かげろうの町の話
焼けるような太陽の光が差す、季節はうつろい夏がやってきた。
砂埃をたてて、喉のかわいた獣が二匹、とぼとぼと歩いている。とくにジャックの暗い毛並みは熱をよく吸った。じりじりと熱され、そのうち焦げたにおいがしそうだった。
舌を出し、言葉を交わす元気もなく、獣たちは蜃気楼のように遠ざかる峡谷を目指す。西の谷を越えれば、またぐっと森に近づける。
ジャックは片耳をぱたりと振った。
「フェルを連れてなくて良かったよな? 真っ先に干物になっちまう」
「私たちも遅かれ早かれですよ」
後ろからクラウドの返事があることを確認して、ジャックは三本足でよろけながら砂丘を越えた。あたりはちょっとした砂漠になっている。大神と人が戦う以前は、この大陸には緑が生い茂っていたというが、見る影もない。
頭上をハゲワシが舞っている気がして、ジャックはまた耳を振った。
「馬車でこんな所通らなかったよな……」
「でも、森には近づいているでしょう?」
あたりを警戒するジャックの隣に、クラウドがべったりと伏した。
「何してんだ、余計に暑いだろ」
「ええ、だけど、もう」
「おいおい、俺に迷惑をかけたくないんじゃなかったのか」
ぜえぜえと喘ぐクラウドを背負って、ジャックは砂に埋もれながら砂丘を下った。せめて日陰を探さなければ、と周囲を見渡すと、こつ然と町が現れた。この際、蜃気楼でもかまわない。ジャックはよろけながら砂地を進んだ。
白木の柵を越えると、そこにはひなびた町がたしかにあった。
息切れするジャックを見かけた男が引き返していく。一騒動あってももう逃げる体力はない。ジャックは軒の影にクラウドを降ろし、そばに伏せた。すると男が器を持って戻ってきた。
「どうしたんだい。大丈夫か」
男は銀の目をしていた。象牙城の地下に囚われている灰色の人々と同じ目だ。
「魔法使いか」
「おや、オオカミ様でしたか。そちらはマーナガルムの一族かな」
男は一礼して、水で満ちた器をさしだした。
「砂丘を越えていらしたのならお疲れでしょう。私の家で休んでいかれてはどうですか」
ジャックはグル、と喉を鳴らした。男は両手を挙げた。
「ご安心を。ここは只人の手を逃れた魔法使いの集落です。あなたがたを害する者はいませんよ」
ジャックが立ち上がると、男はクラウドを抱えて歩きだした。男の小さな家は粗末な教会のそばだった。掃き掃除をしていた女が手をとめ、男の抱えている白い犬と三本足のオオカミとを見た。
「どうしたんだい? 神父さま」
「オオカミ様とマーナガルムの一族です。だいぶお疲れのようで」
「それじゃ農園のイチジクをとってくるよ。たんと召し上がっていただけば元気になるよ」
女は箒をおいていそいそと、嬉しそうに小走りしていった。
小さな家に運ばれたクラウドは狭いベッドに寝かされた。神父はジャックになおも水をすすめて呟いた。
「貧しいところですが、人の心は豊かです。皆思いやりがあってつつましく暮らしている」
ジャックはようやく水に口をつけた。冷えた井戸水が喉をうるおす。
バタバタと足音がして、先ほどの女がかごを抱えて戻ってきた。編みかごいっぱいのイチジクを、神父が皮を剥いて皿に盛りつける。
「わずかですが、土地の魔素を吸って育ったものです。力がつきますよ」
やわらかな果肉を噛みしめると喉が鳴った。物足りないが満足のいく食事をして、ジャックはベッドのクラウドを揺り起こす。寝ぼけ半分のクラウドに、ジャックは平らげたイチジクのほとんどを吐き戻してやった。
神父は二匹の様子をみて微笑んだ。
「何か事情がおありのようですね」
「そっちもな」
ジャックはクラウドを寝かしつけると、神父をふり仰いだ。柔和な顔に逆光の影がさしている。
「『あの子』が望むものは手に入らなかった。ゆえにマーナガルムの一族を造り、器として自ら操ることで、今度こそ理想を成し遂げようとしているのです」
「何の話をしている?」
神父は窓の外を、もっと遠くを眺めるように目を細めた。
「あの子は神さまが理不尽な世界を滅ぼし、我々魔法使いの安寧をもたらしてくれると信じていました。けれど、そのようにはならなかった。今のあの子が求めているのは幻想の大神、あの子の願いを叶えてくれる存在です。次は必ず終末戦争が起こる」
ジャックは鼻面にしわを刻んだ。
「あんた、青薔薇の魔女のことを言ってるのか」
「その通り名を聞くのも懐かしいことです。我々はあの子に生かされているのです。ここ、思い出の町で」
