リセットボタンが見つからない
息が浅い。
深く吸ったつもりなのに、胸の奥まで届かない。
肺の手前で、空気が立ち止まっている。
時計の秒針がやけにうるさい。
この部屋は静かなはずなのに、音だけが生き残っている。
ここに座っている。
床に足をつけて、背もたれに寄りかかっている。
それなのに、少しだけ浮いている感じがする。
——ああ、間違ってる。
考えるより先に、身体がそう言った。
理由はない。
正確には、理由はいくらでも思いつく。でも、どれも今じゃない。
ここにいること自体が、違う。
説明できないのに、否定しようがない。
いつから?
どこで?
何を選び間違えた?
そんな問いが浮かぶけれど、
答えを探す気にはなれない。
今さら正解を知ったところで、
ここが正しくなるわけじゃない。
それでも、
どうしても頭の奥で、何かが蠢く。
もしかしたら私は、
ずっと前に、ひとつ選択肢をミスったまま
ここまで来てしまった人間なのかもしれない。
子供の頃。
クラスで浮いていた子がいた。
からかった。
正確に言えば、主犯じゃない。
笑っただけだ。
止めもしなかった。
中学生になってから、
その子が自殺したらしい、と噂で聞いた。
本当かどうかは知らない。
確かめてもいない。
ただ、その名前を聞いた瞬間、
胸の奥に小さな石が落ちた。
——あれが起点だったのか?
違う気がする。
重すぎる。
それだけで人生が歪むほど、
私は善人でも、極悪人でもない。
じゃあ、あの夜か。
父の不倫が発覚して、
家の空気が壊れた夜。
低い声で言い合う両親。
どちらの顔も、もう私を見ていなかった。
最後に言われた言葉を、
私は今でもはっきり覚えている。
「引き取れない」
どちらからも、だった。
あの瞬間、
世界から一歩、外に押し出された気がした。
——あれか?
それも、違う。
悲しかった。
でも理解はできた。
大人の事情というやつだ。
思い当たる場面はいくつもある。
どれも、少しずつ、ずれている。
決定打にはならない。
もしかしたら、
たった一度の大きなミスなんて、なかったのかもしれない。
小さな違和感を、
「まあいいか」でやり過ごしてきただけ。
その積み重ねが、
今のこの地点を作った。
それでも。
原因が何であれ、
ここにいる感覚が間違っている事実は、変わらない。
私は過去を裁きたいわけじゃない。
許したいわけでも、
罰したいわけでもない。
ただ、
この地点から、離れたい。
リセットボタンのことを考える。
どこにあるのかは、わからない。
派手な赤じゃない気がする。
もっと地味で、押しにくくて、
うっかり見逃すような場所にある。
押したら、何が消えるのか。
積み上げたものか。
関係か。
昨日までの私か。
わからない。
でも、押さない限り、
ここに居続ける気がする。
それが一番、耐えられない。
逃げなきゃ、と思う。
どこへかは不明。
行き先も、理由もない。
ただ、
「ここではない」という事実だけが、
やけに正しい。
立ち上がる。
膝が小さく鳴る。
年齢のせいか、
今まで動かなかったせいか。
カーテンを少し開ける。
外はいつも通りだ。
世界は何も困っていない。
それでいい。
世界が平気な顔をしているうちに、
私はずれる。
玄関で靴を履く。
左右を間違えて、履き直す。
それすら、今日は許せる。
鍵を回して、
一度だけ深呼吸する。
理由は置いていく。
反省も分析も、全部あとだ。
ここではないどこかへ。
それがどこでもなくても、
少なくとも、ここではない。
ドアが閉まる音がして、
リセットボタンは、まだ押していない。
でも、
指はもう、そこに触れている。




