第8話「きみのための宣戦布告」
嫌がらせは、日に日にエスカレートしていった。それはもう、陰口や無視といった生易しいものではなく、もっと直接的で、悪意に満ちたものに変わっていた。
私の机に、誰かがわざとジュースをこぼした。体育の授業で、着替えを隠されたこともあった。犯人はわかっている。美咲さんを中心とした、橘くんの熱心なファンたちだ。でも、私には何もできなかった。言い返せば、もっとひどい仕打ちが待っているだけだろう。
私は、再び厚い殻の中に閉じこもろうとしていた。人と目を合わせるのが怖い。教室にいるだけで、息が詰まりそうになる。脚本作りも、全く手につかなくなってしまった。
『もう、無理だ』
放課後の教室で、私は書きかけのノートを前に、ただただ俯いていた。
「やっぱり、私には書けません。ごめんなさい」
橘くんにそう言って、すべてを終わりにしよう。そう決めていた。
「山崎さん、ちょっといいかな」
ホームルームが終わった直後、担任の先生に呼ばれた。何かと思ってついていくと、彼は少し言いにくそうに口を開いた。
「その……クラスで、何か困ったことはないか? もし、何か嫌なことをされているなら、先生に……」
きっと、私の様子がおかしいことに気づいて、誰かが先生に伝えたのだろう。でも、今さらだった。
「……大丈夫です。何も、ありません」
私は力なく首を振った。先生に言ったところで、根本的な解決にはならない。それに、事を大きくしたくなかった。
私が教室に戻ると、クラスメイトたちが何事かと私を遠巻きに見ていた。その中心で、美咲さんたちが、くすくすと笑っている。
「なになにー? 山崎さん、ついに先生にチクったのー?」
「うわ、だっさー。いじめられてますって泣きついたわけ?」
嘲笑が、ナイフのように突き刺さる。もう、限界だった。
涙が、頬を伝うのがわかった。俯いて、自分の席に戻ろうとした、その時。
「――うるさいな」
地を這うような、低く、冷たい声が響いた。
教室中の空気が、一瞬で凍りつく。
声の主は、いつからそこにいたのか、教室の後ろのドアに寄りかかっていた橘くんだった。彼の顔からは、いつもの爽やかな笑顔が完全に消え失せていた。その瞳は、絶対零度の光を宿し、美咲さんたちを射抜いている。
「今、なんて言った?」
「え……た、橘、くん……?」
美咲さんたちが、怯えたように後ずさる。誰も、彼のそんな顔を見たことがなかった。
「俺が話したいから、山崎さんと話してるだけだ。何か文句あるのか?」
静かだが、有無を言わせぬ迫力があった。教室は、水を打ったように静まり返っている。
「くだらない嫉妬で、人を傷つけるのは、最低の人間がやることだ。自分のやってることが、どれだけ醜いか、鏡で見てみろよ」
彼の言葉は、容赦がなかった。美咲さんの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
橘くんは、そんな彼女たちにはもう興味がないというように、ずんずんと教室を横切って、私の前に立った。そして、クラス全員に聞こえるように、はっきりとした声で言った。
「それに、お前たちは何もわかってない。山崎さんの書く物語が、どれだけ凄いものか」
彼は、私が書きかけていた脚本のノートを手に取った。
「この脚本は、俺が読んだどんな物語よりも、面白くて、感動的だ。これを、C組の劇でやらないなんて、ありえない。絶対に、最高の舞台にしてみせる」
それは、宣戦布告だった。
私を傷つけたクラスメイトたちへの。そして、自分の殻に閉じこもろうとしていた、弱い私自身への。
彼は、私の前に跪くと、呆然としている私の顔を覗き込んだ。その瞳には、もう氷のような冷たさはなく、ただ、ひたすらに優しい光が満ちていた。
「ごめんな、山崎さん。気づくのが遅くなった。……もう、一人で抱え込まなくていいから」
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。みっともなくしゃくりあげる私を、彼はただ黙って、隣で見守ってくれていた。
「大丈夫。俺が、いるから」
彼の大きな手が、私の頭を優しく撫でた。その温かさが、凍りついていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
この日を境に、私への嫌がらせは、ぴたりと止んだ。学園の王子様を本気で怒らせた代償は、彼女たちが思っていた以上に大きかったらしい。
そして、クラスの空気も、少しずつ変わり始めていた。橘くんが、あれほどまでに庇い、絶賛する私の脚本とは、一体どんなものなんだろう。そんな興味と、少しの畏敬の念が、クラスメイトたちの間に芽生え始めていた。
私の戦いは、終わった。
ううん、違う。
ここから、始まるんだ。
橘くんがくれた、勇気を胸に。私は、初めて、前を向いて戦うことを決意した。彼の隣で、胸を張って立つために。




