オオカミを巡る人々の話
城下町の外壁をまわりこみ、隊列は象牙城の膝元にある演習場に入った。
置物のように静かだったアッシュは、にやにや笑ってジャックたちを一瞥したあと、バーツのもとに戻った。バーツは血色のよくない唇を動かし、アッシュを労う優しい言葉をかけた。しわだらけの手がごしごしと飾り毛を撫でる。
不安いっぱいの表情で象牙城をあおぐクラウド、そのそばでくつろぐジャック、二匹を載せた檻は荷台から運びだされた。
――いざや行かん、血を以って漱がれるあの地へ。
牙が白雷を落とし、爪が溝渓を百年地に残す。
故に開闢幾星霜、大神の轡は一時も弛まず。
不思議な詩が聞こえた。気をとられたのはジャックとクラウドだけではない、人間らも一瞬かたまり、あてもなく天を仰いだ。その一瞬の隙をついて、ジャックは力を使った。クラウドの縄が解け、檻がいびつにひしゃげ、兵士が驚いて手を放す。できた隙間から黒白の影はすべり出て、白雲の色をした獣が先陣をきった。暗灰色の毛並みが、人間らをあざけるように遠ざかっていく。
ジャックたちの目的は、城の地下にとらわれている魔法使いの一族と接触すること。彼らであれば、魔法の森をもとに戻す方法を心得ているらしい。
右の後肢を失ったとはいえ、ジャックは三本足でがっきと石畳を噛み、駆けた。獣の足に人では追いつけない。だからこそ、猟犬がいる。
「バーツ、犬を放て!」
シラバルがそう命じるよりも早く、バーツは犬のリードを解いた。けたたましく吠えたて、犬たちは完璧なチームワークでクラウドとジャックを追いつめた。ジャックは影のさす大理石の階段を駆けのぼったが、クラウドは赤犬と斑犬に阻まれてしまった。
ジャックは大仰に振りかえって叫ぶ。
「クラウド!」
「ジャック、私に構わず行ってください!」
わずかのためらいを死神は見逃さない。冷酷な牙がジャックに追いつき、襲いかかった。階段の上で均衡をくずしたジャックは、首に食いつかれ、アッシュともつれ合いながら転げ落ちる。ぐったりしたジャックをなおも放さず、アッシュは唸りながら戦利品を引きずった。
クラウドは悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが、猟犬に阻まれた。
「ジャック、ジャック!」
「おやめください高貴なお方!」
ぼろ布のようになったジャックを、バーツがそっと解放させる。若い兵士が叫び、慌てて鉄の槍をジャックに向けた。
「だっ、大丈夫ですか、近寄って」
「もう抵抗する気はないようだ。鉄の檻を壊せるとは意表をつかれたが」
バーツは鉄の鎖でジャックの三肢を縛ると、アッシュをさがらせた。
「死なせないためには手当をしなくては」
バーツが仰ぎ見ると、シラバルは苦々しく頷いた。
ジャックは板に乗せられ、地下に続く階段を下っていく。それを見送り、クラウドはおとなしく捕らわれた。猟犬に囲まれ、鉛のように重い足を引きずり、ジャックが倒れた階段をのぼる。その後ろにバーツとシラバルが続いた。
城の中はどこまでも白く、高い天井から青い影が降っている。金製の調度品はどれも真新しげに手入れされているが、どこかくたびれ、過去の遺物のようにくすんで見えた。
ひねくれた回廊を進み、階段をのぼり、時に降り、ようやく王子の居室があるフロアへたどりついた一行は、くくられた何重もの青いベルベットの幕をくぐった。並ぶ豪奢なシャンデリアに灯る火はなく、人の活気もなく、美しいだけの景色は青の影に沈み、凍えるように寒い。
クラウドは足を止めた。あれに見えるは白亜の扉。何者にも染まることはないサンゴルゴナ・サンジュストの心を現している。
