猟犬の話
ロブローは北端の窪地を抜けて、崖まで追い立てられていた。ロブローを追いつめたグラヴィは堂々として、少しもオオカミを恐れていない。
「お互い、体が大きいと隠れることもできずに苦労するな」
「気をつかわなくていいぜ」
「わしは熊も狩った犬だ。降参したほうが身のためだと思うが」
「奇遇だな。俺もグリズリーと呼ばれたオオカミだぜ」
両者は同時に飛び出した。重量級の衝突。ロブローとグラヴィの力は互角で、そのうちもみ合いになり、二匹は地べたを転げた。
ロブローは首をひねり、グラヴィの首に噛みついた。しかしグラヴィは怯まず、ロブローの喉を前肢で踏みつけた。いったん牙が離れ、再び噛みつく。今度はグラヴィも噛みついた。
転げながら、ロブローはにおいの変わり目に注意していた。
(こんな崖っぷちじゃ、そのうち落っこちて……)
二匹の背後には切り立つ崖が待ち構え、遥か下に小さく街並みが見える。落ちれば、ロブローとてただではすまない。
(風がおし上げてくるところが、においの変わったところが……)
しかし攻防は五分間にもおよび、組んずほぐれつする間に、とうとう二匹は断崖絶壁を転がり落ちていった。
(森が怒りに満ちている。レギアが怒っている)
ティーダはコスモスを振り切ろうと南へ走ったが、別のにおいが前方にあった。
(この血のにおい、もしかして私が追い払った……)
そのうち、横の茂みからもガサガサと駆け寄る音がたつ。ティーダはすっかり犬の気配に囲まれ、立ち往生した。そこへ、茂みを掻きわけて小さな犬が飛び出してきた。
「うへっへへ、いたいた! ここだぜ!」
興奮して虫のように跳びはねる犬は、ヘルピンシャーのドーイ。けたたましい鳴き声に呼ばれて、コスモスがティーダに追いついた。けがをした犬のにおいも近づいてくる。
「ドーイ、アッシュが来るまで逃がさないで」
「わかってるわかってる」
ティーダは迫りくる煙のにおいにむせながら尋ねた。
「どうして森を……私たちの世界を壊すの?」
コスモスが険しい表情で答えた。
「私たちはオオカミを狩るように命令された。犬にとっては主人の命令だけが絶対よ」
彼女が言い終えた直後、ティーダの背後にアッシュが現れた。オオカミ狩りの犬は、獲物を前に不吉な笑みを浮かべる。
「ドーイ、ここはアッシュと私が。あなたはリーダーを探しに行って」
「はいよっ」
ドーイはあっというまに見えなくなった。
リーダー・ウェインのにおいを探す途中で、ドーイはグラヴィのにおいを見つけた。そちらをたどっていくと、においは崖に消えた。地面には激しく争った痕跡があった。
「うひゃーっ、こっから落ちたかな? んじゃもー死んだナ」
油断すれば吸いこまれそうな絶壁を覗きこんだドーイは、這い上がってくる影を見つけた。
「聞こえたぞ、チビ助め」
「グラヴィ! だって無理もないぜ、この高さだ」
ドーイは小さな体で跳ね回った。グラヴィは崖をふり返る。
「あの狼も生きてはいまい。さあ、リーダーに合流しなければ」
森を進んだ二匹は、まずコスモスに合流した。
「あれっ、こっちに来たのかコスモス。首尾は?」
「アッシュが深傷を負わせたけど、逃げられた。私はあなたたちを呼び戻しに」
アッシュが獲物を仕留めたところへは、ウェインが合流した。
「アッシュ! 傷を負わせるなと言ったはずだ。生け捕りだぞ」
「加減しようと思ったんだ……けど意外に楽しめてさァ……」
生きているのか怪しい状態のオオカミが、アッシュの足下で体を丸めていた。元の毛並みの色すら判別しがたい有り様で、足の先が細かく痙攣している。
「やはりお前は俺と組ませるべきだった」
