入船
じゅわと溶ける音に瞼を上げた。
鳥居の前の船着き場で、船が沈んだ。
また一人、流れ着いた。
曇り空を無理やり明るくしたような白けた空だけが視界に入っていた。手足の感覚があることを理解して反射的に起き上がった。
「おわっ」
体が左右にぐらぐら揺れて、手近にあったものを掴んだ。木製の小舟。
見覚えのない小舟に俺は乗っかっていた。今までは仰向けに寝ていたらしく、空は先ほどと同じ白だった。
船は勝手に進んでいた。船を操るためのオールはなく、船は俺の体がギリギリおさまるくらいの心もとないサイズだった。
「なんだ、これ」
わけのわからない状況に思わずつぶやく。白い霧の中を勝手に進んでいく船の上で、どうすることもできない。
思い出せる限りの記憶をたどり、体に触れる。どこにも怪我はない、ましてや欠損もない。実に平穏だった時の自分の体そのものだった。
深く息を吐く。白い霧の中だが寒さは感じず、風がないせいか現実味が沸かない。
「お?」
塗装のされていない鳥居がぼんやりと見えてきた。船が進むにつれて、鳥居が建っている所に石造りの足場があるのがわかる。神社のようなものでもあるのかと思ったが、鳥居の先は霧でよく見えなかった。
がん、と船が何かにぶつかって止まった。揺れに耐えるようにヘリを掴む。船は石造りの足場の横に停泊したような形で動かなくなった。舳先に船を止めるようなものは特に見当たらないが、船は左右に揺れることすらしなくなり、ますます不気味になった。
――じゅわ
「は!?」
泡を立てて、小舟の底が溶けだした。俺は慌てて石造りの足場へ飛び移った。小舟は底の方からまだらに泡を立てて溶けて行く。
「まじかよ」
あっけにとられながら、小舟が溶けるのを見届ける。
鳥居の先の霧が徐々に晴れていく。
行き場がなくなって、なんとなしに鳥居の額を見上げた。
『――命』
薄くかすれた文字はかろうじて最後の一字が残っている。
「なんもわかりゃしねぇ」
はぁーと息を吐き、胸元のポケットを漁った。当たり前のように取り出そうとしたものはそこになく、行き場のない手で頭をかいた。
霧が晴れた鳥居の先には、横に折れた坂道の先にお屋敷が建っている。寂しいほどではあるが草木があり、石造りの坂道を飾っている。
一応、と一礼してから鳥居をくぐり、屋敷に向かう。見えるのはどこまでも広がっていそうな水面と、白々しい空ばかりで現実味がない。
足裏に伝わる石畳みの硬い感触、心地よい気温で吹き付けはじめたそよ風だけが生きているのを感じさせてくれる。
死んだはずの俺は、不可思議な今の状況を理解することを求めていた。
病的に白い肌に、垂れ流されている黒髪、板張りの廊下にぽつんと置かれた畳の上に足を横に投げ出すように女が座っている。
御簾や壁はなく、女の後ろには中庭らしき緑ある景色が見える。
「かわいそうにな」
ぽつりと女が黒々とした瞳を陰らせもせずにつぶやいた。
「あ? なんなんだ、あんた」
苛立ちのまま声をかける。なんの抵抗もなく開いた屋敷の戸に手をかけたまま、女と周辺を見る。玄関土間の真正面に女がいて、左右には閉じられた襖、奥には縁側。見える範囲には女以外の視覚情報がない。
「私はここの主、お前は迷い人」
うっすらと色づいた唇が小さく動き、端的な答えが返ってくる。女はまっすぐに俺を見ている。
「ここはどこなんだ?」
「それはお前が知っている」
覚えのない場所に問いかけると、女は迷いもせずに冷たく言う。苛立ちがまた増える。
「知らねぇから聞いてんだよ」
「忘れたか、認めたくないか、それだけだろう」
女の態度はまったく変わらない。答えの得られない会話に苛立ちが爆発しそうだ。
「私はミコト。お前、名前を覚えているか?」
