ネズミたちの話
遠く城下町の外壁まで届く、太い犬の鳴き声がする。
「ウェイン、しっかりするんだ! ドーイ、コスモス!」
やっと追いついたグラヴィは、石のようにかたまって動かない皆の背から吠え続けた。それ以上仲間に近づけないのは、オオカミの残滓が恐ろしげに揺らいでいるからだ。
どのくらい過ぎただろうか。猟犬たちの耳に主の笛の音がとどく。馬に乗ったシラバルとバーツが追いついた。後ろからは兵士らの足音が続く。
「それで、オオカミはどうした」
「足止めをくったようです。お前たち、オオカミはどっちへ行った」
ウェインが跳ねるように前方を見て吠えた。バーツは視線をウェインの鼻先へ、その向こうへとのばす。
「西側の門に向かったようです」
「追うぞ! オオカミ狩りだ」
駆けだした二騎を追い抜かして猟犬たちが先導し、兵士らが続く。シラバルは犬の尾を追いながら言った。
「すでにモルゲンシュタイン卿の放った報せが番兵に届いているはず。門は閉ざした、挟み撃ちにするぞ!」
西門近くの酒屋にひそむクラウドと町のネズミたちは、警戒をつよめる番兵たちの前に出られなくなっていた。
「門が閉ざされてしまいました。どうしましょう。外は馬でも跳びこえられないような堀で、あの不気味な水が満ちているのです」
「ジャックが追いつくのを待ちましょう」
クラウドはふと空を仰いだ。酒屋の屋根と外壁とにはさまれて、空は長細くのびている。象牙城の棟から見上げた空もこうだった。きりとられ、狭く、限りがあった。
尽きない水、豪奢な食事、年の近いきょうだいたち。何不自由ない暮らし。
一生をあのまま過ごすと思っていた。その一生がどこまで続いたかはわからないが。そこだけがクラウドの世界だった。
不規則な足音が急いて近づいてくる。クラウドは物思いからひき戻されて、視線を路地へむけた。
「待たせたな!」
「ジャック」
「オオカミさま、お静かにっ」
ネズミがあわててジャックに隠れるよう手振りした。
番兵のひとりがあたりを見回す。
「いま、犬が鳴かなかったか?」
「猟犬じゃないか? 新しい報せがあった。ここに向かってるらしいぞ」
番兵たちの話を聞いて、ネズミは小さな頭をかかえた。
「まずいですね。このうえ、猟犬が向かっているなんて……」
「もう一発派手にかますか。そのあと俺を誰かが運ばなけりゃならないが」
「だめですよジャック、君にばかり無理をさせられない」
めいめいに、ああでもこうでもと言い合ううち、馬のひづめの音が聞こえてきた。いよいよ追手が迫るなか、ネズミが声をあげた。
「ひらめいた! おういみんな! おういみんな!」
酒屋の隅々からチュウチュウがやがや、何百というネズミが現れた。案内のネズミが言った。
「染物屋の缶をふたっつ、小さいのでいいから持ってきてくれ」
別の案内のネズミが飛びあがって手をうった。
「なるほどそうか! じゃあ赤いのとねずみ色のを頼む!」
「わかった」「はいよ」「すぐに行くぞ」「待ってろ」「本物のオオカミさまだ」「高貴なお方もきれいね」「あとがつかえてるぞ」「パン屋の家族も手伝いにきた」
ひょっとしたら番兵の耳にも届いたかもしれない大騒ぎで、ネズミたちは酒屋の隅から消えていった。唖然としているジャックとクラウドに、案内のネズミたちが敬礼した。
「それではオオカミさま、高貴なお方。あとは仲間たちがうまくやるでしょう。どうぞお気をつけて」
案内のネズミたちはジャックとクラウドに背を向け、隙間だらけの戸から飛びだしていった。
「どこに行くんですか」
「待て、何をする気だ」
たった三匹のネズミたちはひづめの音がするほうへ一目散に走った。そうして馬の大きな影に出くわすと、脚のあいだをちょろちょろ走りまわった。たまらず馬は高くいななき、足元の小さななにかを踏みつけまいと暴れまわった。
シラバルは暴れ馬の手綱をひき、胴をしめたり蹴ったりして制そうとした。
「どうした、落ちつけ!」
バーツも同じようにしたが、所作が荒っぽくないぶん馬の混乱がとけない。猟犬たちはバーツの乗る馬の周りをぐるぐる駆けめぐった。
「だめ、ダディが落ちる!」
「受け止めろ! わしが最初だ!」
