今際の町の話
フェルはジャックの背中ですやすやと眠っていた。よほど疲れたのだろうと、クラウドがそっと鼻先でなでてやる。
その道すがら、ジャックとクラウドは植物の道が枯れているのを見た。
「あれはティーダの力だ。心配性なんだ、俺が迷子にならないようにしてたんだろう」
ジャックは遠い日に思いをはせた。
レグナムブレスはオルトロスケィスに命じた。グリモワールのため残るようにと。グリモワールが自身を縛るグレイプニルを解くと、すべての使徒が解放された。オルトロスケィスはグリモワールを追いかけ、彼が正気にもどったところでイアールンヴィズ――レヴァンネンダールに戻った。
それまでジャックと名乗り、森の外で暮らした時間のほうがずっと長い。
「なあ、お嬢ちゃん。あとどれくらいで着く?」
魔法使いであればオオカミの言葉を理解することができる。アガタは小さく頷き、指で一をつくった。
「一時……夜中か」
時間が長引くほどに、森とそこに残してきた仲間の安否が気にかかる。
クラウドはより大きな不安を抱えながら、小さなフェルのことを気にかけていた。
「ここまでは事情が伝わっていないと言っていましたし、フェルはずいぶん遠くへ来てしまったのではないでしょうか」
「帰る気なんてなさそうだぜ」
「私のために……」
うつむくクラウドの顎を、ジャックは鼻先で上げさせた。
「そんな顔すんな。こいつの想いを汲んでやれ」
「はい」
「それと、お前はレグナムブレスじゃねえな」
「はい?」
ジャックはクラウドをまっすぐに見つめた。
「変にお優しいところは似てるけど、目の色も態度も話し方も、物事のとらえ方も……耳の形も、尻尾の形も、毛足の長さだって全然違うぜ。お前はクラウドって名前の犬だよ」
「ジャック」
驚くクラウドに、ジャックは真剣な面持ちで言った。
「お前をレグナムブレスにさせやしない。世界も仲間も守ってみせる」
クラウドは嬉しそうに目を細め、尻尾を振った。
「君も使徒であった頃のオルトロスケィスではないのでしょうね。君はジャックだ」
急に気恥ずかしくなったジャックは、咳払いをしてベルベットの座面に伏せた。クラウドはおかしそうに笑ってそれに倣う。
アガタは背をむけたまま微笑んでいた。
馬車が止まり、アガタがジャックとクラウドを揺りおこした。彼女は首からさげていた石をひとつずつ、ジャックとクラウドの首にかけた。何の説明もなく、アガタは一礼して馬車で帰っていった。
「お守り、でしょうかね」
「悪い感じはしないよな」
よし、と歩きだしたジャックがふらつき、フェルがやっと目をさまして風呂敷にしがみついた。
「ジャック、大丈夫ですか。フェルも」
「オオカミさま、あまり休まれていませんね。慣れない三本足もお疲れでしょう、ちゃんと寝ないといけませんよ」
フェルは、ジャックが常に見張りをしていたことを知っていた。クラウドが寝ついたころにそっと起きだしていたのだ。
フェルが宿を探さなければ、と駆けだそうとして倒れた。
「フェル!」
クラウドがあわててフェルを咥え、ジャックの背中にもどした。反対にジャックはみるみる精気を取りもどしていった。ジャックはピンと耳をはって辺りの空気を嗅いだ。
「魔素だ。充満してる……何だこの町」
「魔素って、それじゃフェルには毒でしょう」
「ああ、俺には薬ってわけだ……早く出るぞ」
ひき返して迂回しようとしたが、町の向こうには断崖絶壁があり、近場の橋が町の出口にしか見当たらないことがわかった。意地の悪いことに戦略のため、橋へは町のなかを通らなければ行けず、町を囲んで高い壁がそびえていた。
仕方なく、ジャックとクラウドは町に戻った。魔素は薄い霧のようにたちこめている。ジャックは舌打ちして走りだした。
「急いで抜けるしかねえ。ち、町の人間はどうなったんだ?」
「これでは人間は住めません……」
クラウドは何かを見て口を閉ざした。ジャックが視線を走らせると、洗濯物を取りこもうとしているのか、干そうとしているのか、物干しの下に倒れたままの骸があった。迷路のように入り組んだ町を走り抜けるあいだに、いくつもの生活のなか突然命を絶たれた骸が放られていた。
ここで何が行なわれたというのだろう。
ようやくのことで町を飛びだすと、長い吊り橋が絶壁の対岸へ続いていた。魔素の霧は絶壁から千尋の谷へそそいでいる。
二匹は吊り橋を駆け、対岸でクラウドがフェルを揺すった。
「フェル」
祈るような声にこたえて、フェルはピクピクと細いひげを揺らした。
「良かった」
小さなネズミに鼻をすり寄せるクラウドは、心からすべての命を愛している。その感情は強制された模倣には見えない。
