚も並ぶ写真が映る。


 古い資料に残る、祓いの道具だった。


「まず、民俗学が扱うのは恐ろしい物だけではありません。病気の快癒を願って作られた物や、災厄を代わりに引き受けると考えられた物もあります。重要なのは、それを作った人々が何を信じ、どう扱っていたかです。仮に呪いの力が存在しなかったとしても、その器物をめぐって行われた儀礼や、守られてきた禁忌が消えるわけではありません。」


 京香は、別の写真を映した。


 古い木箱の蓋を布で包み、紐を複雑に結んだものだった。


「例えば、ある地域で『この箱は開けてはいけない』と伝えられていたとします。私たちはまず、誰が、いつ、何のために閉じたのかを調べます。箱に害を及ぼす力があるかどうかとは別に、閉じた理由が分かれば、その土地の人々が何を恐れ、何を守ろうとしたのかが見えてきますから。」


 学生は黙っていた。


「次に、呪いの効力を証明できるか。ある器物に触れた人が病気になったとしても、それだけでは原因を特定できません。感染症かもしれないし、付着していた有害物質の影響かもしれない。恐怖による身体反応という可能性もあります。『何かが起きた』という事実と、『呪いが原因だった』という説明を、私たちは区別しなければなりません。」


 後方でスマートフォンを見ていた学生が、顔を上げた。


「じゃあ先生、結局呪いなんてないってことですか。」


「……いいえ。ないと証明できたわけでもありません。あると主張するなら、それに見合う根拠が要る、ということです。」


 京香は画面に残った木箱の写真を見ながら、言葉を選んだ。


「何かを見た、感じたという人の体験を、最初から嘘だと決めつけるつもりはありません。ただ、感じたことと、その解釈が正しいことは別です。何が確認できて、何がまだ分からないのかを整理する。そのために、記録や現物を調べるんです。」


 話すうちに、京香の口調は少しずつ滑らかになっていた。


 資料を読み上げていたときの弱々しさは消え、出土地の記録が失われた器物をどう扱うか、後世の伝承をどこまで信用するかを、実際の調査例を交えて説明していく。


 早口になって学生が分からなそうな顔をすると、すぐに別の例へ置き換えた。


 質問した学生は、いつの間にか頬杖をつくのをやめていた。


「……それから、私自身の経験ですね。」


 教室の空気が、もう一度変わった。


「八年前、番組の関係者に事故や病気が相次いだことは事実です。ですが、それが呪物によって起きたと示す証拠は、今のところありません。映像の中に何か見えたという人はいます。けれど、それを根拠に呪いが人を傷付けたと、学術的に結論付けることはできません。」


 淡々とした声だった。


 ――見たものは、証拠にならない。


 それを誰よりもよく知っているのは、京香自身だった。


 あの日、葵の耳へ潜り込もうとした黒いものを、京香ははっきりと見た。


 しかし八年経った今も、それを証明する方法を一つも持っていない。


 学生たちはいつの間にか静まり返っていた。


 自分の噂をあまりに淡々と語られて、どう反応すればいいのか分からなくなったのかもしれない。


「……ここまでで、ご質問への回答になっていますか。」


「……あ、はい。十分です。」


「そうですか。良かったです。」


 京香はほっとしたように頷き、手元の時計を見た。

 講義終了まで、あと一分ある。


「では、最後に一つだけ。先ほどの木箱の例ですが、蓋の紐の結び方にも地域差がありまして……。」


「せ、先生。もう大丈夫です。」


「……あ、そうですか。」


 京香は少し残念に思いながら、スライドを戻した。


 後ろの方から笑い声が漏れたが、今度のそれは、先ほどとは少し違う響きをしていた。


     ◇


 研究室へ戻ると、京香は鞄を机の横に置き、コンビニの袋からおにぎりを一つ取り出した。


 机の上には読みかけの専門書、古い資料の複写、付箋だらけの論文、書類の束が山積みになっている。


 棚には各地の民俗資料集や儀礼の研究書が隙間なく並び、床の段ボール箱には、買ったまま整理できていない古書が詰め込まれていた。


 かつて衣装や化粧品が並んでいた実家の部屋も、今では似たような有様だ。


 おにぎりの包装を剥がしながらパソコンを立ち上げ、未読メールの件数に小さくため息を吐く。


 学生からの問い合わせに返信し、週末の調査の連絡を返そうとしたところで、研究室の扉が控えめに叩かれた。


「須藤君、今いいか。」


「あ、はい。どうぞ。」


 入ってきたのは、五十代半ばの男性教授だった。

 白いものの混じった髪に、少しくたびれたジャケット。


 京香が大学院時代から世話になっている伊達教授で、民俗宗教や祭祀文化を専門としている。


「すまん、食事中だったか。」


「いえ、大丈夫です。どうされました?」


「少し、妙なものが見つかってな。君にも見てもらいたい。」


 教授が机に置いた資料には、古い木造建築の内部を写した写真が何枚か添えられていた。


「……蔵、ですか?」


「市内から少し離れた旧家のものだ。解体作業の途中で、床下から妙な空間が見つかったらしい。」


 京香は写真を一枚ずつめくっていった。


 土壁の残る古い蔵。

 取り外された床板。

 その下に現れた、分厚い鉄板。


 鉄板を持ち上げた先の、暗い空間。


 最後の一枚で、手が止まった。


 石の台の上に、赤黒く変色した四角い箱が載っていた。


「持ち主も把握していなかったそうだ。学術的な価値はどうかと大学に問い合わせがあって、私が受けることになった。……人骨も一体分見つかっている。警察と自治体が確認しているが、そちらも相当古いものらしい。」