「それよりドーイ、ネズミだ! 俺が吠えたらネズミをどかせ!」
「わ、わかった!」
ウェインがよく通る声で吠えると、馬の動きが止まった。その隙に小さなドーイが馬の足をくぐり、ネズミに吠えたてる。
「キャン! ギャン!」
「お前たち逃げろ!」「兄ちゃん!」「あっ」
ドーイは一匹のネズミに噛みついた。
「ヂュウ」「やめろ、兄ちゃんをはなせ!」「だめだよ!」
あっという間に次のネズミも噛まれ、道の端に放られた。二匹のネズミはぴくりとだけ動いて静かになった。末のネズミはからくも逃げだし、馬の行く手を阻むものはいなくなった。
バーツは暴れ馬からおりて猟犬たちの頭をなでた。
「よくやったぞ、お前たち。さあ走れ、オオカミを逃がすんじゃない」
猟犬たちは一声吠えて走りだした。
染物屋から戻ったネズミの大群は、ぼろの缶に歯をたてて穴をあけると、紅花の染料をジャックに、ねずみ色の染料をクラウドに、体をつかって器用に塗りたくった。
クラウドは感心してネズミに身をまかせた。
「なるほど、この目立つ毛の色を染めるとは思いつきませんでした」
ジャックは体をぶるぶると振るいたいのをじっと我慢していた。少しして、暗い茶の犬と、ねずみ色の犬とができあがった。
年老いたネズミが首をふった。
「あとはどうやって掘を越えるかだが」
そこへ、案内のネズミが一匹だけ戻ってきた。年老いたネズミが諦めたように聞く。
「兄さんたちは」
ネズミは小さな頭を振った。それからジャックとクラウドを見上げた。
「ぼくが案内します。ついてきて」
小さなネズミについて外に出ると、何頭かの見知らぬ犬が待っていた。
「城下町の地域犬として面倒をみられているものです。ご一緒しましょう」
犬たちはジャックとクラウドを囲むようにして門に近づいた。気がついた番兵が手をはらう。
「こらこら、今は遊んでやれない」
すると体の大きな犬が立ちあがり、番兵の鎧に手をついた。番兵は尻もちをつき、わっと飛び乗った犬にとりおさえられた。
もう一人の番兵は、槍をくわえてひっぱる犬と格闘している。
「危ないったら! 放すんだ! お犬さまを傷つけたらどうなるか」
毛の短い犬が吠えた。
「さあ、こっちですよ」
毛の短い犬は塔の窓に跳びあがり、なかへ入ってレバーに体当たりした。地響きをたてながら跳ね橋がおりていく。小さなネズミがまっすぐに走りだした。
「行きましょう!」
ジャックとクラウドは開きかけの跳ね橋に走った。橋はいまだ壁のように立ちはだかっている。二の脚を踏む二匹に、馬の足がせまっていた。追いついた猟犬たちは町の犬たちに吠え、跳ね橋の前に立つ二匹の犬に詰め寄った。
ドーイはくしゃみをした。
「くさい! 染め物のにおいだ!」
「体を染めているんだわ」
「こざかしいまねを!」
「俺が回りこむ、お前たちは合図したら輪をつめるんだ」
赤犬ウェインはジャックとクラウドから目を離さず、じりじりと横歩きをした。猟犬たちのチームワークを、一発の銃声が乱した。
「何の騒ぎだ! 犬どもを追いかえせ!」
シラバルの命により、引き連れた兵士らが犬を抱えるなり押すなりして遠ざける。シラバルは馬上から飛びおり、塔のなかに駆けこんだ。
「しっしっ!」
毛の短い犬を追いだすと、レバーを引き上げようとする。だが鉄の棒はびくともしない。
「何事だ?」
いぶかしんで外に出てみれば、半分ほどおりた跳ね橋のうえに茶色と灰色の犬が立って、跳ね橋の端に緑の草花が生い茂っていた。
シラバルは目の色をかえて銃をかまえた。
「おのれ忌々しい、化け物めが!」
跳ね橋にむけて発砲するシラバルを、バーツが制す。
「おやめになったほうが」
「みすみす逃してたまるか!」
――終わってしまう。自分のしくじりとともに、息子たちの未来が。娘たちの夢が。妻の愛した平穏が。
シラバルはバーツの制止を振りきり、斜めの跳ね橋を駆けのぼった。威嚇するジャックと戸惑うクラウドの向こう、植物めがけて治療用の油瓶を投げつける。瓶の口から漏れだす油に銃弾がはじけた。植物はつかのま燃えたが、水気を多くふくむせいで火勢はすぐにおとろえた。
「逃がすか!」
