暗い深い森の話
鬱蒼と生い茂る草木の屋根から、わずかに差しこむ木漏れ日が獣道に降る。その道を行く者の姿を、見てはならない。
椚、橅、榧、橡、水楢、樫、樅。枝をめぐらせ葉を広げ、大木はその下で命を育む。深緑の森レヴァンネンダール。千年の森とも呼ばれ、レグナムブレスの神話の舞台と言い伝えられている。
広大な荒野のかた隅に、標高千米ほど、円柱状の岩山がそびえている。その上に、九千平米の森が広がっていた。
原始的な森に身を投じれば、まるで全身で呼吸しているかのような清々しい気分を味わうことができる。その指先にも草木のかおりを感じることだろう。
ただし、レヴァンネンダールは獣や虫のほかは踏み入ってはならぬ禁域。
森から二百米下ったところにある小さな村の人々は、神聖なる森の獣たちを脅かさないよう暮らしていた。
木々の合間に小鳥がさえずり、小川では銀の鱗が跳ね、エニシダの陰に小さな花々が咲みこぼれる。森は騒がしくも華やいでいた。
春だ。
幹を伝う木漏れ日が、下生えのなかを縦横無尽にはしる背中を照らす。
――小さな村の人々は幼子によく教える。その獣の姿を、決して見てはならないと。
レヴァンネンダールの森の外れに、枝葉の天井がぽっかりと吹き抜ける窪地があった。中心にそびえた巨木は立ち枯れ、幹だけを残す。その根はうねり盛りあがり、今にも亡霊となって歩きだしそうに見えた。
根の下には、掘っただけの簡素な巣穴があった。入り口に栓をしている暗灰色の背中は小春日を受けて輝く。季節のうつろいに無関心なまま、彼は前肢につっぷした顔をたまに上げては、大口を開けてあくびをした。
「クァー」
生えそろった鋭い牙が、カチンと音をたててかみ合う。惰眠をむさぼろうとした彼のもとへ、軽快な足音が近づいてきた。
「ジャック! もう春よ。冬眠ごっこはおしまいにして。とっくにアカメドリが朝を告げたのに、お寝坊さんね」
燦々と降りそそぐ声に、ジャックは丸めた背中をさらに丸めて、耳だけ起こした。声の主は窪地を駆けおり、艶やかな鼻でジャックの背中をつついた。
「いつ起きてくるのかしら。夏になったら? それとも秋?」
ティーダは明るく笑った。亜麻色の毛並みに光が乱反射して、その笑顔がより輝いて見える。
「オオカミは団体行動が基本よ」
「だから、観念してこの森に居すわってるだろ。朝は弱いんだ」
「みんな話したがっているわ。顔を見せてよ」
「尋問はこりごりだ」
ジャックは流れ者だ。レヴァンネンダールの長、レギアに崖まで追いつめられ、外界について問いただされたことは苦い思い出だ。レギアの眼光は心まで射貫くようで、生きた心地がしなかった。
(そもそも、外にはあまり良い思い出がない)
まだ丸まっている背中に、ティーダは太陽のような声で語りかける。
「この先ずっと、すてきな一等地の根っこに引きこもるつもり? ねえジャック、春よ。野ウサギも跳んでるわ。狩りの腕がなまっていないか、ちょっと出かけてみましょうよ」
ジャックをその気にさせようと、ティーダは辛抱づよく誘いつづけた。ティーダが諦めそうにないとわかると、ようやく暗灰色の背中が持ちあがった。
洞から這い出たジャックは、眠たげな目を細める。痩せた毛並みはティーダに見劣りして、よけいにみすぼらしい。
「おはよう、寝坊すけさん!」
「俺はさ、低血圧なんだよ」
恨みがましくうったえるジャックをしり目に、ティーダはもう窪地から駆けあがっていくところだった。
艶めく亜麻色にところどころ黒い斑がさす、美しいティーダ。彼女に恋をしない生き物はいない。柔らかな身のこなし、はっきりした顔立ちと声、飾らず、驕らない。すべてに対して、彼女は平等に降りそそぐ太陽の光のようだった。
「ティーダには逆らえないな」
憧れの背中を追って、ジャックはよろよろと窪地の斜面を登った。
――……ぱーん。
不意に、空を貫く音がこだました。
「何かしら」
ティーダは体を強ばらせ、下生えの陰に伏せた。ならって伏せながら、ジャックは鼻面にしわを寄せてうなった。
「人間だ」
「人間? どうして、人間が森に」
――ぱーん。
音は近づいている。
「ティーダ、すぐレギアに報せてくれ。人間が武器を持って入ってきた」
「ブキって」
「獲物を殺すための道具だ。音がしてつぶてが飛び出す。当たりどころが悪ければ死ぬ。やつらがこれ以上近づくと危険だ、早く」
――ズガーン
ジャックとティーダの耳が跳ねた。近い。無遠慮に下生えを踏みわける足音が耳に届いた。
「ジャック、あなたはどうするの」
「俺はここで見張ってる、行け!」
ティーダはうろたえつつ、走り去った。
――オオカミは神の末裔。その姿を見ることすら畏れ多く、何人たりとも千年の森を侵してはならない。
だが、ジャックは知っている。古めかしい教えを守っているのは、すぐ外にある村の人々くらいのもの。オオカミなど外の世界では一介の獣。トロフィーの一つにすぎない、ということを。
ジャックは逸る鼓動をおさえて耳をそばだてた。
頭上を群れる鳥の影が過ぎ、リスが騒ぎたてた。地ネズミも縞フクロウも、そわそわと小声で鳴き交わしている。キジが叫んだ。
「アカメドリが死んだ! もう時を告げない!」
朝、昼、晩と決まった時間に鳴くアカメドリは、冬であれば白地に赤い斑の美しい鳥だ。ただし肉は固く少なく、春先、羽はぼろぼろになっている。
(手当たりしだいか。狩りでなければ、やつらの狙いは何だ?)