「そう怒るなよ。オオカミってやつは化け物だ。これくらいじゃ死なないさ」
アッシュが笑う。その声を聞いた小動物たちは、隠れ家で震えあがった。
「死なないだと? お前が相手では望み薄だ」
バセンジーとディンゴのミックスであるウェインは、名高い猟犬だった。ミックスであることはスキルのひとつであり、良い血統を受け継いだ者はエリートと呼ばれた。ウェインはエリートのなかでも頭一つ抜けていた。
ウェインの属す猟犬チームは高級な血統の犬ばかりが集まっていたが、誰もが彼をリーダーとして認め、尊敬した。グラヴィはコンテストのトロフィーを山と持っているが、自慢話でウェインと張り合おうとしたことはない。
あれは二年前の秋だった。
なじみ深いチームに、アッシュという犬が加わった。ボルゾイだと聞かされていたが、ごわごわした使い古しの雑巾に似た犬だった。アッシュはサルーキのように毛足は短く、チャイニーズクレステットドッグのような飾り毛があった。血統書付のはずだが、どう見てもミックスのような見た目をしていた。
だが、求められるのは見目の良さではなく猟犬としての腕だ。見た目が恐ろしくて、チームメイトの犬たちは誰一匹としてアッシュに気安くはしないが……
アッシュは控えめに言っても天性のカリスマだった。ウェインは、自らのカリスマ性など経験の数に裏打ちされただけの、誰でも目指せるレベルだとアッシュを羨んだ。そのアッシュがあっさりと服従を示したとき、ウェインは自分自身に強い嫌悪感を覚えた。
今でも、あの時の感覚をはっきりと思い出せる。
「アッシュ、このチームのリーダーは俺だ。主人はバーツ。勝手なことをしてもらうと皆が困る」
「わかったよ」
アッシュはウェインに逆らわず、しかし反省している風もなかった。
「わー、いたいた! リーダぁー!」
「ドーイ。グラヴィと、コスモスも一緒か」
「あっ ひどい」
コスモスは顔をしかめた。
「これじゃ、もう……命令は生け捕りだったのに」
「落ちこむな、コスモス。わしの背中にのせてバーツのところへ連れて行ってみよう」
グラヴィが近づこうとした刹那、黒い影が木立から飛びかかった。グレートデーンの巨体を難なく吹き飛ばし、影はアッシュの間近に降り立つ。
背中の毛が総毛立った漆黒のオオカミが、白刃の牙をのぞかせてアッシュに唸った。
ドーイは飛び上がった。
「うわああっ オオカミだあ!」
「それを狩りに来たんだろ?」
反対に、アッシュは不吉な笑みを浮かべた。
「こいつ、あの時のカラス野郎だな」
ウェインはチームに指示する。
「ドーイ、グラヴィの体についたにおいのオオカミを、グラヴィと探せ」
「はいよ!」
「リーダー、気をつけてな!」
「コスモスはもう一匹のオオカミを探して俺に報せてくれ」
「わかった」
猟犬は散りぢりになり、その場にはウェインとアッシュ、傷だらけのティーダ、そして修羅と化したレギアが残った。
「貴様ら一匹たりとも生かしてはおかぬ」
不気味な声で呪詛を吐いたレギアに対し、アッシュは笑っていた。
「おいおい、この血のにおい……何人噛み殺した?」
ウェインは顔をしかめた。
「火付け役の兵士たちか……」
レギアは飲みこんでいた飾り羽を吐き出した。それを見たウェインの顔色が変わる。
「貴様、俺たちの主人をどうした!」
千尋の谷のように深いしわを鼻面に刻んで、レギアは吐き捨てた。
「貴様らこそ、ティーダに何をした」
レギアはアッシュに飛びかかった。お互いの牙を避けながら、二頭は目にも留まらぬ速さで攻防をくり広げる。
「ガウウッ」