今度はジャックとクラウドに銃口を向ける。狙うのはその風のように駆ける厄介な脚。
しかし、森からオオカミを追ってのびる不気味な草花が、一気に跳ね橋を引きおろした。石垣に激突した衝撃でシラバルは後ろに倒れ、ジャックとクラウドはすぐさま駆けだした。
二匹の獣の背をにらみ、シラバルは跳ね橋をなぐった。
「お前たち獣の神にでも何にでも祈ってやる。わしの邪魔はさせん」
口ひげににじむ血をぬぐい、シラバルはふらふらと荒野にむかって歩きだした。
「シラバル卿!」
バーツの声はもはや届かない。
小さな水先案内をのせ、ジャックとクラウドは荒野の果てに町を見た。
「また大きな町だな」
「毛皮を染めて正解でしたね、これなら目立ちません」
「さあな、三本脚の犬がどのくらい目立たないもんか」
「オオカミさま、高貴なお方。門から南へいったところに囲いのすきまがあります。そこから入って、大きな屋敷の裏てへいってください」
ネズミのいうとおり、町をぐるりと囲む板壁のすきまをくぐり、三匹は大きな屋敷の裏庭にしのびこんだ。
「こっちです」
小さなネズミはちょろちょろと、屋敷の下水道を走っていく。ジャックには何でもなかったが、クラウドには排水のにおいがこたえるようだ。
「大丈夫か、俺の尻尾でも嗅ぐか」
「そうします」
ジャックは冗談のつもりだったが、クラウドはジャックの尻尾の先に鼻をくっつけた。ジャックは目を丸くしてクラウドをふり返ったが、黙って前にむきなおり、ひょこひょこ歩きだした。
下水道のなかばに点検口があり、ジャックとクラウドはネズミに導かれて石造りの階段をあがる。踊り場をすぎると、少し下水のにおいがましになった。クラウドはジャックの尻尾から顔をあげた。
「すみません、助かりました」
「……どうも」
ジャックは複雑そうな顔をした。
ネズミは出口をふさぐ木の扉にむかってキーキー鳴いた。すると小さな足音がひとつ、ふたつと寄ってきて、扉をカリカリ引っ掻く音はガリガリ、ゴリゴリと勢いを増していった。数分後には、扉にちいさな穴があき、屋敷に住んでいるネズミが顔をだした。
「チュウ」
屋敷のネズミが合図すると、他のネズミたちが一斉に扉をかじりすすめ、とうとう人間が通れるほどの穴があいた。
「こんにちは、オオカミさま。あたしは屋敷のネズミ、リフェット。おちびさんから事情は聞いたわ。まずは腹ごしらえよ」
リフェットが一声鳴くと、暗闇から合唱がかえってきた。ネズミたちは暗がりで動きまわり、料理人が主人のために用意した極上の皿を何枚も運んできた。肉料理にかぶりつくジャックと果物に舌鼓をうつクラウドに、リフェットは水を用意しながら言った。
「ここは十六番目の公爵さまのお屋敷さ。王さまの命令で、西の海のむこうにあるハリュードって国と戦争をしていなさる」
ジャックは肉を食むのをやめてうつむいた。
「人間は面倒だ。獣なら頭どうしの一騎打ちで決まっちまうのに、手下ばっかり戦わせるから大事になる……昔は国なんてなかったところに線を引きやがる。ぜんぶ大神の土地だ、どこを駆けまわってもよかった」
「そうね……オオカミさま、干し肉の準備ができたわ。次の町までは持つでしょう。さあ、人間どもが来ないうちに出るわよ」
クラウドはまた下水道を行くのかと身構えたが、ネズミの大群に先導されて掃きだし窓から中庭にでた。
「この庭園を行くのが早いわ」
「こんなに大勢で見送ってくださって、ここにはもういられないのですか?」
クラウドが案じると、リフェットは何でもないように頷いた。
「そうね。あんなに派手にものを壊して、盗みを働いたんじゃ無理ね。そろそろ猫が子供を産んで厄介な頃だし、新しい家はたくさんあるわ」
リフェットが導く先で、煉瓦造りの壁がくずれていた。庭から抜けだし、一行は丘を下る。茂みのなかに身をひそめ、リフェットがネズミに命じた。
「ガリバーを呼んでおいで」
ネズミは少しして、ブラッドハウンドを連れて戻ってきた。
「ガリバーよ。耳は遠いけど頼りになる」
「あん、右に多くドッタンバッタン?」
ガリバーはばかに大きな声で吠えた。リフェットは耳をふさいでのけぞる。
