ある怪物の骨の話
人気の失せた小さな村で、竃だけはいつものように灰色の煙を吐いていた。
神の森とうたわれたレヴァンネンダールは見るも無残な墨色をして、いまだにくすぶっている。その様を窓から眺め、駐屯地に残った兵士らはため息を吐いた。
「王都まで、馬で片道八日半かかるんだ。俺たちの引き上げがいつになることか、気が遠くなるな」
「そう言うなよ。交代の時間になったら麓の町で飲もうぜ」
「食料を買ってくるのを忘れないようにな」
話題が尽きると、二人はまた黒い森へ視線を戻した。
レヴァンネンダールの森をたたえる霊山の麓には、乗馬の産地として名高いサンジュスト西端の町、ウェスタ―ホースが栄えていた。国境に近く、関所の役割も果たす町には大きな役所があり、文官から武官までがそろっている。きな臭い雇われのガンマンは門の上にいるか、酒場にいるか、墓場にいるか。
その町に突然、黒い鎧の騎士が現れた。率いる兵団は、甲冑を騒がせて人払いをすると、霊山の西壁を一斉に銃撃した。町民にはまるで理解の及ばぬ行いだった。
「都から来た兵隊さんらはずいぶんにぎやかだね」
「崖崩れでも起きたらと思うと気が気じゃないよ」
追いたてられた人々は酒場に集い、いつの間にか設けられた派手な天幕を遠巻きに眺めていた。皆、知った顔を見合ってはため息を吐いた。
なかには、とうてい我慢のならない者も多かった。銃撃の後、見張りの兵士のもとへ町民が十人ばかり殺到した。
「おいおい、俺たちの町でなにをしようってんだ!」
「子細を明かすことはできない。危険なのでもっと下がるように!」
「そんなんじゃ納得いかねえよ!」
言い合っている最中、天幕から崖へと紫の稲妻が這った。鮮烈な光と雷鳴に、町民は慌てて逃げ惑う。追い討ちをかけるように、崖が逆三角の盾の形にひび割れ、岩の塊が降ってきた。地響きと土煙がおさまると、岩は塊のまま崖下へ突き刺さっていた。
不安がる町民を前に、兵士は槍の石突で地を叩き、若々しい声を張り上げた。
「ドレイク卿よりお言葉がある!」
天幕から、窮屈そうに黒い鎧の騎士が出てきた。頬はこけ、白髪交じりの傷んだような髪をしているが、おそらくまだ若い。きしむような頭を撫でつけて騎士が顔を上げると、銀の目があらわになった。
「魔法使いだ」
誰かがささやいた。
銀の目は魔法使いの証。常人ならざるもの。その力で傲り、サンジュストと争って敗北したという。以来、魔法使いは生まれながらにしてすべての人間のための奴隷と定められ、サンジュスト城の地下にのみ棲まうことを許された。
小さな雫が大きな波紋を生み、町民が固唾をのんで見守るなか、異様な風体の騎士ドレイクは口をひらいた。
「騒がせてすまない。王命である、兵らの指示に従ってくれ」
町民は沈黙し、羊のようにおとなしく兵士の導きに従った。誰もいなくなったその場所で、ドレイクは背に西日を浴び、影の落ちた顔でつぶやいた。
「神殺しはいつの時代も奴隷の役割だが……無垢な民衆をこの手で贄とするのは胸が痛む」
その独白に、そば近く控えている黒い馬が応えた。
「お優しいですな。何のために生かされているかも知らん、実に気楽な連中ですよ」
愉快そうにいななく馬に、ドレイクは首を振った。
「他者の目的のために生かされる命など、私だけで充分だ」
一方で、残った兵士らは岩山を仰いで呆然としていた。
「なんだ、あれ」
開いた口が塞がらない部下の肩に、そっと黒い革手袋が触れた。
「ドレイク様!」
「知らないほうがいい」
兵士らは青い顔でおずおずと頷いた。
岩壁には、巨大な獣の骨が埋まっていた。鼻面は長く、鋭い牙がしっかりと残っている。うつろに開いた口から今にも呪詛を吐き出しそうな不気味な骨、その正体こそ。
ドレイクは目を伏せた。
(呪わしい怪物フェンリル。お前がもたらすものは破滅か、救いか……)
太初、世界は獣のものであった。
獣の世に台頭した人間族は、賢く、強欲であった。人間は獣の土地を奪って繁栄を続けた。彼らの起こす火と鉄の武器は、あらゆる獣を殺すことができた。
膨れ上がる人間の王国の国境は、不気味な湿原に至った。この世のすべてを掌握しようという人間は、湿原で獣の長たる大怪物と対峙した。口を開けば天までとどく白い獣を、人間は湿原の怪物と呼び恐れた。
フェンリルは広大な湿原と針葉樹の森とを狩り場とし、火花の散る目をして、家畜から人間までをとらえては食った。幾度も怪物を討ちとろうと猛者が挑んだが、彼らはなべて鎧と得物だけを残して餌となった。戦士たちの残骸を抱くフェンリルの狩り場は、いつしか鉄の森と呼ばれた。