垂涎をひいてレギアがアッシュの後肢に食いついた。負けじと、アッシュはレギアの前肢を噛む。血が滲み、骨が砕けても、お互いに放さない。ばたばたと転げ回って、二頭は次に互いの首を狙いはじめた。
その凄まじい争いに加わることは諦め、ウェインはティーダを運びだそうとした。
「そのお嬢ちゃんは、俺の背中に乗っけてくれよ」
ティーダの腹の下に潜ろうとしたウェインは、顔を上げると同時に後ろへ跳びすさった。熊のように大きなオオカミはティーダを担ぎ、レギアに退くようにうながした。
レギアもアッシュも血を流していた。アッシュは足下が覚束ないありさまで、追ってはこられまいと踏んだレギアは、きびすを返してロブローを追った。
「逃げられたな」
ウェインはよたよたしているアッシュを支えた。
「リーダー、追わなくていいのか?」
「俺たちの任務はオオカミを生け捕りにすること。難しい場合はサポートだ。順調に行っている。あとは、湖の捕獲チームが何とかするはずだった」
ウェインは足下の、レギアが吐いた羽を見つめた。
「バーツに何かあった時、チームメイトがケガをした時は村に引き返す命令だ。湖の兵士たちも望み薄だろう……戻るぞ、アッシュ」
「……はいよ、リーダー」
世界が回る。回りながら通り過ぎていく。どうやってここまで来たのかも覚えていない。
「……寒い」
「ティーダ!」
「ロブロー、あなたの背中ね」
ロブローの声に気が抜けたのか、ティーダは気を失った。呼吸は落ちついているが、出血量が多い。間に合わせの草の包帯もとれかかっている。
レギアは数歩遅れて、ティーダの血の痕を消しながら歩いた。
「大丈夫だ、ティーダ。レギアと俺がついてるからな」
湖は血の海だった。鎧をつけた人間が十数人、ぴくりとも動かずに転がっている。
「これだけ臭ければ、俺たちのにおいもまぎれるかもな」
ロブローはなかば呆れて言った。
湖の洞窟にティーダを寝かせると、ロブローは綿を布状にしたものへ水をふくませ、ティーダの傷を丁寧に洗った。殺菌作用のある薬草の汁でさらに傷口をきれいにしてから、痛み止めになる葉をすり潰して傷口に塗りこむ。
「血は止まったぜ。首の噛み傷が特にひでえが、牙の入りが浅かった。しっかり眠りゃ明日には目を覚ますだろう」
洞窟の入り口で見張り番をしているレギアは、安堵したように尾を揺らした。
「レギア、お前の傷も見せろ。骨が変な風にくっつく前にな。あいつらいったん引き上げたんだ、まだ追ってきやしねえ」
レギアは渋々、ロブローのそばへ来た。
「お前の能力は認めるが、俺はどうにもその『手』が好きになれん」
「だけどよ、さすが器用だろ?」
ロブローのわき腹からは、半透明の人間のような手が生えている。その手が器用に薬草をすり潰し、添え木と包帯を扱った。
「それに昔話じゃ、人間の姿形はカミサマの光から生まれた、ヨーセーだかセーレーだかの姿のまねごとって言うじゃねえか。存外、人間も俺たちと近いものなのかもな」
レギアは不機嫌に鼻を鳴らした。
「我々オオカミはレグナムブレスの影から生まれた。光の眷属とは相容れん」
「あの犬のこと、どう思う?」
ロブローは目を伏して問うたが、レギアは顔をしかめただけで答えなかった。
森がまた静寂に包まれると、ジャックはクラウドに背を示した。
「はぐれ者でも、さすがにあいつらが心配だ。レギアの力にも限度ってもんがある」
クラウドはジャックの背におおい被さりながら呟いた。
「ジャック、皆さんの元を離れたのは失策だったかもしれません」
「え?」
「急ぎましょう」
湖へと疾走するジャックの背で、クラウドの透きとおる水面が揺らいだ。




