第9話「私が私になるための脚本」
橘くんの宣戦布告は、二年C組に静かだが確実な変化をもたらした。
あれ以来、私をからかったり、無視したりする生徒はいなくなった。代わりに、遠巻きに、好奇の目で私を見る視線を感じるようになった。「あの橘くんが、あそこまで言うなんて」というわけだ。
居心地が悪いのは相変わらずだったけれど、以前のような針のむしろに座っているような息苦しさは、もうなかった。
そして何より、私自身が変わり始めていた。
『もう、逃げるのはやめよう』
橘くんが、みんなの前で私の価値を証明してくれた。今度は、私がそれに応える番だ。うつむいて、誰かの影に隠れているだけでは、彼に顔向けできない。
私は、止まっていたペンのインクが再び流れ出すように、夢中で脚本を書き進めた。
放課後の教室。私の隣には、いつも橘くんがいた。
「王女が、地球の青年に惹かれていく気持ちの変化が、すごく丁寧に書けてる。ここのモノローグ、切ないな」
「青年の方も、ただの優しい朴念仁じゃなくて、ちゃんと王女の孤独を見抜いてるのがいい。彼のこの台詞、ぐっとくる」
彼は、最高の読者であり、最高の批評家だった。私の言葉の一つ一つを丁寧に拾い上げ、時には的確な助言をくれ、そして何よりも、私の物語を信じてくれた。
一人じゃない。その事実が、私に力をくれた。
脚本が佳境に差し掛かった頃、クラスメイトたちが、おそるおそる私たちの周りに集まるようになってきた。
「ねえ、脚本、どんな感じ?」
最初に声をかけてきたのは、意外にも、クラスの男子の一人だった。
橘くんは、にっと笑って答えた。
「面白いぞ。主役の青年、お前がやったら似合うんじゃないか?」
「え、俺!? マジで!?」
その一言で、教室の空気が和んだ。それから、少しずつ、他のクラスメイトたちも、私たちの輪に加わるようになっていった。
「衣装は、こんな感じがいいんじゃない?」
「舞台装置は、俺たちに任せろよ!」
みんな、橘くんが認めた脚本に興味津々だった。そして、その脚本を夢中で書いている私の姿を見て、少しずつ、私に対する見方を変えていってくれているようだった。
山崎静は、ただの陰キャじゃない。面白い物語を創り出す、特別な才能を持った子なんだ、と。
もちろん、美咲さんたちのように、まだ私を快く思っていない生徒もいた。でも、もう気にならなかった。私には、信じてくれる仲間がいたから。
脚本の最終稿が完成したのは、文化祭の一週間前だった。
最後の行に「終」と書き込んだ時、私は今まで感じたことのない達成感に包まれた。それは、私の、私だけの物語だった。臆病で、弱くて、自分の殻に閉じこもっていた私が、初めて自分の力で生み出した、光だった。
「……できた」
隣で完成を見守ってくれていた橘くんに、私は震える声で告げた。
彼は、完成した原稿を手に取ると、一ページ一ページ、慈しむようにめくっていった。そして、最後のページを読み終えると、深く、深く、息をついた。
「……ありがとう、山崎さん」
彼は、まっすぐに私の目を見て言った。
「最高の物語を、生み出してくれて」
その言葉が、どんな賛辞よりも嬉しかった。
私は、彼に何かを返したくて、ずっと心の中にあった決意を、口にした。
「あの……橘くん。私、一つ、お願いがあるんだけど……」
「ん? 何でも言えよ」
「文化祭、当日……私、変わりたいんだ」
変わりたい。
この分厚い眼鏡も、顔を隠すための長い前髪も、もういらない。
弱い自分を守るための鎧は、もう必要ない。
私が私になるための脚本は、書き上がった。あとは、主役である私自身が、舞台に上がるだけだ。
私の決意を秘めた目に、橘くんは何かを察したようだった。彼は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、とても嬉しそうに、そして少しだけ意地悪く笑った。
「……そっか。楽しみにしてる」
彼のその笑顔に、私の心臓は、また大きく音を立てた。
文化祭まで、あと少し。
私の、新しい物語が、もうすぐ始まろうとしていた。