シラバルは無遠慮に扉に手をかけたが、そうするしか扉を開く方法はない。この城には百人の貴族の娘たち、百人の料理人、百人の召使い、百人の掃除婦、百人の大臣、百人の踊り子、百人の奴隷、百人の家畜番、百人の将軍、百人の近衛兵、百人の研究者がいるが、居室に立ち入ることは許されていない。
扉の向こうで、サンゴ王子はソファに寝そべっていた。高い段もなく、ただ床に椅子やクッションが散らばり、王子は只人と同じ目線で待っていた。
シラバルは恭しく膝をつき、バーツもそれに倣った。言葉を発する許しを待っていると、王子は手を叩いた。バルコニーから豪奢な赤いドレスコートをまとった青年が現れた。彼は涼しげな青い目を細める。
「王子は退屈の極みでしたよ、シラバル卿」
「恐縮至極にございます。モルゲンシュタイン卿、ご報告が」
シラバルは短く答え、額づいたまま報告した。
「こちらは高貴なお方でございます。オオカミは一匹、いま城の地下にて“あやつら”が治療にあたり」
「オオカミを奴隷どもに任せたのですか?」
ウィーズルはシラバルをさえぎり、眉間にしわを寄せた。
「奴隷はオオカミ側の連中……奴らの接触を要するほど痛めつけるとは悪手」
「バーツ」
シラバルは忌々しそうに指示した。バーツは胸に手を当てて言った。
「オオカミは、魔法や自然物の類を縛る鉄ですら壊して逃げました。私の猟犬は獲物を捕らえるため務めを果たしたまで」
少しの間の後、サンゴが初めて口を開いた。
「オオカミを捕らえるのは大事なのだから、しかたのないことだ。彼には治療を終えてから会うことにしよう」
サンゴはオオカミをひとかどの人間のように話して、寝そべったまま腕をひろげた。
「おいで、私の雲」
クラウドは王子の足元に寝そべった。王子は白い毛並みを懐かしみ、手ぐしですきながらクラウドに尋ねた。
「それで、君の騎士は何を企んでいるのかな」
城の地下はぐるりと鉄格子で囲まれ、中にはみすぼらしい集落ができあがっていた。灰色のぼろ布をまとった人々が、運ばれてくるオオカミを心配そうに見つめている。
「治療しろ」
兵士は檻のきわにジャックをおろすと、壁まで退がり、槍を構えた。
肌も灰色にくすんだ人々は、弱々しく檻のむこうに集まり、ジャックに手をのばす。傷の具合をたしかめ、必要な薬を用意し、痛々しい噛み傷にヘラで塗りこんだ。
ジャックはわずかに唸ったが、おとなしく治療を受けた。
手当を終えた灰色の人々は檻から退がり、膝をおり、両の掌を上へかかげてかしづいた。
兵士がジャックに近づくと、灰色の一人が言った。
「失われた足を戻すことはできませんが」
「そんなこと」
兵士が顔を上げた隙に、ジャックは力を使った。
「ぎゃっ」
短い悲鳴とともに兵士はくずれ落ちた。鎧が大きくへこんで腹を打ち、あるいは腰を真横に折るように曲がって、そのまま壁にめりこむ。
ジャックは三つ足で器用に立ち上がり、灰色の人々に声をかけた。
「助かったよ」
灰色の人々はかしづいたまま応えた。
「畏れおおいことです、我らの主よ」
彼らは当然のようにオオカミの言葉をつむいだ。
「我らは魔法使いの最後の一族。オオカミを祀り、仕えるものです」
ジャックは魔法使いたちを眺めた。
「俺たちの暮らした森が焼かれてはげ山になってる。元通りにする方法ってのはあるか」
「はい、偉大なるオオカミよ」
ジャックは耳をパタパタ振り、眉をひそめた。
「その、俺はあんたらが崇めてるようなオオカミさまとは違うぜ」
「いいえ、混沌と調律の使徒、哀しみの心を持つ方」
「何でも知ってるんだな」
ばつが悪そうなジャックに、魔法使いたちは微笑んだ。
「はい、魔法の森レヴァンネンダールを戻す方法も」
