貴い人々の話
シラバルは二本目の葉巻に火をつけた。苛立ちながら待つのは、猟犬たちによる朗報だけだ。
バーツは犬の声に応えて犬笛を吹いた。犬たちは間もなく彼らの前に姿を現した。バーツはウェインが咥えている口輪を受け取り、狼狽する犬たちの様子からすべてを察した。
「……サー・シラバル、これは王家の高貴なお方のものです」
シラバルは葉巻をブーツの底でもみ消し、唾を吐いた。
「そんな犬など見ていない。我々が知ったことか。それに……お召し物がこの有り様で、その貴い犬が生きているとは思えんな」
しかし彼の脳裡にはしっかりと、人の言葉を繰る不気味な白い犬の姿が浮かび上がっていた。
「そもそも、馬で八日半かかるこの森に犬一匹だけで到着した? あり得ん」
「しかし、犬たちに方便は通用しない。これでは仕事ができません」
「ならば犬の手を借りるのはここまでだ」
シラバルは長銃に実弾をこめると、山刀を抜いた。バーツは驚いて雇い主を仰いだ。
「サー、何をなさるおつもりですか」
「わしは領地こそ持つが、所詮は成金貴族の子だ。真に貴族と認められるには、上流貴族の後ろ盾を得て推薦されるより他に道はない……しくじればわしの代で爵位は取り上げられるだろう」
シラバルは胸にしまっていたロケットを取り出し、蓋をはじいた。椅子にかけた女性の膝に幼い子供、両隣に可憐な娘たち、その後ろにもうすぐ成人する息子の姿が写っている。町娘の妻には両親がなく、財もない。すべてがシラバルの両肩にかかっている。
シラバルは山刀を握りしめ、単身、森の奥へと向かった。その背を呆然と見送ったバーツは、コスモスとウェインに指示した。
「後を追って手助けしておくれ。さあ」
二匹は低く伏せ、静かにシラバルの後を追った。
ジャックとクラウドは森の端にいた。
「お前、ここで倒れてたよな。どうやって俺たちに気づかれずに森に入った?」
「ここを通って」
言って、クラウドは岩陰の抜け穴を指した。
「どうやってできた穴かはわかりませんが、ちょうど犬一頭が通れる大きさで、下まで続いています。君は細身だから苦労しないでしょう」
「へええ、こいつは知らなかったな……」
穴を覗きこんでいるジャックに、突然クラウドが飛びかかった。
「わっ 何だ」
――ズガゥウン!!
鉄が吼えた。その残響だけがこだまして、あたりの音が消える。ジャックのそばにクラウドが倒れた。背中と腹から血を流し、青い目から一瞬光が消える。
「クラウド!」
「見つけたぞ、獣め!」
木立からシラバルが姿を現した。どす黒い殺意をジャックとクラウドに向け、シラバルは長銃を構えた。目を覚まして立ち上がろうとしたクラウドに、追い打ちで発砲する。
「やめろ!」
跳んでも間に合わない。クラウドは胸を真っ赤に染めて、再び凶弾に倒れた。
「どうだ、やめてほしければこっちへ来い! 来るんだ!」
シラバルはしきりに顎でしゃくりながら麻酔弾をこめ直し、ジャックにねらいを定めた。
「お前は生け捕りだ」
ジャックはクラウドを置いて、木立の影へ逃げようとした。しかし行く手の茂みから二頭の猟犬が飛び出し、不意をついてジャックに体当たりした。
「ぐっ」
突き飛ばされたジャックは、体勢を崩した一瞬で後肢に噛みつかれた。
「ギャン!」
ジャックがいくら暴れても、赤犬は食らいついたまま放さない。赤犬をかばうため、ふさふさした犬がジャックの喉に噛みついた。
「ギャッ」
圧し殺した声が出るだけで、遠吠えもできない。ジャックは四肢をばたつかせたが、二頭がかりで抑えこまれては抵抗にもならなかった。
(だめだ。さっきレギアに力を使ったせいで、余力がない……)
もがくジャックに、シラバルは狙いを定めた。
「おとなしくしていれば、お前は晴れて王宮暮らしだ。何をそんなに嫌がる」
その言葉にジャックの耳が跳ねた。
(それだ!)
