第5話「教室の遠い星、隣の席の熱」
第三図書準備室での秘密の時間が濃密になるほどに、学校での日常は、奇妙なコントラストを描き始めた。
教室の隅、私の席から見える橘慶一郎くんは、やはり手の届かない遠い星のようだった。休み時間になれば、彼の机の周りには自然と人だかりができる。男子も女子も、誰もが彼の言葉に笑い、彼の存在に惹きつけられている。
私は、その光景をいつも遠くから眺めているだけ。
時々、ふと、彼と目が合うことがある。ほんの一瞬。彼はすぐに、何事もなかったかのように友達との会話に戻り、私も慌てて視線を机の上の本に落とす。心臓が、どくんと大きく跳ねる。
『今、目が合った……』
それだけのことで、一日中、心がふわふわと浮ついた。
誰も知らない。あの完璧な王子様が、放課後の古い部屋で、私と二人きりでマニアックなSF小説について熱く語り合っているなんて。誰も知らない。彼が時々見せる、少し寂しそうな横顔を、私だけが知っているなんて。
その優越感と、もどかしさが、私の中でぐるぐると渦巻いていた。
隣の席の女子たちが、きゃあきゃあと騒いでいた。
「ねえ、見た? 今日の橘くんの部活の試合! めっちゃかっこよかったよね!」
「わかるー! 最後のシュートとか、神がかってた!」
「ほんと、何やっても完璧だよね。付き合いたいなー」
そんな会話が聞こえてくるたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。
『橘くんは、みんなのものなんだ』
そう自分に言い聞かせる。私と彼は、住む世界が違う。あの図書準備室の中だけで交わる、特別な関係。それ以上を望むなんて、おこがましい。
でも、人間というのは欲張りな生き物だ。一度温かい場所を知ってしまうと、もっと、と願ってしまう。
月に一度じゃ足りない。もっと、彼のことを知りたい。もっと、彼と話したい。
そんな気持ちが、日に日に大きくなっていった。
ある日の昼休み、私は図書室で本を返却していた。静かなカウンターで手続きを終えて振り返ると、入り口の近くで、橘くんが女子生徒に囲まれているのが見えた。
「橘くん、ここの問題、教えてくれない?」
「悪いけど、こっちもお願い!」
彼は嫌な顔一つせず、いつもの爽やかな笑顔で「いいよ。順番な」と応じている。その完璧な優しさが、少しだけ、私には寂しく見えた。
『また、王子様を演じてる』
彼は、誰にでも優しい。私だけが特別なんじゃない。そう思うと、また胸がずきりと痛んだ。
踵を返してその場を去ろうとした、その時だった。
「あ、山崎さん」
不意に、名前を呼ばれた。
驚いて振り返ると、橘くんが人垣の中から、まっすぐに私を見ていた。
「え……?」
周りの女子生徒たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。「誰、あの子」という囁き声が聞こえてくる。居たたまれなくて、すぐにでも逃げ出したかった。
「この間、探してた本、入ってたよ。新刊コーナーのところ」
彼は、にこりと笑って、それだけを言った。
周りの女子たちは「なんだ、図書委員の話か」と興味を失ったように、また彼との会話に戻っていく。
私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼が言った本は、先月の二十五日に、私が「今度読んでみたい」と話していた、少しマイナーな歴史ミステリーのことだ。彼は、覚えていてくれた。そして、教室では決して交わらない私に、こうして、周りに怪しまれない完璧な口実で、話しかけてくれた。
心臓が、うるさいくらいに鳴り響く。
私は小さくうなずいて、早口で「あ、ありがとう」とだけ言うと、逃げるように図書室を後にした。
廊下を歩きながら、燃えるように熱い頬を両手でおさえる。
『ばか、私の、ばか』
彼の優しさは、みんなに向けられたものなんかじゃない。私だけに向けられた、特別な合図が、確かにある。それを信じても、いいのかもしれない。
教室の遠い星だと思っていた彼が、ほんの少しだけ、すぐ隣にいるような気がした。隣の席から伝わってくる、確かな熱のように。
この日を境に、私の欲張りな願いは、もっともっと大きく膨らんでいった。
次の二十五日が、待ち遠しい。早く、彼に会って、この気持ちを、確かめたい。いや、確かめるのが、怖い。
相反する感情に揺れながら、私の高校二年生の秋は、ゆっくりと深まっていこうとしていた。