 箱は縦横五十センチほどだろうか。


 黒ずんだ木の表面に細かな線が走り、四隅には腐食した大きな金具が付いている。


 線が文字なのか装飾なのか、単なる傷なのかは、写真では判別できなかった。


「鎌倉以前の様式に似た部分もあるが、写真だけでは何とも言えん。後の時代に古い形式を真似て作られた可能性もある。」


「……この箱、まだ開けてはいませんよね?」


「価値があった場合に壊れてはいかんと、今のところ動かしてもいないそうだ。」


 京香は写真を見つめた。


 不気味ではあるが、写っているのはただの箱だ。


 そのはずなのに、眺めているうちに、胸の底へ冷たいものが沈んでいく感覚があった。


「……本当は、こういうものは開けないままにしておいた方がいいんでしょうね。」


「そうもいかんよ。」


 教授は小さく嘆息した。


「祟りも呪いも、証明されたことは一度もない。証明できない危険は、誰も止める理由にしてくれない。見付かったが最後、あれはただの古い箱として扱われる。値が付けば売られるし、邪魔なら壊される。」


 京香は返事をしなかった。それは、京香自身が講義で学生に語ったことの、裏返しだった。


「明日、所有者と解体業者、それから神社の方も立ち会って現物を確認する予定だ。君も同行してくれるか。」


「……はい。もちろんです。」


 教授が明日の段取りを伝えて部屋を出て行くと、京香はもう一度だけ、最後の写真を見た。


 それからスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送った。


     ◇


 翌朝、京香はひどい寝不足のまま家を出た。


 昨夜は写真がどうしても頭から離れず、夜中まで文献を当たっていた。


 古い祭祀具の資料集、地下施設を伴う信仰遺構の論文、過去に調査された木製容器の記録。

 片端から確かめたが、あの箱と一致するものは見つからなかった。


 写真だけで年代や用途を判断するのはそもそも無理だと分かっていても、気になり始めると調べずにはいられない。


 明け方にようやくベッドへ入り、三時間後には目覚ましに叩き起こされた。


 鏡に映った顔は隈がさらに濃くなり、まるで幽霊のようだった。

 京香はしばらく無言で自分の顔を眺めた後、諦めて髪を無造作に結んだ。


 自分の見た目がどうであろうと、これからの仕事に支障はない。


 教授の車に同乗し、現場へ向かう。

 道中、互いに調べたことを突き合わせたが、結局は現物を見なければ始まらない、という結論に落ち着いた。


 現場は、市街地を離れた山間の集落にあった。


 狭い道を抜けると、石垣と生け垣に囲まれた大きな屋敷が現れる。


 瓦葺きの母屋は立派だったが、長らく人が住んでいないらしく、庭には雑草が伸び、軒先には落ち葉が溜まっていた。


 敷地の端に、問題の蔵が建っていた。


 白かったはずの土壁は灰色にくすみ、ところどころ黒い下地が覗いている。

 片側には足場が組まれ、屋根瓦の一部が外されていた。


 車を降りると、四十代半ばほどの男性が駆け寄ってきた。


「わざわざありがとうございます。この土地の管理を引き継ぎました、長谷川と申します。」


 屋敷は亡くなった祖父のもので、長谷川自身は幼い頃に何度か遊びに来た程度だという。


 管理する者がいなくなり、老朽化も進んだため、母屋の一部を残して解体することになったらしい。


「祖父も、あの蔵にはほとんど入ったことがないと言っていました。曾祖父が若い頃にこの土地を買った時には、もう建っていたそうで。……まさか床下から骨が出てくるとは。」


 長谷川は深々とため息を吐いた。


「工事も止まってしまって、これ以上長引くと費用も嵩みますし……。ああ、それと。実は、あの箱を買い取りたいとおっしゃる方がいるんです。今日も午前中に、現物を見にいらっしゃることになっていまして。」