ジャックは急に抵抗をやめ、おとなしくなった。シラバルは少し首を傾げたが、ジャックのうなじに麻酔弾を撃ちこんだ。
「グルルゥ」
ジャックは唸り、そのうち少し痙攣して眠ってしまった。
「ジャック」
クラウドはジャックのもとへ這いずる。シラバルは虫の息の白い犬をにらんだ。革ひもでジャックとクラウドの口、四肢を縛ると、発煙筒に火をつけ、バーツや兵士たちに信号を送る。
「化け物め。お前も連れ帰ってやるから、王族への口添えを頼んだぞ」
嘲笑い、シラバルはクラウドに目隠しをした。
やがて数名の兵士とバーツとが、革袋を持って駆けつけた。
「仕留めたぞ。オオカミ一匹と王家の犬だ。犬のほうは意識がある、気をつけろよ」
兵士はジャックとクラウドをそれぞれ革袋に入れ、一人が背負い、一人が支えながら森を行軍した。心なしか、森の木々や小動物たちが道を開けているような気がした。
シラバルらは一部の兵を残して村から引きあげ、麓の町へ身を寄せる住民たちは戻さないよう、西の崖を採掘している騎士団に申し送りをした。
「ドレイク殿。我らは先に王都へ戻るが、くれぐれも森の管理を任せますぞ」
「祝いの詞を送りましょう。シラバル卿には我が君の覚えもめでたく、ご一族の益々の繁栄も安泰でございましょう」
胸に手をあて、騎士は長身を曲げて深々と礼をした。シラバルは北叟笑み、礼を返して馬に乗った。
荷車に揺られ、クラウドは革袋のなかで目を覚ました。まだ目隠しをされたままで視界は暗い。
(ジャック……?)
真っ先にジャックのことを思った。クラウドは革袋を揺らし、外気のにおいを頼りに袋の口から首だけ出した。振り回した鼻づらには、ジャックが噛み切ったはずの口輪が嵌められている。袋から這い出そうにも、足が思うように利かない。四肢はしっかりと縛られているようだ。
「ジャック」
口と鼻が利くことが唯一の救いだった。外気に混じったジャックのにおいと、鮮明な血のにおい。クラウドは懸命に頭を擦りつけて、なんとか目隠しだけは外した。そうして振り仰いだジャックはのんびりと寝そべり、その背の向こうに頑強な檻が見えた。ジャックは横目にクラウドをとらえ、目を細めた。
――よう、大丈夫か?
そう言いたげだった。ジャックの口には革ひもが巻きついている。オオカミはその遠吠えで仲間を呼び、強欲な人間以外のあらゆる獣の魂を支配し使役する、そんな伝承を信じてか。単に、猟犬に深傷を負わせたオオカミの牙を封じるためか。
クラウドはジャックににじり寄り、強くなる生臭さの所以を見て叫んだ。
「ジャック! 足が」
ジャックの後肢は、右側が踵から欠けていた。
「まさか、あの時」
(猟犬に噛まれた足だ)
クラウドは体をうねらせ、縛られた四肢を引きずってジャックのそばへ行った。怪我をしたジャックではなく、クラウドのほうが苦痛に顔をゆがめる。きつく縛られて血は止まっているが傷口はひどいものだった。噛み切られている。
目を伏せてクラウドは嘆いた。
(私には傷を癒すことも、縛られている口を自由にすることもできない)
怪物フェンリルの魂の器といえ、クラウドはオオカミではない。彼らのもつ特別な力の何一つも、クラウドという犬はもたない。
ジャックは穏やかな表情で、静かな呼吸をくり返している。
「おい、高貴なお方が袋から出てるぞ」
横から、兵士のおののく声がした。反対側で併走している兵士が応える。
「その口輪はオオカミじゃなきゃ壊せないって話だ。切れたところはただの革ひもで補ってあるが、足もオオカミの口も縛ってある。外れやしないさ」
「でも心臓に悪い。あんなのを見せられた後じゃ……オオカミだって生け捕りじゃなけりゃ意味がないし」
耳をそばだてていたクラウドは血の気が引くのを感じた。
なぜ、自分だけ革ひもから口輪に取り換えられているのだろう。なぜ、生け捕りにしたいジャックの足を、猟犬が噛み切る必要があったのだろう。なぜ、ジャックの血のにおいで腹をすかしている自分がいるのだろう。なぜ、血の残り香が自分の鼻腔にただようのだろう。
冷えきった体をわななかせ、クラウドはジャックから離れようともがいた。しかし動きはぎこちなく、少しも進まない。