神父は静かに語った。
――思い出と言っても、我々が過去の人間というわけではありません。この町はかつてあの子が暮らした風景を模しているのです。
我々は奴隷狩りを生き延びた者、諸国を放浪していた者、生きるためあるいは強制されて罪を犯した者などさまざまですが、皆魔法使いとして迫害を受けたのです。
あの子が戦うことを決めた時、あわれな追随者――つまりは、我々の祖先らを案じこのエアインネルングが造られました。以来、中では子供が生まれ育ち、外からも魔法使いや縁の者が入って、今では少し賑やかになりました。
ジャックが口を挟んだ。
「ああ、ずいぶん賑やかだ」
神父はにこやかに笑んだ。
「この場所はお客さまを迎えるための表層ですからね。多少の干渉は自由です。現れたり、現れなかったり、ここに在ってここにない町ですから」
「秘密主義には便利なことだぜ」
ジャックがぶるぶると首を振ると、たてがみに埋まっていた瓶がきらりと光った。神父はそれに目を留めた。
「ニーズホッグを殺す蛇。ユグドラシルが完全になれば、もはや世界は変わるより他にない。とうとう始まるのですね」
「終末戦争ってのは俺たちにとっちゃ大神が死んだアレだったが、それも序の口ってわけか。森さえ戻りゃよかったんだが、都合のいいようにはいかねえな」
「……ええ。ですが、より良い世界になるかもしれません」
「そりゃどんな立場にとっての」
ジャックがうんざりして首を振ると、霧が濃くなったようにあたりが白く霞んだ。ジャックがもう一度首を振ると、そこは峡谷のそば近くだった。
ジャックは首を傾げた。
「狐につままれたか?」
クラウドを揺り起こし、二匹は吊り橋を渡って、とうとう森のある領土に達した。
「あの山を越えりゃ、すぐに」
ジャックが言いかけた時、背後からどす黒い悪意がおし寄せてきた。ジャックはとっさにクラウドをかばい、わき腹に熱された弾丸を受けた。
「ぐっ」
「ジャック!」
血のしぶきが飛ぶ。クラウドはジャックにおおい被さった。
「何してる、行け」
「できるわけがないでしょう」
ジャックは視線をとばした。遠く荒れ野の終わりは見えない。森のにおいもとどかない。
クラウドは必死にジャックの背中を圧した。
「私が君を背負っていきます」
「できるわけねーだろ」
クラウドは食い気味に言い返した。
「君はそうしてくれたでしょう。君が私を見捨てないわけと同じです!」
ジャックは眉間をひそめた。クラウドの心打つセリフにたいしてではない、この場に迫る奇妙な音にたいしてだ。整然と一糸乱れず、地面を槍で小突くような大群の足音。金具の軋み、遅れて油のにおいが鼻をつく。
クラウドも異変に気づいて顔をあげた。ジャックは小さくうなる。
「妙なモンが来やがる。逃げろ、一日走ってりゃ森にはつく」
「……ジャック、鈍色の獣がきます」
奇妙に噛みあわない二匹の応酬は、おし寄せる鈍色の行軍によってかき消された。軍隊の後列には、ひときわ大きな鈍色の獣が牽く立派な馬車がひかえる。その馬車がかかげる旗印を見とめ、クラウドの足はひきつった。
「明けの明星」
太邦サンジュスト陸軍大佐ウィーズル=フォン=モルゲンシュタイン辺境伯の軍旗である。味方すら恐れるというウィーズルの奥の手が、あの鈍色の獣たちだ。
クラウドはジャックの下に鼻面をつっこみ、地面を掻いた。
「ジャック、機械がきます! 早く私の背に」
「何だそりゃ。いよいよまずそうだな」
ぐったりとしていたジャックは、力をふりしぼって体を起こした。クラウドは憂いながらも喜んで尻尾をふったが、ジャックの目に金色の光をみて狼狽えた。白い足がうろうろと地面を踏む。
「あの数と戦うのは無謀です。さあ、私の背にのってください」
ジャックは身を震わせ、大地にとどろく遠吠えをあげた。撃たれた傷から血のしぶきが飛んでも、ジャックは朗々と歌いあげた。
空がゆがみ、あたりが暗くなっていく。
「ジャック、やめてください! その傷で……」
クラウドは二の句をつげなかった。ジャックはクラウドの首をくわえ、放りあげた。高らかに大地を蹴って踊りでたアカシカが、立派な角でクラウドを受けとめ、小高い丘を駆けあがる。クラウドは角の間でもがいた。
「何を……ジャックが。戻ってください!」
アカシカは黙して語らない。
ジャックがいた場所は鈍くよどみ、よく見えなかった。
暗灰色の毛並みは震える足で立ち、影を赤く染めながら機械の軍勢を迎え討つ。