思いがけない町の様相に、ジャックとクラウドとフェルはくたびれたまま歩きだすしかなかった。
荒野には道らしきものはなく、生命力の強い草木が点々と生えているばかり。軍に連れられて通った道をもどっているのだから、次の町はあるはずだが、いっこうに建物の影すら見えなかった。
途中、フェルが喉がかわいたと言う。
「すみません、ぼくがおふたりを案内しなければいけないのに」
「何言ってんだ、小せえ体でよくやってるよ」
ジャックはクラウドの背中にフェルを乗せると、水のにおいを探した。少し行ったところに、泥臭いが水場があるらしかった。
「こっちだ」
「もう少しですよ、頑張ってくださいフェル」
しかし水場は先客に占領されていた。緑の装甲が体を覆う獰猛なワニが、泥を体に塗りつけて日光浴している。
ジャックはクラウドたちを制し、単身ワニの群れに近寄った。気がついたワニがシャーッと鋭い威嚇音を鳴らす。
「少し水を飲ませてくれないか」
「オオカミだぜ」「ホントだオオカミだ」
ワニは少しざわめいた。オオカミの威厳はあらゆる獣に通ずる。だが、完璧にとはいかない。
「オオカミって食ったことねえや」「美味しいかしらね」「なあちょっとつまむくらいならいいだろ?」
ワニはじりじりとジャックとの距離をつめていった。たまらずクラウドが走り寄る。
「一口で良いんです、水をわけてください」
「見ろ、犬だぜ!」「やったあ! 犬っていいもの食べてるから美味しいのよ!」
「こいつら背中におまけが乗ってるぜ!」
完全に逆効果だ。ジャックはクラウドの背後に近寄っていたワニに飛びかかり、首にがっちり噛みついた。騒ぎに乗じて襲いくるワニの群れを、咥えたワニを振り回して追い払う。
「見ろよ、ボザを軽々ぶん回してる!」
ワニの群れが少し距離をとると、ジャックはビクビク震えているボザとやらの首を噛みきった。血濡れの顔をあげ、ジャックは唸った。
「調子に乗るなよ……お前ら皆、俺にとってはただの肉の塊だ。鱗のせいで食うのにちょっと手間がかかるから普段狩らないだけで、鳥より食うところがあるでかい肉の塊なんだよ」
ワニの群れはさらにさがった。ジャックはだめおしで、獲物の血を飛び散らせながら吠えた。
「腹も減ったしな、ワニ肉食い放題といくか!」
ここぞとばかりに混沌の力をつかい、ジャックは数匹のワニをひっくり返した。ワニの群れは荒野をどこへともなく逃げていく。それを見届けて、ジャックはへたりこんだ。
「ふう……狩っちまったからには食うぞ。美味いぜ」
クラウドはフェルに水を飲ませ、ジャックとともにワニを囲んだ。
「いいか、ここを咥えて、こう引っ張る」
「う、血が……」
クラウドが拒否反応をしめしたが、フェルは分け与えられたワニの肉を喜んで食べた。
「本当だ、とっても美味しいです! こんなに美味しいもの食べたことがない」
「ああ、でも一匹で襲いかかっちゃ返り討ちだからな。オオカミと居る時の特権だと思えよ」
「はい! オオカミさまのおかげです!」
ジャックは頭上を舞っているハゲワシからフェルを隠しながら、ワニ肉の一番柔らかいところを咀嚼した。いったん飲みこみ、クラウドに促す。
「ほら、これなら食えるだろ?」
言って反芻した肉をクラウドに与える。クラウドは何とも言えない表情をしていたが、フェルはワニ肉に夢中で二匹を見ていない。ジャックの血濡れの口に口を突っこみ、柔らかなワニ肉を咀嚼する。たんぱくな味わいで脂肪も少なく、以前食べたキジマキジのあっさりとした風味に似ている。
ジャックは当たり前のように何度か反芻をくり返して、三匹は腹がふくれるまでワニ肉を堪能した。
ジャックは残りわずかの獲物に鼻を突っこむ。
「ここからが一番美味いんだけどな」
「いえ……私はその……」
クラウドは貧血でも起こして倒れそうに青ざめていた。残りはジャックとフェルとで平らげて、お下がりはやっとハゲワシの口に入った。
一行は再び歩きだし、丸一日かけてようやく町の影を見た。ジャックは舌を出して息をつぐ。
「そう毎度、都合のいい足があるってわけじゃねえよな」
「ええ、でも見えてきましたよ。休めるところがあればいいのですが」
次の町ではあちこちから音楽が聞こえてきた。陽気なダンスに興じる人間たちは、ジャックとクラウドのことを野良犬二匹としか思わず、気にもとめない。
ジャックはぽつりとこぼした。
「さっきの町とはテンションが雲泥の差だな」
「そりゃ、この町よりひとつ向こうは魔素の実験に使われたからよ」
元気のいい声がこたえた。ジャックとクラウドが辺りを見回すと、頭上から声がアピールする。
「私、わたーし! ここよ!」
