第4話「仮面の下の、本当のきみ」
私たちの「月イチ、午後四時の約束」は、それから毎月、律儀に繰り返された。
三度目、四度目と回を重ねるうちに、私はこの秘密の会合にすっかり慣れてしまっていた。旧校舎の廊下を歩く足取りは、最初のような緊張はなく、むしろ遠足に向かう子供のような浮き立つ気分だった。
ドアを開けると、いつもそこに橘くんがいる。それが当たり前の光景になっていた。
「よっ、山崎さん。今日の貢ぎ物はこちらです」
ある日、橘くんはそう言って、コンビニの袋からシュークリームを二つ取り出した。
「えっ、こ、貢ぎ物って……」
「いいからいいから。ここの常連同士、仲良くしようぜってことで」
彼はそう言って、一つを私に差し出す。甘いカスタードの香りがした。
「あ、ありがとうございます……」
おずおずと受け取ると、彼は満足そうにうなずいた。
私たちはシュークリームを頬張りながら、いつものようにとりとめのない話をした。彼の持ってきた最新刊の感想、私が見つけた古書店の掘り出し物の自慢。彼の言葉遣いは、すっかり私に対しては「オタクモード」が標準になっていた。
「……橘くんって、いつもどうしてそんなに、完璧なの?」
クリームで口の周りを汚しながら、ふと、ずっと疑問だったことを口にしていた。自分でもびっくりするくらい、自然な問いかけだった。
橘くんはきょとんとした顔で私を見ると、シュークリームを飲み込んでから、ふっと自嘲するように笑った。
「完璧、ね。……演じてるだけだよ」
「え……?」
「期待されちゃったからさ、いつの間にか。小学生の時、たまたまリレーの選手に選ばれて、たまたま勉強もできて、そしたら周りが『橘くんはすごい』『何でもできる』って。親も、先生も。そのうち、その期待に応えられないのが怖くなった。完璧な橘慶一郎じゃないと、誰も見てくれないんじゃないかって」
彼は窓の外、夕焼けに染まるグラウンドを見ながら、静かに語った。そこにいるのは、学園の王子様じゃない。重たい鎧をまとって、少しだけ疲れた顔をした、一人の男の子だった。
「だから、本当の自分は隠すしかなくて。ラノベ読んでるなんて言えないし、休みの日に一日中ゲームしてるなんて、口が裂けても言えない。……ここは、唯一、その鎧を脱げる場所なんだ」
彼の言葉が、すとんと胸に落ちてきた。
私も同じだ。分厚い眼鏡と長い前髪は、臆病な自分を守るための鎧。人と話すのが怖い、注目されるのが怖い。だから、自分から壁を作って、その中に閉じこもっていた。
「私も……同じ、かも」
ぽつりと、私の口から言葉が漏れた。
「え?」
「私も、演じてる……というか、隠してる。本当は、もっと色んなこと、話したいのに、怖いから。静かで、目立たない山崎静を、演じてる。その方が、楽だから……」
橘くんは、じっと私の目を見ていた。眼鏡のレンズ越しに、彼の真剣な眼差しが突き刺さる。
「……でも、山崎さんは、すごいよ」
「え……? 私が……?」
何かの聞き間違いかと思った。この私が、すごい?
「うん。だって、自分の『好き』を、ちゃんと持ってる。俺みたいに、周りの目を気にして隠したりしないで、まっすぐ深く、好きでいられる。山崎さんの話を聞いてると、いつもそう思う。その物語が、本当に好きなんだなって伝わってくる。それって、すごく強いことだよ」
彼の言葉は、じんわりと、乾いた心に染み込んでいくようだった。
今まで、自分の趣味を褒められたことなんて一度もなかった。むしろ、少し変わった子だと思われているんじゃないかと、いつもびくびくしていた。
なのに、橘くんは、私の核心を、私が一番大切にしている部分を、まっすぐに見つめて、「すごい」と言ってくれた。
「そ、そんなこと……ないです……」
顔が熱くて、俯くしかできない。でも、心の中では、嬉しさで花が咲いたように、ぱっと明るい気持ちが広がっていた。
「それに」と、橘くんは続けた。
「山崎さんの感性、鋭いと思う。俺が気づかなかったような、物語の細かい伏線とか、登場人物の心情とか、的確に読み取るだろ。正直、いつも感心してる」
「……!」
もう、言葉が出なかった。ただ、胸がいっぱいで、泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。
彼は、ちゃんと見ていてくれた。完璧な仮面の下で、ちゃんと、私のことを見て、私の話を聞いてくれていたんだ。
この人は、優しい。
不器用で、本当は少し寂しがり屋で、でも、すごく優しい人だ。
その日を境に、私たちの関係はまた少しだけ変わった気がする。ただの「秘密の友達」じゃない。互いの弱さを、ほんの少しだけ見せ合える、特別な存在。
私は、橘くんの仮面の下にある不器用な優しさを知り、彼もまた、私の分厚い眼鏡の奥にある、小さなこだわりを見つけてくれた。
友情が、少しずつ違う感情に変わっていく。その予感を、私はこの時、確かに感じていた。古書の匂いに混じって、甘酸っぱい何かが、この部屋に満ち始めた気がした。