膠着状態のイアールンヴィズに、西の森に隠れ棲む魔法使いの一族が移り住んだ。彼らもまた獣たちと同じく、人間に追われて流れてきたのだった。魔法使いは不思議な力を使って人間を退け、獣たちを助けた。
国境の町は常に獣に脅かされ、多くの人間が犠牲となったが、誰もフェンリルを止めることができなかった。
人間の王は、まず魔法使いをとらえるよう命じた。隷属する呪い師や暗殺者による隠密部隊が放たれ、半数以上の魔法使いをとらえた。捕虜の中には寝返る者もあった。こうして王国は新たな奴隷を得た。
しかし奴隷の協力を得てなお、イアールンヴィズのフェンリルと、それにつき従う魔女レヴァンネンデールには敵わなかった。そこで王は軍隊に命じた。すべてを焼きはらって魔女レヴァンネンデールをあぶりだすように、と。
軍隊はイアールンヴィズをとり囲むと、いっせいに溶かした鉄を流しこんだ。鉄の上げる炎には、魔法の力はきかない。天をなめる炎に焼きだされ、レヴァンネンデールが森の外れから姿をあらわすと、兵士たちは鉄の矢を放って魔女をとらえた。すると炎のなかからフェンリルがあらわれ、哀しむように火花の散る双眸を閉じた。とたんに月と太陽が隠れ、世界じゅうが闇におおわれた。暗闇から混沌の獣が生まれ、軍隊の心を混乱で掻きみだした。
臆さず、暗闇で光るフェンリルの白い毛並みへ矢を射かける者もあった。しかしフェンリルがゆっくりとまばたきすると、たちまち風がおこって矢は退けられた。軍隊はレヴァンネンデールを引きだし、魔女を殺されたくなければ討たれよ、と脅した。フェンリルが吐いた息から慈愛の獣が生まれ、レヴァンネンデールの傷を癒そうとした。
軍隊は、奪われまいと鉄の剣と槍で魔女レヴァンネンデールを殺した。魔女は死の間際、人間の王に呪いを放った。いずれお前の血族に我が魂が宿るだろう、と。
フェンリルはおおいに怒り、哀しみ、咆哮から雷をおこし、唸りは地鳴りをおこした。雷の落ちた大地から破壊の獣が生まれ、軍隊を襲った。破壊の獣はいかに鉄で切り裂かれようと、貫かれようと、破壊することをやめなかった。
レヴァンネンデールがこと切れる直前に慈愛の獣が魔女を奪いかえすと、フェンリルはレヴァンネンデールをひとのみにしてしまった。
軍隊は散り々りになりながらも、三匹の獣を炎で遠ざけ、フェンリルを追い詰めた。しかしフェンリルは衰えることなく、残った軍隊のほとんどを食い殺してしまった。フェンリルが人間を食み、打ち鳴らした牙から、創造の獣が生まれた。奴隷の呪い師は自らの命を捧げ、創造の獣にとり憑いた。
とり憑かれた創造の獣は、月のはしご、世捨て人の金貨、魚の涙、鳥の三本目の足、雨の色を織りこんだ、ミスリル銀となめし革の口輪をつくり、フェンリルの口を封じた。これによって優勢となった軍隊は、弱ったフェンリルの目をえぐり、空に月と太陽とを戻した。
力の失せたフェンリルがその場に体を伏せると、死の風が起こって軍隊を包んだ。あやうく逃げた者は、三匹の獣がフェンリルとともに遠吠えをあげる様を見た。
大地が揺れた。混沌の獣が、なおも魔道具でフェンリルを阻もうとする創造の獣に食らいついた。二匹は組み合いながら森のなかへ消えた。イアールンヴィズはフェンリルを守るようにせり上がり、オオカミらは魔法使いの暮らした西の森へと逃げた。
西の森が大地からせり上がり、絶壁の円柱となるのを、そば近くの町の者が見ていた。フェンリルはやがて息絶え、慈愛と破壊、二匹のオオカミが墓守りとなった。生き延びた魔法使いの力持たぬ末裔は、フェンリルの死んだ森レヴァンネンダールのそばに小さな集落をつくり、森を守るようにひっそりと暮らした。
ことの顛末を王国に伝えた兵士たちはその日のうちに、オオカミの毒に冒されてひとり残らず息絶えたという。
――毒もつ獣の親玉は大食らい。
月と太陽はそいつの目玉。
丸ごと食われたくなければ、そいつの口をよく縛ることだ。
そして土深く埋め、重たい蓋をしておくことだ。
怪物と人間の争いが忘れ去られ、人間の敵が人間だけになった頃。野のオオカミが狩りのトロフィーとなり姿を消した頃。王国に変わり者の王子が生まれて、十五の誕生日に生け捕りのオオカミをねだった。
陸軍大佐モルゲンシュタインは、魔法使いの奴隷騎士をつかわせ、オオカミの生き残りが暮らす森をつきとめた。小さな集落の民は決して森にオオカミがいることを口にしなかったが、猟師と猟犬遣いを送りこむと、その存在が確認された。