「……もう、ですか?」


「ええ。どこでお知りになったのか、写真を送ってほしいと連絡があって。神崎朔弥さんという収集家の方なんですが、ご存じですか?」


 神崎朔弥。


 よりにもよって。


 京香は一度目を閉じ、胸の奥でせり上がったものを、長い息と一緒に吐き出した。


「……知っています。」


 神崎は、ここ数年で急速に名を知られるようになった若い呪物コレクターだった。


 個人の収集家としてはあり得ないほどの資金力。


 そして、地方の旧家から骨董商、寺社関係者、個人の蒐集家に至るまで、どうやって調べているのか分からないほど広い網。


 しかも彼が欲しがるのは、古いものでも高価なものでもない。


 不可解な事件が起きたとされる品、長い年月をかけて封じられてきた器物、持ち主が気味悪がって手放そうとしているもの。


 そう、曰く付きの品ばかりだった。


 京香もまた、私費で呪物を集めている。


 研究のためだけではない。

 八年前、仲間を傷付け、京香の人生を折り曲げた、あの翁面。


 その行方を追いながら、同じように危険な器物を一つでも多く回収し、解いていく。


 それが、京香が半生を賭けると決めた仕事だった。


 実家にはそれなりの余裕があり、給料の大半も研究と収集に消えている。


 それでも、神崎には到底及ばなかった。


 以前、京香が何か月もかけて交渉していた、とある宗教団体の藁人形があった。


 危険性を確かめるまで売却を待ってほしいと頼み込み、ようやく相手が頷きかけたその日に、神崎が現れ、言い値の倍で買っていった。


 去り際、京香に睨まれた神崎は、なぜか嬉しそうな顔をしていた。


 それ以来、彼は顔を合わせるたびに、京香を自分の助手に誘ってくる。


 収集品の由来や性質を調べ、管理について助言する。

 報酬は十分に払い、設備も資料も用意する。

 調べ終えた品は自由に研究してよいし、望むなら譲ってもいい。


 研究者としては、破格の条件だった。


 それでも京香は、一度も首を縦に振らなかった。


 論文を書くわけでも、収集品を公開するわけでもない。

 何のために集めているのか、誰にも分からない。

 そのうえ人の命より、呪物の価値を平気で優先する男だ。


 そんな人間の助手になれば、知らないうちに何の片棒を担がされるか分かったものではない。


「お知り合いでしたか! それは良かった。あの方なら、こういう古いものの扱いにも慣れていらっしゃるでしょうし……。」


 安堵したように笑う長谷川に、京香は曖昧に頷くことしかできなかった。


 敷地には解体業者の責任者と数名の作業員、それに地元の神社から来た年配の神職が待っていた。


 槙野と名乗った神職によれば、人骨はかなり古い時代のものとみられ、関係機関による確認が進められているという。


 京香たちが呼ばれたのは、残された箱の価値と扱いについて意見を求められたためだった。


 京香は蔵の入口へ目を向けた。


 屋根も壁も一部が外されているのに、中は妙に暗かった。


 日の光は確かに差し込んでいる。

 けれど、その明るさは床の途中で唐突に途切れ、奥へ進むほど影が濃くなっていくように見えた。


「現物を見せていただいても?」


「もちろんです。こちらへ。」


 長谷川に続いて蔵へ入った瞬間、空気が変わった。


 肺に入る空気が急に重くなり、胸の内側を柔らかいもので押さえつけられるような圧迫感がある。


 古い建物だから、では説明のつかない重さだった。


「……須藤君? 顔色が悪いが。」


「いつものことです。」


 蔵の中央では、床板が大きく剥がされていた。


 太い梁の間に、床下へ通じる四角い開口部が口を開けている。

 真上の屋根瓦が外されているせいで、そこにだけ、外の光が細く斜めに落ちていた。


 開口部の脇の柱には、厚い鉄板が立て掛けてある。


 京香はまず、鉄板の前に屈み込んだ。


 かなりの重さがありそうな板で、表面には赤茶色の錆が浮き、縁には黒い汚れがこびりついている。

 懐中電灯を当てると、表側の錆はなだらかだった。


 ところが、柱に向いていた裏側を覗き込むと、様子が違った。


 錆の下に、何か硬いものを何度も擦りつけたような細かな傷が、びっしりと走っている。


「これが、最初に見つかった鉄板ですか?」


「ええ。補強材だと思ったそうなんですが、持ち上げてみたら下が空洞で。」


 京香は傷から目を離せなかった。


 この板は、開口部に蓋として被せられていた。

 ならば、裏側は下を向いていたことになる。


 この傷は、下から付いたものだ。


 京香は手帳に短く書き留め、開口部へ懐中電灯を向けた。


 地下には三畳ほどの空間が広がっていた。


 土を掘り下げ、古い石と土で壁を固めた造りで、天井は大人が立てば頭をぶつけそうなほど低い。


 隅には人骨が見つかった位置を示す目印が残され、そのすぐ横の低い石台に、例の箱が載っていた。


「骨は、箱の上にも掛かっていたそうです。警察の方の話では、箱を覆うような姿勢のまま白骨化したんじゃないかと。」


 京香は教授と共に、慎重に地下へ降りた。


 乾いた土と細かな砂利が、足元でざり、と鳴る。


 地下特有の冷気が溜まっているのに、黴の臭いはさほどしない。

 代わりに、古い木材を長く密閉していた時のような、かすかに甘い匂いが漂っていた。


 間近で見る箱は、写真よりずっと奇妙だった。


 黒ずんだ木の表面に、幾何学的な線が無数に刻まれている。


 よく見ると線の深さも向きも揃っておらず、同じ箇所を何度も彫り直した跡があった。

 四隅の金具は鉄製らしく、腐食してはいるものの、木の古び方とは明らかに釣り合っていない。


「木の傷み方と、金具の老朽具合がどうも違うな。」


 教授が斜めから光を当て、眉を寄せた。


「金具は後から付け直されていますね。それも、一度ではないかもしれません。ここ、古い釘の跡が残っています。」


 京香はルーペを取り出し、四隅を順に確かめていった。


 金具の一つだけが、僅かに浮き上がっている。その下に細い影が落ちていた。