震える白い背中に、温かい毛並みが触れた。
(ジャック、どうして)
なんでもない、と言うように、ジャックはクラウドに背中を預けて寝息をたてはじめた。
何もできないまま、クラウドは流れていく景色を見送っていた。ひどく疲れてはいたが、とても眠る気にはなれなかった。
兵団は主要な町ごとに休憩し、ジャックとクラウドにも食事が与えられた。とはいえ、革ひもや口輪の隙間から流しこむ味気のない挽肉だが、二頭はそれぞれ、同じようにして与えられた食事のことを思い返していた。
一日歩き通して大きな街に立ち寄った際、ジャックにはきちんとした治療がなされ、革ひもがすべて外れ、代わりに口輪がつけられた。ようやく足と口が自由になったジャックは、檻に帰るなり得意げに言った。
「これで王都まで運んでもらえる。食事と医療に個室つき、快適な旅だな!」
人間の暮らしをよく知るジャックは、治療もおとなしく受けいれ、傷口はきれいに縫われていた。軽く頭を振って、ジャックは寄り目で口輪を眺めた。
「窮屈でも口が利けるだけ良いよな」
座って、残った左後肢で口輪を掻こうとしてよろける。
「ジャック、こっちに。私に寄りかかってください」
ジャックは三つ足でひょこひょこ歩き、遠慮なくクラウドの背中に尻をぶつけた。体重を預けて、口輪のベルトが当たっている顔を掻く。
「悪いな。ところで、王都についてからの計画はどうする?」
クラウドはためらいながら口にした。
「ジャック、その足は……」
「まあ、不便じゃないって言や嘘になるな。馴れるまで背中貸してくれよ」
ジャックは倒れるように、思いきりクラウドを頼って伏せた。クラウドは暗灰色の首に頭を寄せた。頭を垂れ、急所であるうなじをジャックにさらす。
「私が、君にそんな仕打ちを……どうしてこんなに酷いことを君に」
「混乱してたんだろ。ま、さすがに大丈夫とは言えねえけど……」
次に彼の口から出たのは大きなあくびだった。ジャックはクラウドの首に顎を乗せ、白い背中にもたれかかった。クラウドは戸惑いながら尋ねた。
「恐くはないのですか、私が」
するとジャックは笑った。
「俺はいつでもお前を殺せるんだぜ? それに」
「殺してもらっちゃ困るなァ」
突然、第三の声がした。ジャックの毛並みが一気に逆立つ。声の主は荷物のかたわらに伏せて、上品に前肢をそろえていた。その姿の異様さは禍々しく、白灰色の毛並みが絶望すら体現しているようだった。
クラウドは眉間にシワを寄せた。
「いつのまに」
ジャックは卵を抱く鳥のように、クラウドの頭の上から動かない。唸りの混じる声で不気味な犬に問うた。
「お前は」
森の中で、最初にジャックを襲った猟犬だ。
「アッシュだ。王都までよろしくな」
アッシュは歪な牙の並ぶ口をあけて笑った。寒気がする、それは死の気配に似ていた。
「あんたらのおかげで俺は戦力外通告だ。見張りの仕事はもらえたけどな……さすがのオオカミも、鉄を曲げることはできないだろ?」
不気味な同伴者とともに、ジャックとクラウドは着々と王都に近づいていた。
隊列の先頭を行くシラバルに、荷馬車の近辺を警護する兵士が追いついて何事か告げた。
「ふん……気味の悪い話だ。あの獣を森が離すまいとしているのだろう」
ジャックを乗せた荷馬車を追うように、森の方角から草花が一直線に生えのびているのだという。
「オオカミに箔がついて良い土産話になる」
シラバルは異様な現象をむしろ喜び、声高に笑った。
王城のそば近く、選ばれた上流貴族のみが居住を許される【銀杯の区画】にモルゲンシュタイン辺境伯ウィーズルの「居城」はあった。絢爛豪華に尽きるそのたたずまいは、古い血によって貴ばれる王侯貴族らに「金の城」と嫌味を言わせるほどだった。
夕刻がせまるなか、ウィーズルはすでに夕餉をすませ、暖炉の前でぬくぬくとワインを傾けていた。春先とはいえまだ冷えこむ季節、彼のまとう毛皮は日によって色や形を変える。
(私の猟犬はよく働いているようだ)
北叟笑むウィーズルには、誰にも話していない長大な計画があった。
(国外に目が行っているいまこそ、我が闘争の炎を放つ時……この私こそがすべてを手に入れるのだ)