魔法使いのなかから、年老いて背のまがった男がすすみ出た。その顔は人間離れして、鼻はのび、額は平らにひしゃげ、耳は尖っていた。
「わしの名はオーゼンロフ。ニーズホッグを殺す蛇を飼っていますじゃ」
オーゼンロフが灰色のぼろ布から出した腕には、紫の毒蛇を模した彫り物が入っていた。
「これは魔法の入れ墨。今こそ、この魔法をオオカミさまに」
オーゼンロフは瓶に指先の血を垂らした。血を追うように、蛇が腕から浮き上がって瓶におさまる。細い紫の蛇はそのなかでとぐろを巻いた。蛇を離したオーゼンロフの体はみるみる縮んでいった。
「おい、大丈夫なのか」
「魔法の毒蛇を生かすためにあった命、役目を果たせば永らえる意味はありませんですじゃ……大神の世の再来を願っておりますじゃ」
言い終えると、オーゼンロフは灰と化した。その灰を囲み、魔法使いたちは祈りとともに火を放った。火は灰に落ちるとごうごうと燃え上がった。赤い舌の先端が石造りの天井を舐める。
ジャックは檻の前で右往左往した。
「オオカミさま、行ってください。森へ戻り、その蛇を地に放ってください。蛇がニーズホッグを殺し、ユグドラシルは育つでしょう」
ごわごわした暗灰色の首に、瓶をくくりつけた縄がかけられる。
「何だかわかんねえけどわかった!」
檻を背にして、ジャックは階段を駆けのぼった。
クラウドのかすかなにおいを頼りに、ジャックは象牙の城を駆けまわる。庭では百人の家畜番が、厨房では百人の料理人が、行く先々で百人の召使いと百人の掃除婦が、百人の貴族の娘と百人の踊り子が、それぞれに悲鳴をあげた。騒ぎを聞きつけた百人の将軍と百人の近衛兵がジャックを追い回し、執務室に逃げこんで書類をめちゃくちゃにすると、百人の大臣から文句を言われた。
三つ足のオオカミの逃亡劇を、遠くから百人の研究者が観察している。
「こっちか!」
ジャックは着々とクラウドに近づいていた。
サンゴ王子の居室では、騒ぎをききつけ、ウィーズルが対処に向かうところだった。
「シラバル卿、猟銃を持ちに行き、兵士をお連れなさい。王子、私が出ます」
「奴隷もオオカミも死なせてはいけないよ」
「はい。バーツとやら、あなたは猟犬とともに扉を守りなさい」
バーツは頷き、シラバルは廊下を駆け戻った。慌ただしい防戦のなかで、サンゴはのんびりとクラウドの背を撫でていた。
クラウドのにおいに近づいたジャックの前に、派手な赤い服の男が立ちはだかった。先のカールした金髪に青い目、白い肌。先ほど見た百人の貴族の娘に混じっていただろうかと思うほどに線が細い。しかしその目には野心がたゆたい、危険な光を宿している。
「退け!」
「そう吼えるな、獣め」
ウィーズルを抜こうとしたジャックは、三本の足を何かに掴まれ、その場に倒れた。
「獣はそうして地に這いつくばっているがいい」
「ぐっ 何だ」
けらけらと笑うウィーズルの足元から、蔦のように影がのびる。
「お前も魔法使いか」
「あんなものと一緒にするな。人間はオオカミに対抗しうる力を持てるのだ。これは呪い。何よりも強い力だ!」
ウィーズルの影はジャックを縛りあげ、床に何度も叩きつけた。やがてジャックはだらりと影にぶらさがった。
「他愛もない」
獲物を持ち帰ろうとして、ウィーズルの足元がふらつく。
「く、やはりオオカミともなると」
呪う力の大半を使い果たし、ウィーズルはがくりと膝をついた。壁にもたれて座りこんだところへ、近衛兵とシラバルらが到着した。
「モルゲンシュタイン卿!」
影は消え、ジャックは廊下にぐったりと広がる。ウィーズルは片手を振った。
「私のことはいい、オオカミを王子のもとへ……」