 光を当てても、影は消えない。箱の内側へ通じる細い隙間だけが、どこまでも暗かった。


 ふと、何か聞こえた気がした。


 乾いた木を、爪の先で軽く引っ掻くような、ごく小さな音だった。


 教授は気付いていない。

 上から覗き込んでいる長谷川も、表面の模様の話をしている。


 聞き間違いかもしれない。


 けれど京香には、隙間の向こうで何かが息を潜めているように思えてならなかった。


 やがて槙野も地下へ降りてきて、三人で箱を囲んだ。


「石の台に載せてあるのも気になりますね。箱というより、これ自体が一種の祭壇なのかもしれません。何かを祀る形を取って、閉じ込めている。」


 槙野の言葉を聞きながら、京香は手帳を開いた。


 誰が、いつ、何のために閉じたのか。


 いつ――少なくとも、一度ではない。金具は何度も付け直され、線は何度も彫り直されている。


 何代にもわたって、誰かがこの箱を封じ直してきた。


 何のために――中のものを、外へ出さないためか。


 そして、誰が。


 京香は、人骨の目印に目を向けた。


 最後にこの箱を閉じたのは、おそらく。


 背筋を、ぞくりと寒気が這い上がった。


 しばらく箱を前に討議したものの、結局結論は出なかった。

 年代も用途も、写真で見た時以上に分からない。


 三人の意見が一致したのは、今は箱を開けるべきではない、という一点だけだった。


 地上へ戻ってそう伝えると、長谷川は困り果てた顔をした。


「開けなくても構いません。ただ、せめて外へ運び出していただかないと、工事が……。」


 長谷川がそこまで話した時、敷地の入口から、低いエンジン音が近付いてきた。


 黒い高級車が、ゆっくりと敷地へ入ってくる。


 蔵から少し離れた場所に停まると、運転席からスーツ姿の青年が降り、後部座席の扉を開けた。


 現れたのは、二十代半ばほどの、いかにも育ちの良さそうな青年だった。


 整った顔立ちに柔らかな微笑を浮かべ、仕立ての良い服を着こなし、土埃の舞う解体現場を、美術館にでも来たような足取りで歩いてくる。


 京香は、思わず顔を顰めた。


「……神崎さん。」


「あれ、京香さん。お久しぶりです。」


 神崎朔弥は京香に気付くと、ぱっと顔を明るくした。


「まさか、こちらでお会いできるとは。今日はついていますね。」


「私は、ついていません。」


「そうですか。あなたも相変わらずですね。」


 神崎はくすりと笑い、長谷川と挨拶を交わすと、開口部の縁に屈んで地下を覗き込んだ。


 青年の差し出した懐中電灯の光が、石台の上の箱を照らす。


 しばらく、神崎は何も言わなかった。


 それから、口元を片手で覆った。


「……写真で見るより、ずっといい。」


 指の隙間から零れた声が、僅かに上擦っていた。


「長谷川さん。多少の破損は構いませんから、今日のうちに運び出していただけますか。搬出の費用はこちらで持ちます。」


「本当ですか! 助かります。」


「待ってください。」


 京香は割って入った。


「中に何が入っているのか分からない以上、動かすべきではありません。構造も不明ですし、保存状態も良くない。少なくとも、もっと調べてから――」


「調べるのは、運び出してからでもできますよ。」


 神崎は穏やかに言った。


「それに、あの箱は長谷川さんのものです。決めるのは長谷川さんでしょう?」


 京香は言葉に詰まった。


 その通りだった。

 研究者は危険性や価値について意見を述べることはできても、扱いを決めることはできない。


 教授を見ると、彼も苦い顔で小さく首を振った。


 証明できない危険は、誰も止める理由にしてくれない。


 昨日の教授の言葉が、そのまま目の前で形になっていた。


 作業員たちが搬出の準備を始める。


 京香はそれを見遣りながら、ポケットからそっとスマートフォンを取り出した。


 昨夜送ったメッセージに、返信が一件だけ届いていた。


『昼前には行ける。たぶん』


 画面の時刻は、十一時を少し回ったところだった。


 ――たぶん、が余計なのよ。


 京香は唇を引き結び、吊り具を掛けられようとしている箱を見下ろした。



     ◇



 搬出の準備が整ったのは、それから三十分ほど経った頃だった。


 作業員たちは箱の周囲に保護材を当て、帯状の吊り具を掛けた。

 地下で二人が箱を支え、開口部の上で二人が吊り具を引き上げる段取りだ。


 神崎は蔵の入口近くに立ち、静かにその様子を眺めていた。


 京香は開口部のすぐ脇まで来ると、神崎を横目で見て、また箱へ目を戻した。


 落ち着かない。

 さっきの小さな音が、耳の奥から離れなかった。


「……せーの。」


 声を掛け合い、箱がゆっくりと持ち上がる。

 かなりの重さがあるらしく、吊り具を引く二人の腕が震えていた。


 暗い地下から、蔵の床の高さへ。


 開口部の縁を越え、屋根の隙間から斜めに落ちる日差しの中へ、赤黒い箱の角が出た。


 がり、と音がした。


 硬いものを擦るような、乾いた音だった。


 吊り具を握っていた作業員の一人が、怪訝そうに箱を見下ろす。

 木材同士が擦れたとでも思ったのだろう。そのまま床へ下ろそうとした、次の瞬間。


 がり、がり。


 今度は、はっきりと聞こえた。

 乾いた木材の内側を、鋭い爪で引っ掻く音だった。


「……おい。何の音だよ、これ。」


「いや、今、中から……。」


 言い掛けた声が途切れた。


 がりがりがりがりがりがり――。


 何本もの爪が一斉に内側から蓋を掻きむしり始めた。

 箱全体が細かく震え、四隅の金具の一つが、ぎ、と持ち上がる。


「駄目! 置いてください!」


 京香が叫ぶより早く、作業員が悲鳴を上げて吊り具を手放した。


 片側の支えを失った箱が傾き、開口部の縁へ角から落ちる。


 鈍い音と共に浮いていた金具が弾け飛び、長年閉じられていた蓋が、指一本ぶんほど持ち上がった。


 京香には、見えた。


 隙間の奥から、白く濁った小さな目が二つ、こちらを見ていた。


 人間の目だった。

 ただし、ひどく小さい。


 落ち窪んだ眼窩の奥に、黄ばんだ眼球が無理やり押し込まれている。

