出立
荷物をまとめるのに時間はかからなかった。
大した物も与えられていないので、持っていくのは最低限の小道具のみ。
令嬢だというのに、派手なドレスや宝飾の類は一つもない。
小さな鞄一つに詰め込めるくらい、持っていく荷物は少ない。
「こんな荷物で公爵様を不快にさせないかしら?」
高貴さの欠片もない身なりを見て、婚約破棄されてしまったらどうしよう。
しかし、悪い噂が流れているマイアを嫁に貰うくらいだ。
身なりなど気にしないかもしれない。
今回の婚約は絶対に破棄されてはならない。
マイアはこの家を離れて、一生戻らない腹積もりでいた。
公爵家に嫁ぐ以上は離縁しても慰謝料が出るだろうが、あまり下手な真似はできない。
「これで小屋ともお別れね」
いくら古びた小屋とはいえ、長年過ごした思い出深い土地。
もちろん思い出の大半は、侍女やコルディアに虐められた記憶なのだが。
「よーし……お母様、私がんばります!」
かじかむ手に「おまじない」をかけて、マイアは立ち上がった。
生まれ育って十六年。決して短い人生ではなかった。
今日から彼女は生まれ変わり、新しい人生を歩むことになる。
***
ハベリア家の正門でエドニアと共に待っていると、やがて街道から馬車が走って来た。
車を引くのは見事な毛並みの白馬。
車体は陶器のように綺麗な白磁で、黄金の装飾で紋様が刻まれていた。
「うむ、あの紋章はジョシュア公爵家で間違いないな」
馬車は正門の前で止まり、御者がマイアを迎え入れる。
豪華すぎる馬車に呆気に取られていた彼女だったが、エドニアに背中を押されて進み出る。
彼女を送り出すと同時、エドニアはマイアの耳元で囁いた。
「いいか、マイア。向こうに着いたらすぐに支度金を送るように、公爵様に申し上げるのだぞ」
「……承知しました」
エドニアがこうも金に執着しているのは、妻と娘の金遣いが荒いからだろう。
気に入ったドレスや宝飾品があれば迷うことなく買い、舞踏会に遊びに行く日々。
そんな母子のせいで財政が逼迫し、こうしてマイアを売りに出すこととなった。
公爵の後ろ盾を得れば、多少は財政が安定するだろうという目論見があった。
(……送りたくないわね。でも仕方ないわ)
本音を言えば、遊びに消える支度金など送りたくなかった。
領民のために使われるのならば喜んで送るが、どうせ碌な用途ではない。
しかし支度金を送らなければ、後で何と言われるかわからない。
これまでの人生で家族に服従する癖がついていたマイアにとって、支度金を送らないという選択肢はなかったのだ。
だが、この地獄のような伯爵家から出られるのだ。
考えれば、送金など苦ですらない。
マイアは満面の笑みを湛えて馬車に乗り込んだ。
***
馬車に揺られて街道を走る。
ハベリア家が治める、のどかな田園地帯を抜ける。
徐々に建物の数が増えていった。
そして公爵家の位置する都市の方面へ。
赤レンガの屋根を持つ家々が立ち並び、雑踏は人で溢れている。
マイアが都会に赴く機会はほとんどなかった。
妹のコルディアは都市に出て男遊びをしており、何度も自慢話を聞かされたものだ。
「すごい……!」
本当に活気に満ちている。
車窓からぐるぐると目を回していると、馬車が一つの建物に向かっていることがわかった。
──城だ。
白亜の城が徐々に近づいている。
あれがジョシュア公爵家。
そして……今日からマイアの住まいとなる場所だ。
あの狭い小屋から一転、広大な楽園へ。
問題は夫となるジョシュア公爵の性格だが……とりあえず食事さえ一日一食、与えてもらえれば構わない。
そんなことを考えていると、馬車が停止。
馬車から降りたマイアの視界には──とんでもない広さの庭園が広がっていた。