第7話「優しい声と、刺さる棘」
脚本を書く、という未知の挑戦は、想像以上に困難な作業だった。
放課後の教室に一人残り、真っ白なノートを前に、私は頭を抱えていた。物語を「読む」のと「創る」のとでは、天と地ほどの差がある。何から書けばいいのか、どうすれば登場人物が生き生きと動き出すのか、全くわからなかった。
『私なんかに、やっぱり無理だったんだ……』
弱音が心を支配し始めた、その時。
がちゃり、と教室のドアが開いた。
「よっ。進んでるか?」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、ジャージ姿の橘くんだった。部活の練習が終わった帰りらしい。
「た、橘くん……」
「やっぱり、まだいた。なんか苦戦してる顔してたから、昼休み」
彼はそう言うと、当たり前のように私の前の席に腰掛けた。彼の周りからは、汗と、爽やかな石鹸の香りがした。
「ぜ、全然、書けなくて……。何を書けばいいのか……」
情けない声で言うと、橘くんは「だよな。最初はそんなもんだ」と優しく笑った。
「じゃあさ、まずは、山崎さんが一番書きたい物語って、どんな話?」
「え……?」
「恋愛ものじゃなくてもいい。ファンタジーでも、ミステリーでも。山崎さんが、これを書きたい!って、心の底から思えるやつ」
彼の言葉に、はっとした。私は、クラスのみんなが期待するような、ありきたりな恋愛ものを書かなければいけない、と無意識に思い込んでいた。
「……私が、書きたい、話……」
ぽつりとつぶやく。頭の中に浮かんできたのは、第三図書準備室で何度も読んだ、古いSF小説の数々だった。遠い星、孤独な旅人、失われた古代文明の謎……。
「……星の、話が、好きです」
「星の話、いいじゃん」
橘くんは、身を乗り出して、目を輝かせた。
「例えば?」
「ずっと昔、高度な文明を持った星があって……でも、その星はもう滅びてしまって……。その星の最後の生き残りの王女様が、たった一人、宇宙を旅してるんです。自分の故郷みたいな、美しい星を探して……」
我ながら、なんて拙い設定だろうと思う。でも、橘くんは、真剣な顔で私の話に耳を傾けてくれていた。
「それで?」
「それで、ある時、地球っていう、水と緑の豊かな星を見つけるんです。でも、その星の人間たちは、互いに争ってばかりで、星を汚してばっかりで……。王女様は、がっかりするんだけど、でも、その星で、一人の、孤独な天文学者の青年に出会うんです」
話しているうちに、どんどんイメージが湧き上がってくる。それは、今まで私の頭の中にだけあった、誰にも話したことのない、秘密の物語だった。
「その青年だけが、毎晩、空を見上げて、遠い星に想いを馳せていた。王女様は、彼の中に、故郷の星の面影を見るんだ。……みたいな……」
そこまで話して、私は恥ずかしくなって俯いた。
「……だめ、かな。こんな話。文化祭の劇っぽくないし……」
沈黙が、重くのしかかる。
やがて、橘くんが、ぽつりと言った。
「……最高じゃん」
「え?」
顔を上げると、彼は見たこともないくらい、優しい顔で微笑んでいた。
「すごくいい。切なくて、ロマンチックで。俺は、その物語の続きが、すごく見たい」
その一言が、私の背中を強く押してくれた。
その日から、私たちの二人三脚の脚本作りが始まった。放課後の教室で、時にはメッセージアプリでやり取りしながら、私たちは物語の世界を構築していった。
橘くんは、私が生み出した拙いアイディアを、いつも「面白い」と言ってくれた。そして、「ここの台詞は、もっとこうしたら、キャラクターが立つんじゃないか?」とか、「このシーンに、こんな伏線を仕込むのはどうだ?」とか、的確なアドバイスをくれた。
彼の存在は、本当に心強かった。
しかし、私たちの距離が縮まるにつれて、別の問題が持ち上がってきた。
「ねえ、最近、山崎さんと橘くん、仲良くない?」
「なんか、放課後も二人で教室に残ってるらしいよ」
「陰キャのくせに、橘くんに色目使ってるとか、ありえないんだけど」
クラスの女子たちの、ひそひそ話が耳に入るようになった。その声は、日に日に大きくなり、棘の鋭さを増していった。
ある日、私の下駄箱に、ゴミが詰め込まれていた。
またある日には、教科書に「身の程を知れ」と落書きがされていた。
陰湿で、幼稚な嫌がらせ。わかっている。でも、それは確実に、私の心を蝕んでいった。
『やっぱり、私と橘くんが、一緒にいちゃいけないんだ』
彼は、太陽。私は、日陰の石ころ。交われば、彼の光まで曇らせてしまう。
その日の放課後、脚本作りをしている時も、私はうわの空だった。橘くんの言葉が、右から左へと抜けていく。
「……山崎さん? 聞いてるか?」
心配そうな彼の声に、はっと我に返る。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「どうしたんだよ、今日。元気ないぞ」
彼の優しい声が、逆に辛かった。この優しさが、私を苦しめている元凶なのに。
「……なんでも、ないです」
嘘をついた。本当は、全部打ち明けて、助けてほしかった。でも、そんなことをしたら、彼を巻き込んでしまう。
「そうか? ……なら、いいけど。無理すんなよ」
彼はそれ以上、何も聞いてこなかった。その気遣いが、また胸に痛かった。
私は、決心した。これ以上、彼に迷惑はかけられない。
この脚本を書き上げたら、もう、彼とは関わるのをやめよう。
月イチの、あの秘密の約束も、終わりにしなくちゃいけない。
優しい声と、刺さる棘。天国と地獄が、私の周りで渦を巻いていた。私は、その中心で、ただ一人、立ち尽くすことしかできなかった。