 周りには乾き切った皮膚が幾重にも皺を寄せ、目元から頬にかけて黒い筋が何本も走っていた。


 水分を失い切った人の顔を、さらに小さく縮めたようなものだった。


 その顔がゆっくりと目を細め――それから、大きく見開いた。


 隙間から、細い指が一本現れる。


 人間の小指ほどの太さしかないのに、異様に長い。


 途中の関節が、本来曲がるはずのない方向へ何度も折れ曲がっている。


 黒ずんだ爪が箱の縁を掴むと、続けて二本目、三本目が現れ、乾いた木を掻きむしりながら、内側のものがぬうっと、身体を引き上げ始めた。


 隙間から、異様に大きな頭が押し出されてくる。


 人間の子供に似ていた。


 けれど頭ばかりが不自然に大きく、首から下は骨と皮しかない。


 黒く乾いた皮膚の中で、関節の内側だけが濡れたように光っていた。


 長い腕で縁を掴み、腹を擦りつけるようにして這い出してくる。


 人の身体を無理やり折り畳み、狭い箱へ押し込めていたものが、ようやく外へ出ようとしているように。


 その後ろにも、何かがいた。


 別の顔が、先に出たものの肩を掴んで引き戻そうとする。


 手足が絡まり、皮膚と皮膚の擦れ合う湿った音がした。


 片方が身を捩れば、その下からまた別の腕が伸びて、縁へ爪を掛ける。


 いったい、何体入っているのか。


 最初に這い出したものが、吊り具を手放した作業員の足元へ転がり落ちた。


「……いてっ。」


 作業員が、右手を押さえて呻いた。


 京香の頭の中で、ばらばらだったものが一斉に繋がった。


 光だ。


 箱が暴れ出したのは、地下の闇から日差しの中へ出た瞬間だった。


 鉄板の裏の、下から付いた傷。

 箱を覆うように横たわっていた骨。


 この箱は、箱だけで閉じていたのではない。


 地下の闇と、鉄の板と、その下で箱に覆い被さった人ひとりの重みまで含めて、ようやく一つの封だったのだ。


 金具を付け直し、線を彫り直し、何代にもわたって封じ直してきた誰かがいた。


 そして最後の一人は、自分の身体で蓋をした。


 その蓋が、今はない。


「鉄板を!」


 京香は柱に立て掛けられた鉄板へ駆け寄った。


「この鉄板を、箱の上に倒してください! 早く!」


 作業員たちは訳が分からないという顔で立ち竦んでいた。彼らに見えているのは、悲鳴を上げた仲間と、床の上で引っ掻く音を立て続ける箱だけだ。


 京香は鉄板の縁に指を掛けた。


 錆が掌に食い込む。


 重い。一人では、柱から引き剥がすことさえできない。


「須藤君!」


 教授が反対側に取り付いた。


「……手伝ってあげて。」


 入口の方から、神崎の静かな声がした。


 スーツの青年が無言で駆け寄り、三人の手が揃う。


 鉄板が柱から離れ、ぐらりと傾いた。


「そのまま、箱の上に!」


 轟音が蔵を震わせた。


 倒れ込んだ鉄板が、持ち上がりかけていた蓋を真上から叩き伏せる。


 隙間から伸びていた何本もの細い指が、鉄の縁に挟まれて千切れ飛んだ。

 床に落ちた指はしばらく虫のようにのたうち、やがて灰のように崩れて消えた。


 鉄板の下で、引っ掻く音が続いている。


 けれど、もう何も出てこなかった。


 京香は肩で息をしながら、顔を上げた。


 すでに出てしまったものが、二体いた。


 一体は、作業員の背中に貼り付いていた。

 肋骨の浮いた腹を衣服へ押し当て、異様に長い右腕を、男の肩から肘、手首へと伝わせている。


 その五本の指が、男の右手の指先にそっと重なっていた。


 ぐ、ぐぐ、ぐぐぐ、と。


 黒い枝のような指先が、男の爪の隙間へ沈み込んでいく。


「痛い痛い痛いっ……! 爪が、爪の裏が……!」


 男は反対の手で自分の爪を掴み、引き剥がそうとし始めた。


 皮膚が裂け、血が滲んでも止めようとしない。


「中にいる! 何かいるんだ! 取ってくれ! 頼む!」


 同僚たちが慌てて男を押さえ込む。


「爪を触らせないでください! 押さえて!」


 急いで背中のものへ手を伸ばした。


 指は、何の抵抗もなく黒い腕を通り抜けた。


 もう一度。また、宙を切る。


 目の前にいる。確かに見えている。男を傷付けていることも分かっている。


 それなのに、触れることさえできない。


 ――祓えない。


 八年前から、何一つ変わっていなかった。


「背中がっ……!」


 男が喉を裂くような声を上げた。


 もう一体が、男の首筋を這い上がっていた。


 先ほどのものよりさらに小さく、皮膚のほとんど残っていない頭部に、ひどく大きな口だけが開いている。


 下顎は胸元へ届くほど長く伸び、歯茎の内側には細い歯が何列にも並んでいた。


 その口から白く濁った舌が伸び、男の頬を這って、目尻へ向かう。


 京香の全身から、血の気が引いた。


 ――中へ入られたら、終わりだ。


 八年前、葵の耳へ潜り込もうとしていた黒いもの。


 莉央が面を取り上げたとき、あれはもう、葵の中へ入ってしまっていた。


 莉央は数週間高熱にうなされたが、その後は快方に向かった。


 しかし、葵は。


 彼女は、八年経った今も目を覚ましていない。


 舌の先が、男の瞼に触れた。


「ぎゃあああっ!」


 男が絶叫し、押さえつける腕を振り払おうとする。

 槙野が蒼白な顔で祓詞を唱え始めたが、男の首に巻き付いたものは、振り向きもしなかった。


 教授が救急車を呼ぶ声が、ひどく遠くに聞こえる。


 背中に貼り付いた一体が、ふと、京香の方へ顔を向けた。


 濁った眼球がこちらを捉え、頬の皮膚が引き攣れるように持ち上がる。


 笑っている。


 まるで、京香には何もできないと知っているかのように。


「――素晴らしい。」


 場違いなほど穏やかな声がした。


 いつの間にか、神崎がすぐ後ろに立っていた。


 鉄板の下で鳴り続ける音に耳を澄ませるように目を細め、それから、苦しむ男へ視線を移す。


「憑りつかれていますね。」


「……分かってるなら、少しは心配してください!」


「していますよ。ただ、それとこれとは別の話ですから。」


