第10話「さよなら、透明だった私」
文化祭前日。学校中が、最後の準備で浮き足立っていた。私たちのクラスも、衣装の最終チェックや、大道具の設置に追われていた。
私は、その喧騒から少しだけ離れて、一人、決戦の地へと向かっていた。学校の近くにある、コンタクトレンズショップだ。
ガラスのドアを押すと、清潔で、少しだけ薬品の匂いがする空間が広がっていた。受付の女性に、どもりながらも、コンタクトレンズを初めて作りたいと伝えた。
視力検査、レンズの種類の選択、そして、装着の練習。
指先に乗せた、頼りないほど薄くて柔らかなレンズを、自分の目に入れる。その行為は、想像を絶するほど怖かった。何度も涙目になり、くじけそうになった。
『どうして、こんなことをしてるんだろう』
眼鏡のままでいいじゃないか。今までだって、そうやって生きてきたじゃないか。弱い心が、囁きかける。
でも、そのたびに、橘くんの顔が思い浮かんだ。
『楽しみにしてる』
そう言って笑った、彼の顔。私を信じて、待っていてくれる人がいる。その事実が、私の指先に、もう一度力をくれた。
何度も、何度も失敗して、ようやくレンズが瞳に収まった瞬間。
「……わ……」
思わず、声が漏れた。
視界が、違う。
今まで、分厚い眼鏡のレンズとフレームの枠越しに見ていた世界が、何の障害もなく、クリアに、鮮やかに、目の前に広がっていた。世界って、こんなに広くて、明るかったんだ。
店を出て、夕暮れの道を歩く。ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、私は足を止めた。
そこにいたのは、私の知らない「私」だった。
眼鏡がないだけで、こんなにも顔の印象が変わるなんて。今まで、前髪と眼鏡で隠れていたせいで、自分でもよく知らなかった自分の輪郭が、そこにはあった。
でも、まだ何かが足りない。
私は、そのままドラッグストアに駆け込むと、小さな眉毛用のハサミを買った。
家に帰り、自分の部屋の鏡の前に立つ。
心臓が、ばくばくとうるさい。
ぎゅっと目をつむり、意を決して、ハサミを前髪に当てた。
ざく、ざく。
頼りない音がして、長年、私の顔を覆っていた黒いカーテンが、はらりはらりと洗面台に落ちていく。
目を開けるのが怖かった。でも、開けなければ、前に進めない。
ゆっくりと瞼を上げる。
鏡に映っていたのは――。
「……だれ、これ……」
今まで隠れていた、眉と、目が、現れていた。自分でも、少しだけ、整っているのかもしれない、と思った。眼鏡がなくなったことで、少し大きく見えるようになった目は、不安げに揺れている。
これが、本当の私。
山崎静。
今までずっと、透明な存在だと思っていた私。
さよなら。さよなら、透明だった私。
明日から、私は、新しい私になるんだ。
そして、文化祭当日。
朝、クラスのドアを開けた瞬間、教室中のすべての音が、ぴたりと止んだ。
昨日まで一緒に準備をしていたクラスメイトたちが、まるで化石のように固まって、私を凝視している。
「……え?」
「うそ……だろ……」
「……誰?」
そんな囁き声が、あちこちから聞こえてくる。
最初に我に返ったのは、クラスの男子だった。
「や、山崎……さん? え、本物……?」
彼は、幽霊でも見るような目で、私と、私の席の名札を交互に見ていた。
私は、どうしていいかわからなくて、ただその場で立ち尽くす。みんなの視線が、痛い。怖い。やっぱり、やめておけばよかったのかもしれない。
後悔が胸をよぎった、その時。
「――よく、似合ってる」
背後から、優しい声がした。
振り返ると、そこにいたのは、劇の衣装である、天文学者の青年の服を着た橘くんだった。彼は、いつものように爽やかに、でも、ほんの少しだけ頬を赤らめて、微笑んでいた。
その瞳には、驚きと、それから、今まで見たこともないような、熱っぽい光が宿っていた。
「すごく、綺麗だ」
彼のその一言で、私を包んでいた不安な空気が、ふっと消え去った。
クラス中が、再びざわめき出す。今度は、さっきまでの戸惑いとは違う、賞賛と興奮の混じったざわめきだ。
「やばい! 山崎さん、超絶美人じゃん!」
「眼鏡で隠れてただけかよ! どんだけだよ!」
「うちのクラスに、こんな秘密兵器がいたなんて!」
美咲さんでさえ、あんぐりと口を開けて、信じられないという顔で私を見ていた。
私は、燃えるように熱い顔を、俯かせることしかできなかった。
でも、不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
橘くんが、私の隣に来て、そっと耳打ちする。
「言ったろ? 絶対に、最高の舞台になるって。……主役は、君だよ、山崎さん」
彼の言葉に、私は顔を上げた。
そして、初めて、大勢の前で、心の底から、笑うことができた。
私の、新しい物語が、今、まさに幕を開けようとしていた。