兵士がウィーズルの視界をつかのまさえぎった、その次の瞬間には、ウィーズルはジャックを見失っていた。彼の青い瞳はすばやく廊下じゅうへ向けられたが、オオカミの影も形もない。ウィーズルは白い歯を食いしばり、青い影の落ちる床を叩いた。
「どうした、オオカミは!」
「それが……」
兵士はウィーズルの剣幕に怯えながら、廊下の向こうを指した。
「ネズミです。黒いネズミの大群がオオカミをさらって行きました……」
ジャックはあらゆる方向に揺さぶられて目を覚ました。体の下で温かいなにかがうごめいている。骨ばった生き物の感触と、埃と脂と、少しのかび臭さ。
「何だ……」
「オオカミさま!」
小さな生き物たちがめいめいに言った。
「我らは象牙城に棲むクマネズミです! 灰のヒト……魔法使いたちからオオカミさまをたくされました。この城を出るまで、魔法の森に帰還なされるまで、我ら一族がお手伝いいたします!」
城の廊下をひとつ過ぎるたび、追手の兵士は増えていく。クマネズミの大群とて、オオカミの体を運ぶには骨が折れる。それほど急げない仲間たちのため、数匹のネズミが群れを離れた。
「しっかりオオカミさまをお守りするんだ!」
たった数匹のネズミたちは兵士に突撃していった。わずかの間、兵士の足は止まるが、再び追手の足音が廊下に響く。追いつかれそうになると、再び数匹のネズミが群れを離れた。
「あとは頼んだ!」
ネズミの群れは少しずつ欠けていったが、物陰から新たなネズミがあらわれて群れを補う。そうしてジャックはとうとう、城の尖塔まで逃げのびた。
ジャックはネズミたちの背中からそっと下ろされ、よろめきながら立ち上がった。
「お前たち、どうしてそこまでするんだ」
兵士に立ち向かった仲間たちは戻らない。しかし、ネズミたちは清々しい顔立ちをして、胸を張っていた。
「我ら獣の王にして、この世をお創りになった大神さまのご血族。この世に生きる獣であるならば、当然のおこないです」
「さあオオカミさま、ここから高貴なお方のいらっしゃるところへ行けますよ」
ネズミたちは、壁のすみにかけられたぼろ布をかじり取った。石壁に、ちょうど人間がひとり潜れそうな通路があらわれた。一匹の老いたネズミが通路に進む。
「さあ、ご案内いたします」
老いたネズミのあとにジャックが続き、そのあとにネズミの群れがぞろぞろと続いた。明かりが近づいてくると、老いたネズミはジャックをふり返って念をおした。
「王子にはお気をつけください。口にはできぬほど恐ろしい人間です」
通路の先は石壁になっていたが、ただ積まれただけの石はオオカミの体当たりで簡単に崩れた。暗い洞窟から抜け出ると、そこは雑多なクッションがあふれる部屋。その中央ちかくで、小麦色の肌をした少年が白い犬を撫でていた。ジャックは唸った。
「クラウド」
白い犬の耳が跳ね上がった。
「ジャック!」
少年の腕から抜け、クラウドはジャックに駆け寄った。暗灰色の首元に、真っ白な首が埋まる。
「無事だったか」
「無事でしたか」
同時に言った二匹の尻尾は機嫌よく揺れていた。
その様を眺めていた少年、サンゴルゴナ・サンジュストが億劫そうに立ち上がる。
「感動の再会だ」
それは、サンゴ王子からジャックに向けられた言葉だった。
「会いたかったよ、大神の最初の使徒。混沌と調律の……」
「オオカミさま、こちらへ早く!」
サンゴの言葉はネズミにさえぎられた。ジャックはクラウドの首根っこを噛んで通路へとうながす。どこまでも暗い洞窟のなか、後ろからサンゴの声が追いかけてきた。
「まだ右足一本……約束の時は近い。ほかの足も必要だ」
不気味にたわみながらジャックやクラウドの背に追いすがり、声は呪いのように彼らの耳に残響した。