 まるで仕事の打ち合わせでもしているような口振りだった。


 この男は、いつもそうだ。


 話は通じる。理解も早い。

 礼を失することもなく、声を荒らげることもない。


 ――それなのに、何かが決定的に噛み合わない。


「……神崎さん。あなた、何か方法を知っているんですか。」


「そう、ですね。助けられるかもしれません。」


「本当ですか?」


「少なくとも、今の状態をどうにかする方法には、心当たりがありますが。」


 神崎はそこで、すっと目を細めた。


 にやりと、口端を歪める。


「ただし、条件があります。今後、僕が買い取ろうとするものに、京香さんは一切口を出さないこと。……あるいは。」


 端正な顔に、深い笑みが浮かぶ。


「以前からお話ししている件です。僕の助手になっていただけませんか?」


 京香は、そっと腕時計に目を落とした。


 十一時五十二分。


 昼前には行ける。たぶん。


 ――間に合うか、分からない。


「……条件を、もう少し詳しく伺えますか。」


 京香は男の手首を押さえたまま、神崎を見上げた。


「口を出さない、というのはどこまでですか。意見を述べることも含まれますか。助手の場合、期間は。契約の形式は。」


 神崎が、僅かに首を傾げた。


「京香さん。今それを聞きます?」


「大事なことですから。」


 神崎は小さく嘆息すると、一つずつ、律儀に答えていく。


 男の悲鳴が、また跳ね上がった。


 舌の先が、瞼の下へ潜り込もうとしている。

 押さえつける作業員たちが、ずるずると引きずられていく。


 京香の指先が震えた。


 やはり、間に合わない。


 このままでは、この人も葵と同じになる。


「……分かりました。」


 京香は、喉の奥から声を絞り出した。


 口に出さないというのは、絶対に承服できない。

 であれば、残された選択肢は一つしかない。


「あなたの、助手に――」


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


 画面に、短い一行が浮かんでいた。


『着いた』


 京香は、ふっと息を吐いた。

 それから、思わずほんの少しだけ笑った。


「……どうやら、どちらも、選ばなくていいようです。」


 神崎が、初めて眉を上げた。


「どういう意味です?」


「あなたの条件は、どちらもお断りします。」


 敷地の入口に、一台のタクシーが滑り込んだ。



     ◇



 タクシーの後部座席から降りてきたのは、背の高い青年だった。


 短く整えた黒髪に、薄手の上着と細身のズボン。

 容姿こそ整ってはいるものの、どこにでもいる大学生にしか見えない。


 特に急ぐ様子もなく料金を払うと、後部座席から細長い袋を引っ張り出した。


「隼斗! こっち!」


 京香が叫ぶと、青年は面倒くさそうに顔を向けた。


「……姉貴。俺、このあと県外なんだけど。」


「ごめん! 本当にまずいの!」


「……また?」


「またって言わないで!」


 須藤隼斗。

 京香より六つ年下の弟で、今は大学に通っている。


 昔から口数が少なく、表情にもあまり感情を出さない。背ばかりは随分伸びて、今では京香が見上げなければ顔が見えなかった。


 蔵へ入ってきた隼斗は、押さえつけられている作業員を見た途端、目を細めた。


 面倒くさそうだった表情が、すっと消える。


「……ああ、あれか。」


 それだけ言って、袋の紐を解いた。


 中から現れたのは、一張の弓だった。


「京香さん、あの方は?」


「弟です。」


「……弟さん?」


 神崎に短く答える間にも、隼斗は作業員たちへ「少し離れてください」と声を掛け、弓を構えていた。


 矢は番えない。


 教授も槙野も、突然現れた若者が何をしようとしているのか分からず、ただ見ていた。


 隼斗が、右手で弦を引き絞る。


 狙いは、男の背中。


 騒がしかった蔵の中で、その一角だけが、切り取られたように凪いでいた。


 弦から、指が離れた。


 カン、と高く澄んだ音が響いた。


 男の背に貼り付いていたものが、何かに弾かれたように大きく仰け反った。


 黒く乾いた身体が激しく痙攣し、頭部が不自然な方向へ捩れる。

 落ち窪んだ眼窩から濁った眼球が飛び出し、長い指が空中を掻きむしった。


 逃れようと男の肩にしがみつく。


 隼斗が、もう一度弦を鳴らした。


 その身体が、内側から握り潰されるように縮み始めた。


 肋骨がばきばきと折れ曲がり、細い手足が胴体へ無理矢理巻き込まれていく。


 黒い皮膚が崩れて灰のように散り、最後に残った口だけが一瞬大きく開いて、そのまま消えた。


 隼斗は休まず、三度目の弦を引いた。


 男の顔に取り付いていたものが、びくりと跳ねる。


 瞼の下へ潜り込みかけていた舌が引き剥がされ、細い首が異様な角度へぼきりと折れ曲がった。


 声にならない悲鳴を上げて四肢をばたつかせたそれは、次の弦音で大きく身を捩り、黒い靄となって消えた。


 男の悲鳴が、止まった。


 暴れていた身体から急に力が抜け、押さえていた同僚たちが、何が起きたのか分からない顔を見合わせる。


 男は呆然と周囲を見回し、それから恐る恐る、自分の右手を開いた。


 人差し指の爪が、根元から剥がれていた。


「……痛く、ない。」


 震える声で、男はそれだけ呟いた。


「鳴弦か……。」


 槙野が、圧倒されたように零した。


 矢を番えずに弦を鳴らし、その音で魔を祓う。

 古くは宮中でも行われた作法だった。


 京香は大きく息を吐いた。

 足元が今さらのように震え出し、恐怖も安堵も疲れも、一度に押し寄せてくる。


 鉄板の下からは、まだ、がり、がり、と音がしていた。


 隼斗は鉄板を見下ろした。


「……姉貴。これ、下にまだいるけど。」


「うん。……分かってる。」


「出てきた分は消したけど、中のは無理。」


 それから隼斗は、鉄板と、その縁に残った黒い煤のような跡を見て、少しだけ眉を上げた。


「でも、よくこれで閉じたな。」