「は? さっきからバカにしてんのか?」
唐突にされた質問に反射的に睨みつけたが、女の黒い瞳が印象に残っただけだった。
名乗ろうとして、いくつかの映像が脳裏をよぎった。みな名前を呼んでいる。顔は朧気だが男も女もいて、親し気な表情をしている気がする。
「なん……どういう」
その名前が、思い出せない。呼ばれているのに聞き取れない。頭がガンガンと痛む。
「思い出せないなら、お前は迷い人に違いない。残念ながらな」
女はそういうと初めて無表情を崩し、ため息を吐いて立ち上がった。
「入ってこい。どうせ行く場所などない」
紺無地の袴がひらりと揺れて、女は縁側の方へと歩いていった。
頭の痛さと苛立ちと不安の混じった落ち着かない感覚をどうすることもできず、今は女――ミコトに従うしかないのだろうなと理解する。
「はぁ……しょうがねぇ、のか」
玄関土間に足を踏み入れて、戸を閉める。何かが変わってしまったような気が、なんとなしにした。
「この島は私の領域。だが、島の外は私の及ばぬところ。お前はここにいるしかないわけだ」
縁側を歩きながら淡々とミコトはしゃべる。
「ここから出られないってことか?」
「そういうことだ」
「あんたでも?」
ミコトの言うことは理解が出来ないことばかりで、質問がするすると出てくる。
「ああ、そうだ」
領域、外に出られない主、迷い込んだ自分、浮世離れした話にどこか他人事のように思えてくる。
「ここを使え」
ミコトがそう言って指示したのは屋敷の縁側の先、日本家屋の離れだった。
「古いが1LDKだ」
「1LDK?……そんな言葉知ってんだな」
縁側から足袋のまま飛び石に降りたミコトの言葉に思わず聞き間違えたのかと思った。
「現世の言葉くらい知ってる。無縁なわけじゃないからな」
ミコトは振り返らない。怒っているわけでもないのか、声色も変わった様子がない。
「まぁ、洋風な物はあまり置いていないが」
ミコトは離れの引き戸を開け、中が見えるように体をそらした。
中を覗くと現代的なキッチン、仕切りのない畳敷きのリビングダイニングであろう空間にポツンと置かれたちゃぶ台。キッチンの奥には洗面所、ダイニングの奥にはもう一つの和室が見える。
「リビングダイニングってか……まぁ、いいか」
テレビやソファといったものがないせいでただのくつろぎスペースにしか見えない。一人には十分すぎる広さだが、暇をつぶせるものが何もないのは困るかもしれない。
「お前の知識でも生活できるレベルの設備になっているはずだ。わからないことがあれば聞け」
「あー……確かに釜で飯炊けって言われても面倒だけど」
水甕や薪を使えと言われたら何も聞かずに生活できる気はしない。中に入って水が出て、ガス火が出ることを確かめる。もはや現代と同じガスで起こしている火かはわからないが、聞かないでおくことにした。
「今日はもう寝ろ」
「は? まだそんな時間じゃ」
ミコトの言葉に振り返れば、空が白から橙に、そして見る間に闇夜へと変わった。
「お前が来たから白かっただけだ。本来の時刻で言えばもう寝るのに相応しい」
空を見上げるミコトの顔は月明かりでより白んで見えた。
「俺が来たから、空が白かったって……どういうことだよ」
空が、時間が目の前で変わるなんてありえない、と思うがこの場所だからと言われたら納得してしまいそうで、状況に吞まれていくのが怖い。
「また明日。お前がお前であるならば」
ミコトは問いかけには答えず、母屋の屋敷へと迷いのない足取りで去って行った。
――俺が俺で、あるならば?
意味のわからない発言が多いミコトに頭はこんがらがるばかりだが、確かに感じはじめた疲れと眠気に抗うのは難しそうだ。見えなくなった後ろ姿を探すのをやめ、仮住まいの新居の戸を閉めた。