ジャックは下生えに身を隠しながら、侵入者が近づいてくるのを待った。
やがて姿を現した無法者は、白いキャンプ帽のつばを持ち上げ、ミドルコートについた落ち葉をはらった。猟銃を構えて、腰には山刀をさしている。
「ふん、バーツのやつめ。犬どもをきちんと働かせているのだろうな」
男は吐き捨てて空をにらんだ。すると折りよく、緑の煙が打ち上がった。
「見つけたか!」
男は山刀をぬき、絡みつく草葉を切り刻んで森の中心部へと進んでいった。
(そっちにはティーダがいる)
ジャックは目を光らせ、男の後をつけた。
ティーダは見知らぬ獣に追われていた。四つ足で走る大小とりどりの獣たちは、吠えながらティーダとの距離をつめていく。遠くから、掠れた甲高い音が響いてくる。獣たちは執念深くティーダを追った。ティーダは木を駆け上がり、縦横無尽にめぐる枝の上を風下にむかって逃げた。
(よかった、木は登れないみたい)
追っ手がいないことを確かめてから、ティーダはジャックと別れたあたりを目指した。
「このままじゃレギアのところまで戻れない……ジャックはどうしたかしら」
嗅ぎなれないにおいが急速に近づいてくる。
『何かくる』『何かくる』
地ネズミは怯えながら逃げていく。ジャックは男の行く手をにらんだ。粗暴な男の向こうに、羽根つき帽子の年老いた人間が現れた。毛の色も体格もばらばらな犬たちが、老人の前に整列して姿勢を正している。
「バーツ、オオカミはどうした」
「申し訳ない、サー・シラバル。見失ったようです。まだ追わせていますが」
「どれ、また追い立ててやるか」
シラバルは猟銃に弾をこめ、斜め上にむかって無造作に発砲した。
――ガアアーン
鼓膜を揺らす大きな音に、ジャックは頭を振った。その耳がエニシダの葉を打つわずかな音を聞きつけて、細身の黒い犬が興奮気味に吠えた。
「あそこだ! なんかいるぞ!」
白地に赤ぶちのふわふわした犬が、勢いよくジャックに向かって走った。
「グラヴィ、私が追い出したら捕まえて!」
その後に、がっしりした大きな犬が続く。
「よしきた、コスモス」
コスモスが下生えに飛びこむと、黒い影が上に跳ねた。抑えつけようとグラヴィが飛びかかったが、その正体は身内の犬だった。
「俺だよお!」
「なんだ、ドーイ! 回り込んだんじゃなかったのか」
最初にジャックに気がついたドーイは、たしかにジャックの背後に回り込んでいた。だが、ジャックは影にとけるように消えてしまった。
シラバルは戸惑う犬たちに一瞥をくれた。
「どうした、取り逃がしたのか」
「すぐ追わせます」
バーツは銀色の筒を吹いた。猟犬たちはドーイを先頭に、茂みの向こうへ走っていった。
「ドーイ、においは覚えたんでしょうね」
「バッチリだよ! コスモス」
「うまくいけば、ウェインたちと挟み撃ちにできるかもしれんな」
草や細い枝が猟犬たちにぶつかって震える。ジャックは後ろを気にしながら、ジグザグに走りまわった。
(三対一じゃ分が悪いが、一頭ずつ離せれば……)
その時、ジャックの鼻によく知った匂いが届いた。
「ティーダ! どうして」
「ああジャック、よかった……妙な獣に追いかけられて、私」
ジャックはティーダを枝の上に急かした。
「俺も追われてる。レギアには会えなかったのか」
「あいつらを案内するようなものだったから」
ミズナラの枝に潜む二頭は、藪を抜けてきた三頭の犬を見下ろした。
「においはこの辺だぜ」
「また木を登られたのではかなわんぞ」
「アッシュなら木を登れるかしら……ひとまずドーイはここにいて。グラヴィは私と来て。ウェインたちを探しに行くわよ」
「よし」
猟犬はジャックの狙いどおり、一頭だけになった。ジャックは暗灰色の背中をゆっくりと持ち上げる。ティーダは顔をしかめた。
「仕留めるつもり?」
「あいつ、鼻は利くが目はそこまで良くない。体も小さいし、俺でもやれる」
「でも、そんなことをしたら群れが黙ってないでしょう」
「さあな、あいつらは犬だ。人間に飼われている。人間の命令がなけりゃ勝手な動きはしないさ」
「犬……それじゃ、後ろには人間がいて私たちを脅かしているのね。どうして」