「閉じただけよ。開けたら、また同じことになる。」


 隼斗が祓えるのは、外に出ているものだけだ。


 器の内側に閉じ込められたものには、弦音が届かない。

 それが箱であっても――人の身体であっても。


 だから京香は、呪物を一つずつ調べてきた。


 何が、どんな形で、なぜ封じられているのか。


 それを読み解き、安全に外へ引き出す方法が見つかって初めて、隼斗の弓が届く。

 だからいまだに手掛かりが見つからないまま、ただ封じて保管しているものも少なくない。


 八年前、隼斗はまだ十二歳だった。


 弓を握ったこともなかった。


 弟が弓道場に通い始めたのは、あの夏が終わってからだ。


 そして今でも、葵の中にいるものには、隼斗の弦音は届かない。


「……なるほど。そういうことでしたか。」


 背後で、感嘆したように神崎が呟いた。


「京香さんがどうしてこれほど多くの呪物を扱って無事なのか、前から不思議だったんです。見えているのに、ご自分では決して祓わない。……弟さんでしたか。」


 隼斗は神崎を一瞥しただけで、京香に顔を戻した。


「姉貴、あの人誰?」


「神崎朔弥。呪物コレクター。」


「ああ、前に話してた人か。」


「そう。私の邪魔ばっかりしてくる人。」


「手厳しいですね。」


 神崎は肩を竦め、それから京香を見た。


「最初から、受ける気はなかったわけだ。期待して損しました。」


 京香は顔を背けた。


「……最後は、本当に頷きかけましたけどね。ぎりぎりでした。」


 神崎は一瞬きょとんとした表情で京香を見遣った。

 それからまた底の見えない笑みを浮かべる。


「残念。あと少しだったのにな。」


 京香は、無言で彼を睨みつけた。



     ◇



 怪我をした作業員は、到着した救急隊に運ばれていった。


 解体工事は改めて中断となり、教授と槙野は関係者への説明に追われた。


 長谷川は青い顔で救急車を見送ると、それまで以上の勢いで神崎に頭を下げた。


「早く引き取ってください。こんなもの、早く手放さないと……。」


 怪我人まで出た。

 危険かどうかを論じる段階は、もう過ぎている。


 それなのに、結末は変わらない。


 むしろ持ち主が一刻も早く手放したがるぶん、箱は引き取ると言った者のところへ、迷いなく運ばれていく。


 必要な確認や手続きは神崎側がすべて引き受けるという話で、あっさりとまとまってしまった。


「……まだ、何も分かっていないんですよ?」


 京香は神崎に詰め寄った。


「何が封じられているのかも、どこまで危険なのかも。これは最上級の域でまずいものです。」


「ええ。ですから、これから確認します。」


 神崎は、ごく当たり前のことのように微笑んだ。


 京香は唇を噛んだ。


 彼は危険を理解していないのではない。

 理解したうえで、欲しがっているのだ。


 京香には、それがどうしても許せなかった。


「須藤君。」


 救急車を見送った教授が、京香の隣に立った。


 しばらく、教授は何も言わなかった。

 鉄板に覆われた箱を見下ろし、それから、ぽつりと尋ねた。


「……君には、何が見えていた。」


 京香は少し考えてから、答えた。


「論文には書けないものです。」


 教授はもう一度箱を見て、「そうか」とだけ言って、静かに目を伏せた。


 それ以上は、何も聞かなかった。

 聞かないでいてくれることが、今はありがたかった。


 箱の梱包は、神崎の連れてきた青年が取り仕切った。


 青年は鉄板を外そうとはしなかった。

 箱と鉄板を重ねたまま分厚い保護材で包み、その上から、黒く撚った紐を何重にも掛けていく。その手つきに、迷いはなかった。


 最後の結び目が作られていくのを、京香は少し離れた場所から見ていた。


 そして、目を見張った。


 総角――左右に輪を作り、中央で締める飾り結びだ。けれど青年は、それを左右逆に組んでいた。


 逆さ総角。

 死者の側の作法で結ぶ、封じの結び方だった。


 葬儀の場では、屏風を逆さに立て、死者の着物は左前に合わせ、湯灌の湯は水に湯を注いで作る。

 生者の世界と向きを違えることで、あちら側とこちら側を分けるのだ。


 結び目も同じだった。

 わざと逆に組んだ総角は、解くための結び目ではない。


 京香がその結び方を見たのは、ある地方の古い記録の中で、たった一度きりだった。


 最後の紐が締まった瞬間、包みの奥で続いていた引っ掻く音が、ふつりと途絶えた。


 京香は、包みと、黙々と手を動かす青年と、少し離れたところで長谷川と話している神崎とを、順に見た。


 ――どうして、神崎の使用人がこれを知っているのか。


「……姉貴。」


 振り返ると、隼斗が弓を袋にしまいながら立っていた。


「俺、もう行くけど。」


「え?」


「午後から県外って言っただろ。めいちゃん待ってるし。帰り、明々後日だから。」


「……あんた、本当にそればっかりね。二人で旅行に行く仲なんだから、さっさと告白しなさいよ。」


「それ、今関係ないだろ。」


「関係あるわよ。姉がこんな目に遭ってるっていうのに。」


「だから、来たじゃん。」


「……それは、まあ、そうだけど。」


 京香は言い淀み、小さく頭を下げた。


「ありがとう。助かった。」


「……また何かあったら呼べよ。さすがに旅行から戻ってからにしてほしいけど。」


 隼斗は肩を竦め、それから、車へ運ばれていく包みに目をやった。


「なあ、姉貴。あれ、あの人のとこに行ったら、もう触れないぞ。」


「……分かってるわよ。」


「下にまだいるやつ、ずっとあのまま閉じとけるかも分かんないし。……ま、俺はどっちでもいいけど。」


 じゃあ、と隼斗は振り返らずに手を上げ、敷地の出口へ歩いていった。


 京香は弟の背中を見送り、深々と息を吐いた。


 幼馴染である芽依以外のことは、昔から驚くほどあっさりしている。


 そのくせ京香が危ない目に遭えば必ず来るし、文句を言いながらも手を貸してくれる。

 今日だって、県外へ出掛ける前に、わざわざタクシーで駆けつけてくれたのだ。


 車の後部へ、包みが積み込まれようとしていた。


