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地味な陰キャの私。秘密の図書室で、完璧な王子様の”裏の顔”を知ってしまいました  作者: 久遠翠


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第3話「月イチ、午後四時の約束」

 次の二十五日までの日々は、驚くほど穏やかに、そして、どこかそわそわとした期待を胸に過ぎていった。

 教室での橘慶一郎くんは、相変わらず完璧な王子様だった。女子たちの黄色い声援を浴びながら、男子たちと爽やかに笑い合う。その輪の中にいる彼は、まるで別世界の住人のようで、廊下ですれ違っても、私たちは互いに視線を交わすことすらなかった。それでいい。それが、私たちの暗黙のルールなのだ。

 でも、私の中では何かが確実に変わっていた。

 数学の授業中、難しい問題をすらすらと解いていく彼の背中を見ながら、『この人も、反物質エンジンの理論とかに詳しかったりするのかな』なんて想像してみたり。体育の授業で、華麗にボールをさばく彼を見て、『レトロゲームのコントローラーさばきも、きっと華麗なんだろうな』と思ったり。

 彼の「完璧」な姿を見るたびに、あの日の饒舌な彼を思い出して、一人でくすりと笑ってしまう。秘密を共有しているという事実が、灰色だった私の日常に、ほんのりと色をつけてくれていた。

 そして、待ちに待った二十五日。

 最後の一分が永遠のように感じられた終業のチャイムが鳴ると同時に、私は誰よりも早く教室を飛び出した。逸る気持ちをおさえながら旧校舎へ向かう。心臓が、期待でどきどきと鳴っていた。

『第三図書準備室』

 古びたドアの前に立つ。深呼吸を一つして、ゆっくりとドアを開けた。

「……お、来た」

 そこには、先月のあの日とまったく同じように、窓際の机で本を読んでいた橘くんがいた。彼は私の姿を認めると、読んでいた本を閉じて、にかっと笑った。完璧な王子様の笑顔とは違う、少しだけ気の抜けた、あの日の笑顔だ。

「こんにちは……橘くん」

「おう。先月ぶり」

 自然な挨拶に、胸が温かくなる。私の居場所が、ここにはちゃんとあった。

「ご、ごめんなさい、待たせた……?」

「いや、全然。俺も今来たとこ。というか、山崎さん、先月読み終わらなかったろ? 『アルカディア』」

 彼はそう言って、机の上の深緑色の本を指さした。

「は、はい。途中まで……」

「だよな。悪い、俺が喋りすぎた。今日はまず、山崎さんが読みなよ。俺はこっち読んでるから」

 橘くんが示したのは、彼が持参したらしい、真新しい表紙の文庫本だった。最近話題の、異世界転生もののライトノベルだ。

「あ……でも……」

 せっかく会えたのに、別々の本を読むなんて。少しだけ、寂しい気がした。私の気持ちを察したのか、橘くんは苦笑しながら言った。

「大丈夫だって。別に、無言が気まずいとか、そういう仲じゃないだろ、俺たち」

『そういう仲』

 その言葉が、私の心の中で特別な響きを持った。そうだ。私たちは、ただのクラスメイトじゃない。秘密を共有する、特別な仲間なんだ。

「……うん」

 私は小さくうなずくと、彼の向かい側の椅子にそっと腰掛けた。

 静かな時間が流れる。ページをめくる音だけが、部屋の中に響いていた。窓から差し込む西日が、彼の髪をきらきらと金色に染めている。時々、彼が読んでるラノベの面白いシーンなのか、くすっと笑う声が聞こえてきて、そのたびに私の口元も緩んだ。

 気まずさなんて、どこにもなかった。同じ空間で、同じ時間を共有し、それぞれが好きな物語の世界に没頭する。それは、信じられないくらい心地の良い時間だった。

 一時間ほど経っただろうか。私が『アルカディア』の最後のページを読み終え、深い感動のため息をついたのと、橘くんが「読了」と小さくつぶやいたのは、ほぼ同時だった。

「……読み終わった?」

 彼が、優しい声で尋ねる。

「はい。……やっぱり、最高でした」

「だろ?」

 橘くんは満足そうにうなずくと、読んでいたラノベをぱたんと閉じた。

「で、どうだった? 今月のベストセラーは」

「うん、面白かったよ。設定はよくある感じだけど、主人公のキャラが良い。特に、ピンチの時に言う決め台詞がさ、『俺の辞書に不可能の文字はないが、撤退の二文字はちゃんと載ってる』ってやつ。潔くて好きだわ」

「ふふっ。確かに、彼らしいですね」

 自然な会話。先月のような、互いの熱量をぶつけ合う興奮した時間とは違う。もっと穏やかで、もっと優しい時間が、私たちの間に流れていた。

「山崎さんは、最近何か読んだ?」

「えっと……先週出た、新人賞のSF短編集を。その中の、『クロノスの置き土産』っていう話が、すごく……」

「ああ! あれか! 俺も読んだよ! 時間遡行を繰り返すたびに、代償として自分の記憶が一つずつ消えていくって話だろ? 切ないよな、あれ」

「はい……! 恋人を救うために、恋人との思い出を失っていくっていうのが……」

 そこからまた、私たちの時間は加速した。SF短編集の話から、好きなアニメの話へ。最近見た映画の話から、おすすめのゲーム音楽の話へ。話題は尽きることなく、次から次へと溢れ出してくる。私の拙い言葉を、橘くんはいつも楽しそうに聞いてくれたし、彼の話はいつも、私の知らない世界を見せてくれた。

 ここは、魔法の部屋だ。この部屋の中にいる間だけ、私は人見知りで臆病な山崎静ではなく、ただの物語を愛する一人の人間になれる。橘くんも、完璧な王子様ではなく、ただのオタクな男の子に戻れる。

 午後四時に始まって、空が夕焼けに染まるまでの、ほんの短い時間。

 月に一度だけの、私たちの秘密の約束。

 それが、何よりも大切で、かけがえのない宝物になっていくのを、私は確かに感じていた。この温かい時間が、ずっと続けばいいのに。心の底から、そう願っていた。

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