鉄でできた獣たちの爪牙はオオカミによく効いた。皮をすべり、肉を裂く鉄の刃を受けながら、ジャックは蜘蛛の巣のように影をのばす。機械の獣は影にからめとられたが、大半は罠をかわし、ジャックに襲いかかった。オオカミの牙もまた機械には勝るものだが、軍勢相手には分が悪い。
(ここで解放はできねえ……まあ、肝心の足が欠けてんじゃどのみち打つ手はねえが)
三本足のオオカミがあきらめて機械の群れにのまれると、馬車から鐘の音が響いた。さしずめ勝利の鐘といったところか、機械たちは主に道をあけた。
豪奢な馬車から豪奢な靴がのぞく。戦場に似合わない派手な外套をひるがえし、ウィーズルはジャックの鼻先に立った。ウィーズルは無感情なまま、豪奢な靴で機械の残骸を蹴りとばした。
「鋼鉄もオオカミにかかってはこのあり様か。だが考える能を持たぬものは、お前の混沌に乱されることもない。さあ、王子がお前をご所望だ」
せまるウィーズルの白い手をかわし、ジャックは立ちあがった。ウィーズルは眉間にしわをよせて嘲る。
「醜悪な姿が、いよいよ目も当てられない。その足では、疲れを知らぬ機械どもから逃げる術はないぞ」
ジャックは右後肢のつけねに噛みついた。包帯から噴きだした血が、足のかたちをして地面を踏んだ。
「お前は考える能があるよな」
「忘れたのか? 私には呪いの」
言い終えないうちに、ジャックはウィーズルの懐に飛びこんでいた。とっさにさがろうとするウィーズルの足は動かない。獣をふり払おうとする手も出ない。それどころか、腕はジャックを受け入れるように開いていった。
いざ白い牙が喉笛へ食らいつく、その刹那。ジャックの体をどす黒い呪いの針が貫いた。つき飛ばされ、ジャックはどお、と地に落ちる。
ウィーズルは土のついた上着を払い、呪いの力でジャックの体を締めあげた。暗灰色の足が痙攣し、血が小川のように流れた。
「死に損なっているなら手伝ってやりたいところだが、王子にはオオカミを届けねばならん。ごみのような獣の死体ではなく」
呪いの黒い手がジャックの傷を圧しこんだ。
「ぐっ」
「やれやれ、王子の執心ときたら……まったく手を焼くよ」
ウィーズルの目は深い海よりも冷たく、光がない。
目を覚ますと、クッションの散乱した白い部屋にいた。
「おはよう」
幻のようにこだまする声は、幼さのなかにわだかまる何かをかかえていた。体を起こそうとしても、へどろがまとわりついたように動けない。
「レグナムブレスに仕えた四使徒は、それぞれに魔力を秘めた名を持ち、鉄の森と大神とを守護し、世界の均衡を保っていた……」
ジャックは何とか口を動かした。
「その森も、焼け野原だぜ」
サンゴは、見つめかえす深淵のような微笑みでこたえた。
「ニーズヘッグを殺されては困る。鉄の森はまだ目覚める時じゃない。こっちでもいろいろと準備があるんだ」
「大神もどきを作ろうって魂胆か」
サンゴは床をなで、落ちついた声音で言った。
「クラウドという魂の器がなければ【もどき】だが、それさえすえればレグナムブレスは還ってくるよ。だからこそお前は繋いでおかないと。大神を殺せる唯一の狼……混沌と調律の使徒オルトロスケィス」
サンゴの手がジャックの額に触れた。冷たい何かが、血管を這いすすんで体じゅうにいきわたった。芯から凍えるジャックの額に、青い薔薇の紋様が浮かびあがる。
サンゴは惚れぼれと青薔薇の紋様を見つめた。
「ようやくここまで力が戻った」
渇いた鼻で呼吸しながら、ジャックは目を閉じた。森の緑、鳥のさえずり、雨上がりの土のにおい。ありありと思いおこされるかつての森の情景。クラウドはレヴァンネンダールの森に帰っただろうか。
ジャックは深呼吸してつぶやいた。
「ガキのお遊戯じゃ済まされねえ……呪われるぞ」
「わかっているよ。それでもいいんだ……私はあまりわがままを言える立場ではなかったけれど、この体になってようやく叶えられる」
サンゴの手がジャックの首を逆なでする。優しい手つきだが、触れられていると鉄の杭を打たれるよりも苦しい。
ガラス越しに聴くような、くぐもったサンゴの声がした。
「おや、蛇はどこに……まあいい。今日が何の日かわかるかい? いまから始めるんだ、お遊戯を」
――……私は魔女。
私は魔法使いたちの希望であった。
私は戦いぬいた。
私は死せる大神を喚びおこした。
私は殺され、私の血は大神にのまれた。
私はそうして大神とつよく結びつけられた。
私は大国の王子として新たな生をうけた。
私は再び大神を喚びおこす。
私は私の願いを叶える。