 京香は、あの箱の上に横たわっていたという骨のことを考えた。


 鉄板の裏の傷は、下から付いていた。

 最後にこの箱を閉じた人は、生きたまま、あの暗い穴の中にいたのだ。


 しかし一度は、鉄の蓋を内側から引っ掻いた。


 出ようとして。必死に。


 それでも、最期は、箱の上に戻った。


 自分の身体を蓋にして、そのまま、骨になるまで。


 気付けば、京香は歩き出していた。


「神崎さん。」


 後部座席へ乗り込もうとしていた神崎が、振り返った。


「助手の件ですが。」


 神崎が、目を瞬かせた。


「やはり、お受けします。」


 京香は、まっすぐに彼を見た。


「――ただし、条件があります。」


 神崎の目が、ゆっくりと細められる。


「条件は三つです。一つ。あの箱は、私が調べ終えるまで、絶対に開けないこと。二つ。あなたの収蔵品は、すべて私に見せること。三つ。」


 京香は、一度言葉を切った。


「人の命より、呪物を優先しないこと。」


 どこか冬の寒さを孕んだ秋の風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。


「……一つ目と二つ目は、喜んで。」


 青年の黒髪が風にさらりと揺れる。


「三つ目は、努力します。」


「努力じゃなくて、約束です。」


「では、約束します。」


 神崎はそう言って、笑みを深めた。

 京香には、その笑みの意味が読めなかった。


「理由を伺っても? あれほど嫌がっていたのに。」


 京香は、車の後部に積まれた包みを見詰めた。


「人が命を賭してまで封印を守ろうとしたものです。あなたに簡単に破らせるわけにはいかない。」


 掌をぐっと握りしめる。


「それに、あなたがこんなに危険な呪物を集めて一体何をしようとしているのか。」


 京香は、青年を睨みつけるように見詰めた。


「専門家として放っておくわけには、いきません。」


 神崎は、しばらく黙っていた。


 柔らかな微笑が、その顔から抜け落ちていた。京香が初めて見る顔だった。


「……そうですか。」


 やがて、神崎は小さく息を吐いた。


「なんにせよ、願ったり叶ったりです。」


 それから、いつもの調子に戻って言った。


「では、来週から。迎えを寄越しましょうか。」


「自分で行きます。」


「残念です。」


 ちっとも残念そうではない顔で神崎は肩を竦め、後部座席へ乗り込んだ。

 しばらくして、窓の向こうから小さく手を振る。


 京香は反射的に顔を背けた。


「……絶対、ろくなことにならないのに。」


 随分草臥れてしまったと思っていたのに、どうやらまだまだ若気の至りなるものが残っていたらしい。


 呟いた声は、山から吹き下ろす秋の風に紛れて消えた。



     ◇



 黒塗りの車が、山間の細い道を静かに下っていく。


 窓の外では、秋の山がゆっくりと夕暮れに沈み始めていた。

 色づいた葉が風に煽られ、時折フロントガラスの前を横切っていく。


 神崎朔弥は後部座席に身体を預け、窓の外を眺めていた。


 トランクの奥は静かだった。

 結び目を締めてから、あの音は一度も聞こえていない。


「……朔弥様。随分とご機嫌でいらっしゃいますね。」


 運転席の青年が、バックミラー越しに主人を見た。


「そう見える?」


「はい。ここしばらく、良いお品物が手に入らないとおっしゃっていましたので。」


「品物もいいけどね。」


 神崎は窓の外へ目を向けたまま、口元を緩めた。


「助手、受けてもらえたからさ。」


「条件を、三つも付けられておりましたが。」


「いいんだよ。彼女が手に入ったんだから。」


 それから、思い出したように喉の奥で笑った。


「今日もびっくりさせられちゃったな。」


「弟君がいらっしゃるとは、存じませんでした。」


「うん。あれも収穫だった。」


 しばらく、車内に沈黙が落ちた。


「世間はさ、あの人を八年前と比べたがるでしょう。」


 神崎は、暮れていく山の稜線を見ていた。


「確かに綺麗な子だとは思った。でも、それだけだ。」


 藁人形の一件が、最初だった。


 何か月も売り手の元へ通い、来歴と保管方法について三時間も粘っている研究者がいる。

 そう聞いて、見物がてら顔を見に行った。


 横から品物を攫った神崎を、彼女は分厚い眼鏡の奥から、射殺さんばかりの目で睨みつけてきた。


「いやー、今の方がさ、正直堪らないね。」


 今日もそうだった。


 苦しむ男を前に、触れられない手を何度も伸ばしては空を切り、それでも諦めずに鉄板へ取り付いて。


 最後には、箱の上で死んだ見知らぬ誰かのために、あれほど嫌っていた男のところへ、自分から歩いてきた。


 警戒も、嫌悪も、敵意も、隠すつもりもない表情。


 神崎は小さく息を吐くと、僅かに目を伏せた。


「本当は、もっと良い関係で始めたかったんだけどな。」


 車内に落ちたのは、やけに静かな声だった。


 青年は答えず、静かにハンドルを切った。カーブの先で、木々の影が長く伸びている。


「朔弥様。」


 しばらくして、青年が口を開いた。


「収蔵品は、すべてお見せになるお約束でしたね。」


「うん。そう約束した。」


「では――例の翁面も、お見せになるのですか。」


 神崎は、すぐには答えなかった。


 窓に映った自分の顔の向こうで、山の稜線が、最後の赤を失っていく。


「見せるよ。全部見せるって、約束したからね。」


 それから、柔らかく付け足した。


「いつまでに、とは言われてないけど。」


 バックミラーの中で、青年の目が一瞬だけ主人を見た。


「今あれを見せたら、それが目的になっちゃうでしょ。……それじゃあ、つまらない。」


 運転席の青年は、何も答えなかった。


 車は秋の山道を、静かに下っていく。


 結び目を締めてから、ずっと静かだったトランクの奥で。


 かり、と。


 小さく、何かが割れる音がした。

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