王子の誕生日まで指折り数日、オオカミは着々と城に近づいている。
クラウドとジャックを連行するシラバル一行は、赤土の崖にさしかかっていた。森から離れて乾いた空気が再び湿ってくる。渓谷の下には希望と呼ばれる川が流れる。一行は石橋を渡り、対岸を目指した。
広々とした淵に、こけ生した岩のような生き物の背がいくつも泳いでいる。ジャックは三本足で檻にもたれ、欄干の下に見える緑の怪獣を眺めた。寄り添うようにクラウドも並ぶ。もの珍しそうに首をかしげるクラウドに、アッシュがニタニタ笑いながら言った。
「ワニだ。あいつら家畜や人間も襲って食うぜ」
わずかに足をすくめたクラウドを、ジャックが軽くこづいた。
「橋の上までは来ない。知ってるか? あいつら、鳥と同じ味がするんだぜ」
「食べたんですか?」
生つばを呑むクラウドに、ジャックは悪い顔で笑ったみせた。
「腹が減りゃ何でも食うさ。向こうもたぶん、そうだ」
ジャックはクラウドに寄りかかりながら身を伏せた。その暗灰色の背のむこうで、一匹のワニが岸にあがり、じっと行列を見送っていた。
がたり、ごとり、揺られて五日が経った。一行は大きな街に到着したが、城下町は遠い。
キセ、という街は一面白く塗られていて、道行く人々は一様に白い服を着ていた。隊列が止まると、白装束の人間がわっと檻に寄ってきた。彼らはジャックにもたれているクラウドを見て興奮した。
「見よ、高貴なお方だ!」「高貴なお方!」
「なんと美しい純白のお姿か。まるで天上の国からつかわされた神のようだ!」
クラウドが戸惑って身じろぎすると、かばうようにジャックが視線の間に入った。三つ足の黒い獣を指してどよめきが広がった。あれほど和やかだったキセの人々が、悪鬼のような形相になった。
「何なの、あれは! 黒い獣よ!」「悪魔だ!」
「あんな汚らわしい獣と高貴なお方を一緒にするだなんて許せない!」
「おかわいそうに、縛りつけられて動けないんだ」
哀れみと抗議の声が溢れる。
「なぜ高貴なお方を縛りつけているの?」「おかわいそうに」
「あれを外してさしあげなくては!」
怒れる群衆を制しながら、兵士は悲鳴をあげた。そこに、不機嫌なシラバルが大股で近寄ってきた。
「白ければ何でも神と崇める連中だ。正体がどんな化け物であろうとな」
シラバルは兵士の長銃をひったくると、空にむかって発砲した。群衆は叫び、静かになった。シラバルは忌々しそうに怒鳴った。
「この獣どもは王子への贈り物だ。じろじろ見おって、不敬だぞ!」
キセの人々はうなだれ、ちらちらとクラウドやジャックを見ながら散った。
シラバルは馬や車を点検させ、部下に指示を飛ばす。
「ここで馬を代えていく。急げば誕生祭までに荷物を届けられる」
「わかりました。おい皆、馬を代えろ! 休んでる暇はないぞ!」
隊列は準備を整えると、矢のようにキセを出発した。遠ざかっていく街からの視線を感じながら、ジャックとクラウドは荷馬車に揺られた。
シラバルらのすぐ後を、巨大な四つの檻を牽く隊列が休まずに行軍していた。先頭を行く黒馬が、背の主に語りかけた。
「さすがはウェスタ―ホースの馬。遅れは取り戻せそうですな」
「ああ、何としても儀式には間に合わせねば」
彼らが牽く檻の一つには土のついた巨大な骨が、他二つの檻には、ウェスタ―ホースの住民たちが、残る一つの檻には森を見守ってきた村人たちが載せられていた。騒がしいのはウェスタ―ホースの檻だけだ。ざわめきが絶えないが、もう叫ぶ元気のある者はいない。
「俺たちどうなるんだ」「どこに連れていかれるの」「喉がかわいたよ」
「僕たちと一緒に運ばれている、あの骨は何なんだ」
怯える人々に答える声はない。疲れ果てた生け贄たちは、飲まず食わずで夜もろくに眠れていない。
王都が近づくにつれ、日差しは強くなっていった。照りつける太陽から逃れる術もなく、ジャックは舌をだして喘いでいる。クラウドはジャックに日陰をゆずり、尾で風をおくってやった。
「大丈夫ですか、ジャック」
「今すぐ……穴掘って潜りてえよ…‥」
ぐったりする黒い毛並みに、容赦なく陽光の熱がたまっていく。
「暑すぎる……蜃気楼が見えるぜ」
砂っぽい荒野の向こうに、ぼんやりと背の高い白い建物が見えはじめた。目をしばたくジャックの隣で、クラウドはつらそうに顔をゆがめた。
「幻ではないようです」
眼前に迫るサンゴルゴナ=サンジュスト王子の象牙城。身震いして、クラウドはジャックに寄りそった。