ジャックの背中に小さな生き物がぴょんと飛び乗る。
「おいっ」
「ごめんあそばせ」
「ジャック、ネズミのお嬢さんですよ」
フェルは風呂敷から這いだし、この町のネズミと対面した。
「どうも。私はチッカ」
「ぼくはフェル……」
差しだされた手をおずおずとにぎると、チッカはフェルを振り回す勢いで握手をした。
「よろしくね珍道中!」
ジャックたちはチッカに案内され、犬が集っている教会を訪れた。水飲み場として小川が設けられ、乾燥肉を砕いたものが餌として配られている。
ジャックは乾燥肉を平らげたが、クラウドには固すぎるらしい。見かねてクラウドのぶんを口に入れると、おこぼれをかじっていたチッカが憤慨した。
「ちょっとお食いしん坊ね! あんたの分はあったでしょ!」
ジャックは乾燥肉を咀嚼して飲みこみ、フェルをチッカに寄せた。
「フェルにはこの町のことをよく知っててもらわなきゃいけない。チッカにくっついて町を見てきてくれないか」
「はい、わかりました。お願いできますか?」
フェルに見つめられたチッカは、少し赤くなって頷いた。
「うん、うん、いいよ!」
慌ただしくチッカが乾燥肉の残りを頬袋に入れると、フェルも真似をした。
「よし、お弁当持ったし、行こ!」
若いネズミたちを体よく出発させると、ジャックはクラウドに向きなおった。目の上の皮を寄せて、にやっと笑う。
「レグナムブレスは牛一頭、丸々残さず食べたぜ?」
クラウドはむっとして言った。
「私は大神とは違う、ただの犬だと言ったのは君でしょう。私だってこんなこと望んでいるわけじゃ」
ぐう、とクラウドの腹が不平をもらした。ジャックはからからと笑う。
「世話が焼けるのもお前らしいよ」
開かれた口に鼻先を突っこんで、クラウドは柔らかい乾燥肉を咀嚼した。ようやく食べられた乾燥肉を食みながら、ふと違和感に気づく。食事をおえて、クラウドはジャックを見つめた。
「君、自分のぶんまで私に寄こしているんじゃ……」
「どうかな? まあ、俺はさっき腹一杯食ったし」
――どうしてそこまで私を生かそうとしてくれるんだ。私は殺されるため君を捜し求めてきたのに。
クラウドは、肉の残滓とともに言葉を飲みこんだ。
敷き藁のうえでのんびり昼寝をしていると、小さなネズミたちがもどってきた。フェルとチッカは仲良く小さなピンクの手をつないでいる。
「あの、オオカミさま……ぼくとても勝手なことを」
言いかけたフェルの言葉をチッカがつないだ。
「フェルにはここに残ってもらいたいの。私の勝手なお願いよ、フェルをせめないで」
クラウドは静かに首をふった。
「それが良い。目的地の森では、ふつうのネズミであるフェルは生きていけない。ならばどこか途中の町で、フェルに最も良い選択をしてもらおうと考えていたところでした。お願いできますか、チッカ」
チッカとフェルは細い尻尾をピンと立てた。
「いいの? ありがとう!」
「高貴なお方、オオカミさま、このご恩は忘れません」
ジャックは教会を見回した。
「ここなら食い物には困らないし、町の連中も陽気だしな。いい所だ」
小さなネズミのカップルは、何度もジャックとクラウドをふり返りながら雨どいを駆けのぼっていった。
教会を訪れた人間のなかに、動かない足を引きずる少年と、手を貸す少女が訪れた。子供たちは祭壇のまえに膝をつき、手を組んだ。
「遠いご先祖さま。いまわの町と呼ばれたぼくたちの故郷のようなことが、もう二度と起こりませんように」
「ご先祖さま。いつかきっと家族と会えますように、お導きください」
どうやら肉親ではないらしい二人は、頼りなく連れ添って教会をあとにした。
クラウドに倣って、ジャックは少年の背中を見つめた。
「足はもうだめだが、魔素は体から抜けてる。大丈夫そうだ」
「そうですか……」
よかった、とも言えず、クラウドはじっと彼らを見送った。
夜半、ジャックとクラウドは静まりかえった町を出た。ジャックは後ろからついてくるクラウドにこぼした。
「いい町だが、居心地は良くなかったな」
「わかりますよ、その気持ち」
月光の下、二匹の獣の影がながくのびていった。
賭け事の町ロダンズヘルムに、疲れきったハンターウェア姿の男が現れた。男は眼光鋭く、チップをはずんで酒をあおった。
ロダンはカウンターのなかでグラスを磨きながら男に尋ねる。
「ずいぶんと焦ってるんだな。何をかは知らないが」
男は酒瓶から口をはなしてこたえた。
「獲物を追ってるのさ。まだそう遠くへは行かれていない」
「そうかい。じゃ、旅の無事を祈るよ」
ロダンはカウンターに散弾のケースを置いた。
「これはおつりだ」
男は散弾を受けとり、猟銃を背負いなおして西へと歩きだした。