「町には詳しい、それは確かよ。安全に次の町まで行く方法を知ってる」
「ああん、アンポンタン義理のマーカスいい方法?」
ジャックは空を仰いだ。
「大丈夫かこのじいさん……」
「ああん! 歳はくっても無駄飯はくわんぞ! ついて参れ!」
ガリバーは突然背筋をのばし、兵隊の行進よろしくきびきびと歩きだした。リフェットが後ろからチューチュー鳴く。
「ガリバー、どこへ行くかわかってるんでしょうね!」
「おお! どこまでも行けるぞい!」
ジャックはリフェットをふり返ったが、彼女は首をかしげて微笑むだけだった。クラウドはリフェットたちに礼を言い、素直にガリバーについていく。
嫌々後を追うジャックは、ガリバーがあまりに堂々と町中を行くので肝を冷やした。
「おい、人間だらけだ。大丈夫かこのじいさん」
「ふふん、大丈夫じゃわい!」
ガリバーが元気よく吠えると、道行く若者が足をとめて笑った。
「今日も元気だな、ガリバーじいさん! お友達か?」
買い物かごをさげた娘たちも足をとめる。
「見て、あのわんちゃん足が一本ないわ」
「でも風呂敷を巻いてるわよ。おつかいかしら、偉いわね」
娘たちはかごからソーセージを出した。
「お食べ。皆のぶんがあるわよ」
ガリバーとクラウドは素直に受けとり、ジャックは娘たちが少し離れてから食べはじめた。
「がんばってね」
温かく見守られながら、一行は町の西門へと向かう。ガリバーはまだソーセージを噛みながら言った。
「王族でハモハモ一番力を持っとるのハモハモハモハモ、サンゴ王子じゃモハモ……そのハモハモ」
「食いきってから話せ!」
たまらずジャックが吠えると、くず入れのそばでくつろいでいた犬が笑った。
「ヒャッヒャッヒャ じいさんが言いてえのはこうよ。サンゴ王子が高貴なお方って白い犬を可愛がってるから、すべての犬を大事にしろって王さまが御触れを出したんだ。たぶんサンゴ王子が犬なら何でも好きだろうってな。親馬鹿なこって」
不気味な犬は牛の骨をよこした。
「食いなよ。ここじゃ俺たち野良犬も食うに困らねえ。王さまの気が変わらなけりゃな……ヒャッヒャッヒャ」
ジャックは骨を咥えてバリバリかみ砕いたが、ガリバーは咥えたまま飴のようになめていた。もう歯が丈夫ではないのだろう。クラウドは骨のにおいを嗅いで嫌そうな顔をした。その足下に転がっている骨を、ジャックが噛んだ。
「いい、俺がもらう」
一行は町の西門にたどりついた。日は天高くのぼって昼、ほろのついた荷馬車がいまにも出発しようというところだった。
「おういゴードン、こいつら乗せてやってくれんかあ」
ガリバーが大声で吠えるので、荷馬車の主が御者席からおりてきた。
「何だいガリバー、牛乳ならちゃんと用意してあるよ」
がたいのいい男に頭をなでられ、ガリバーは細長い尻尾を振った。よろよろと男につかまって立ちあがり、近づいてきた顔をベロベロなめまわす。
「うわああ」
「今じゃ、荷馬車に乗れ!」
「このいたずらっこめ、ソーセージくさいぞ!」
男はまんざらでもなさそうにガリバーをなでている。その隙にジャックとクラウドは、ほろのついた荷台に飛び乗り、積み荷のかげに隠れた。
荷馬車を牽く毛むくじゃらのがっしりした馬が、いなないて地面を掻いた。男はガリバーの頭をぽんぽんと優しくたたいた。
「ごめんな、もう行かなけりゃゴードンに叱られる。納屋に行って牛乳を飲むんだ。もう歯があんまり無いんだからな」
男が荷馬車に近づいてくると、ゴードンはブルルと鼻を鳴らした。
「変わったお客さんだな。次の町まで一時間かかる。不用意なことをしてダーマに見つかるなよ」
クラウドは静かに鼻を鳴らした。
「ありがとう」
屈強な男ダーマは御者席にもどり、鼻を鳴らしているゴードンの首を叩いた。
「ごめんよ、そうら出発だ」
ダーマが荷馬車をぱんっと叩くと、ゴードンは鼻を鳴らして歩きだした。重そうな積み荷が満載の荷馬車をゆっくりと牽いていく。
ジャックとクラウドは馬車に揺られながら体を伏せた。小さなネズミが小さく鳴いた。
「お疲れでしょう。少しのあいだでもお休みください」
ジャックとクラウドはうとうとと、まぶたを閉じた。