「特別なのは森の外にある村の連中だけで、外の世界はそんなもんだよ」
ジャックはひらりと枝から跳んだ。
「ギャン ギャン」
ドーイはジャックに気づくと、けたたましく鳴きわめいた。奇襲はかわされたが、ジャックは着地するなりドーイに飛びかかった。
「ギャン」
ドーイはジャックに踏みつけにされながら、バタバタと手足を振り回して暴れた。うねる体をとりおさえ、ひと思いに首へ噛みつこうとした時。茂みを割って、白灰色の獣がジャックに飛びかかった。
「うっ」
痩せた獣は、大きな体躯と強靱な筋力でオオカミの体をはね飛ばした。一瞬たりともジャックから目を離さず、それは不気味な声で言った。
「オオカミ。見つけたな、ドーイ」
「ひええ、アッシュ」
ドーイは、助けられて喜んでいるようには見えなかった。痩せた獣に怯え、短い尻尾を足の間にはさみこんで震えている。
異様な風体の獣にジャックが問いかけた。
「お前は、何だ」
アッシュは目をぎらぎら光らせて、長い鼻面に不気味な影をおとした。
「俺は、オオカミを狩るための犬さ」
うねった白灰色の毛並みを揺らし、アッシュはジャックに跳びかかった。互いの首を狙って転げる二頭を前に、ドーイは威勢をとり戻し、落ちつきなく飛び跳ねて叫んだ。
「よっしゃアッシュ! ぶっ殺せ! やっちまえ! うひゃはは!」
興奮するドーイの鳴き声にまぎれて、樹上からティーダが踊り出た。ティーダはアッシュの背中に飛びかかり、長い首のつけ根に食いついた。
「ガウッ」
暴れるアッシュの下からジャックが這い出すと、ティーダはアッシュを離して踵を返した。
「ジャック! 早く!」
「助かったぜティーダ」
二頭のオオカミは木立のなかに消えていく。
「ああ、行っちまうぜ! アッシュ!」
「追え! ドーイ!」
食い殺されかねない剣幕のアッシュに怯えながら、ドーイは弾かれたように走り出した。
「遅いな」
シラバルは葉巻をブーツの底でもみ消した。
「深追いは危険です。犬たちを呼び戻しても?」
「猟犬の使い手は君だ、バーツ。君の判断に任せる」
シラバルはしかめ面をしたまま言った。
バーツが犬笛を吹くと、人間には聞きとれない音がするどく飛んでいき、方々から下生えを掻きわけて犬が戻ってきた。
野性味溢れる赤毛の犬を先頭に、猟犬は一列に並んだ。最後にゆらゆらと体を揺らして現れたアッシュは、首の後ろを赤く染めていた。
「おお、オオカミと組み合ったのか。お前、またウェインと離れて単独行動をしただろう。一匹でオオカミに挑んではいけないとあれほど言ったのに」
バーツはアッシュの傷の具合を確かめ、救急箱から消毒液を引っぱり出して血を拭った。
「血のにおいをさせる犬は使えんだろう。どうする、その犬が一番オオカミに有効だという話だったが?」
「チームで追いこめば、ウェインもグラヴィも充分に仕留められます」
「足止めさえできれば、わしが直々に撃ってやってもいいがな」
シラバルは銃把で地面を小突いた。彼の弾薬ケースには空砲と、クマ用の麻酔弾だけが入っている。
「体勢を立て直さねばならん。戻るぞ、バーツ」
犬が追ってこないことを確かめて、ジャックとティーダは森の中心部を目指した。オオカミの毛並みは下生えにとけこみ、草木を揺らす風のように二頭は走った。
「さて、怒り心頭のレギアに殺されなきゃいいんだが」
「ジャック、先に行って。私なんだか村のことが気になるの」
「あまり近づきすぎるなよ、人間の武器は遠くにも届くんだ」
「ええ、気をつける」
ティーダは途中で別れた。
ジャックはナツメの茂る沼のほとりに到着したが、そこに仲間の姿はなかった。
「レギア、ロブロー」
呼んでみても返事はない。
春の陽射しを受け、小さな花々が風に揺れている。拍子抜けするほど、ここはのどかなままだ。
ジャックはしばらく、ぐるぐると歩きまわったが、においも気配もない。銃声はここにも届いていたはずだが、森の長はどこで何をしているのだろう。
「……ァォー……」
その時、遠く、誰かの呼び声が聞こえた。ジャックは耳をぴんと立てて声を追う。仲間の声ではない。
「ァォー……ォー……」
誰かを呼んでいる。
ジャックは抗えなかった。声のする方へ向き直り、走り出した。




